読書日記

いろいろな本のレビュー

ニュルンベルク合流 フイリップ・サンズ 白水社

2020-02-24 14:00:40 | Weblog
 ニュルンベルクはナチの党大会が行われた都市で、第二次世界大戦後は、国際軍事裁判所がドイツの主要戦争犯罪人22人に対して裁判を行った場所でもある。1946年に判決があり、12人に絞首刑、3人に終身刑が言い渡された。本書はこのニュルンベルク裁判を扱った内容で、そこに著者のフアミリーヒストリーを絡めるという重層的内容だ。著者の祖父レオン・ブフホルツはレンベルク(ウクライナ西部の都市)に生まれたユダヤ人で、迫害に苦しめられた。著者は祖父と家族の事跡をたどって、この時代のユダヤ人が受けた様々な困難を描く。そして同じレンベルクに生まれた二人の法律家、ハーシュ・ラウターパクトとラフアエル・レムキン、さらにナチの閣僚で法律家のハンス・フランク(彼は1942年8月、レンベルクに二日滞在していくつかの演説をした)の事跡を追って最後に三人がニュルンベルク裁判で合流するという仕掛けになっている。

 レンベルクにかかわる四人の人生を描く故、伝記四人分の分量になり、500ページを超える大部の本になった。白水社ならではの本である。レンベルクはリヴィウ、ルヴォフ、ルヴフ、レンベルクと1914年から1945年にかけて支配者が八回も変わった所で、激動の歴史を持つ。登場人物はハンス・フランクを除いてこの地で育ったユダヤ人である。

 ラウターパクトは国際法の専門家でケンブリッジ大学教授、ニュルンベルク裁判で「人道に対する罪」を初めて導入した。一方ラフアエル・レムキン(アメリカに亡命)は「ジェノサイド」という犯罪概念を作り出した法律家である。「ジェノサイド」も本裁判の起訴状に採用された。今では聞き慣れたこの二つの言葉も当時はまだ無名で、戦争裁判で戦勝国がこのような罪名で敗戦国の幹部を裁くこと可能なのかどうか疑問視された側面もある。「ジェノサイド」は「人道に対する罪」よりさらに強い意味を持ち、民族の絶滅を意味するものだが、ラウターパクトはこのレムキンの言葉に批判的だった。集団のアイデンティティーを、犠牲者としても加害者としても法律の問題として扱うことの危惧を持っていたのではないかと著者は推測する。
 
 ある集団を保護しようとする法律の意図が(ポーランド・マイナリティー条約がそうであったように)、急転直下激しい反動を生むのをラウターパクトはかつてレンベルクで目の当たりにしたのだ。部族主義が持つ強烈な力を強化するのではなくそれを制限するために、たまたま属している集団の素性などとは無関係に個人一人ひとりの保護を強化したいという願いによって動機づけられているのだ。集団ではなく、個人に重点を置くことによって、ラウターパクトは集団が相互に反目しあうエネルギーを減衰させようとした。それは合理的で啓蒙的、理想主義的な見解だったと著者はいう。よって一人ひとりの個人が、残虐行為を見て見ぬふりをせぬ法の下で保護される権利を有することになる。そして彼は被告人たちに的を絞っていく。自分たちの救命のために「国家のために行為した者は何らかの形で刑事責任から免除される」という通用しない時代遅れの国際法にすがる被告人を断罪する。被告人とりわけハンス・フランクはラウターパクトの家族の殺人に最も直接に関与していた男だった。フランクは直接には処刑に関与していなくても、「殲滅の罪」の「直接の代理人」だった。後のアイヒマン裁判でアイヒマンはただ命令に従っただけで自分は無実だと釈明したが、ラウターパクトの論では言い逃れできないことになる。結局フランクは絞首刑になった。

 ニュルンベルク裁判が終わった後、政界や公の議論の場所では。ジェノサイドという言葉が勢いを増してきて、ジェノサイドが「犯罪のなかの犯罪」と位置づけられるとともに、集団の保護の方が個人の保護よりも上位に位置づけられるようになったと著者はいう。しかし、ジェノサイドという犯罪を立証するのは難しく、その過程で犠牲者集団の連帯意識が強烈になる一方で、加害者集団に対する否定的感情が高まり、集団間の対立を激化させる可能性を高める危惧を否定できない。昨今のポピュリズムの跋扈と民族主義の台頭による世界の分断化を見るにつけ、今一度ラウターパクトの意見に耳を傾けるべきではないか。
 

 

教育格差ー 階層・地域・学歴 松岡亮二 ちくま新書

2020-02-06 11:06:39 | Weblog
 「格差社会」は現代の課題として大きな問題になっている。一部の人間が富を独占する半面、日々の糧に困窮する人間が余りに多い現実。それを解決するのが政治の役割だが、政治家にその気概はない。彼ら自身が手にした権力を行使して、民の税金をかすめ取っているのが現実だ。一方テレビでは、セレブの生活拝見とばかり、その豪勢な日常を視聴者に見せて、貧乏人の嫉妬を煽っている。金持ちが偉いという誤ったシグナルを流すテレビもテレビだが、それに同調してしまうコメンテーターの浅慮もひどい。

 一方で芸人・タレントが学歴を誇示して出場する狂乱怒涛のクイズ番組。芸人・タレントの中でも最近は学歴がものをいうご時世らしい。これからは漢字検定や一般教養試験の参考書を勉強してから芸能界に入らないといけなくなるかもしれない。もちろんこのような形で学歴(学校歴)信仰を刷り込んで、それがこどもの勉学意欲に繋がるとすれば、それはそれで意味があるのかも知れない。

 片や、子ども虐待のニュースが日常的に流れる。我が子、あるいは連れ子を虐待する親は総じて若い。しかも父が無職という報道が多い。経済的に困窮する中で行なわれる暴力。子どもに暴力をふるう親は自分もかつて被害者だった場合が多いと識者は指摘する。まさに負のスパイラルで、彼らにとって結婚はいかなる意味を持つのだろうか。親に虐待されて死んだ子どもは教育を受ける以前に他界したわけだから、本書の教育格差云々以前の問題である。これも本書のいう階層の問題であろう。ここに政治の目を向けなければ虐待は無くならない。

 本書は出身家庭と地域によって子どもの最終学歴は違ってきて、それが収入・職業・健康などさまざまな格差の基礎だという。現状、日本は「生まれ」で人生の可能性・選択肢が大きく左右される「緩やかな身分社会」だということを様々な統計で説明している。「社会経済的地位」(SES)がキーワードで、これが高いと子どもの学歴が高くなるということだ。当たり前と言えば当たり前で、アメリカの名門大学を見ればすぐわかる。高い授業料を支払える階層しか行けないのだ。著者曰く、「社会経済的地位」が高いと親は「意図的な教育」が可能になる。すなわち習い事とか、塾通いとか、海外旅行、読書・音楽指導等々、文化的な厚みでもって競争を勝ち抜くことができる。この議論を親が大学出かそうでないかによって調査した統計をもとに説明している。昔であれば、親の学歴で人生が決まるということをいうと、人権問題だと糾弾される恐れがあったが、時代も変わったものだと感慨深い。

 逆に「意図的な教育」を受けられない子どもは太刀打ちできないことになる。昔は「家貧しくして孝子出づ」で、家は貧乏でも学力優秀な子どもはいたが、今はその出現率が低い。モーターボートレースのようにスタートでほぼ勝負が決まってしまう。これをどうするかが喫緊の課題である。

 著者はこの「社会経済的地位」(SES)の子どもたちの可能性に投資することで、勉強を諦めて競争の場から退場していた層が再び参入できるようにすることが必要だ、そのために「みんな」が欲しがる「椅子の数」(有名高校・大学、人気企業の採用数等々)を巡って厳しい奪い合いが起こるかも知れないが、社会の活性化に繋がる利点があると説く。

 教育改革は政治家が好んで使う言葉だが、著者はこの現実を踏まえた上での政策が必須だという。そして教員も「社会経済的地位」の恩恵を受けて来た階層と言えるので、教育格差を学ばずに教員免許状取得が可能な現状を改め、「教育格差」を必修科目にすべしと提言している。著者の提言が一日も早く実現することを願う。