読書日記

いろいろな本のレビュー

逆説の日本史25 井沢元彦 小学館

2020-08-23 09:41:15 | Weblog
 副題は「明治風雲篇 日英同盟と黄禍論の謎」であるが、重点は第一章と第二章の「明治の文化大変革」にあると思う。著者は明治時代に起こった日本語廃止論(日本語を廃止して英語を国語にする)を取り上げ、ある意味合理的な議論だと理解を示す。その論拠として、三種類の文字(漢字・ひらがな・カタカナ)の文字を混ぜ合わせねば文章が書けない日本語は「あらゆる意味で非能率的」というものがあげられている。暴論だと思うが、このような考えを平気で持ち出す著者の気が知れない。そしてこの議論を高島俊男氏の『漢字と日本人』(文芸春秋)の引用だけで済ましているのも問題だ。

 そもそも漢字とひらがな交じりの日本語の表記は、昔我々の先祖が漢文を翻訳するために原文に訓点(返り点・送り仮名・句読点)を付けたことから始まっており、苦労して中国文明を咀嚼しようとした苦労の歴史の痕跡である。それが漢文書き下し文となって定着したものだ。この表記法は非常に優れたものだという言語学者の評価がある。よって非能率故、廃止してローマ字表記にした方がよいというのは歴史学者を自任する著者らしくないと言えよう。なんか議論が浅薄なのだ。結局ローマ字表記法が採用されなかったのは、韓国が漢字を廃止してハングル一本に絞った結果、表記が冗漫になって非能率を絵にかいた状況が生まれたことに対する反省が大きいが、結局は、「言霊信仰」によるもので、日本語の「霊力」を削ぐことに対する反対が強かったからだという結論を用意している。

 このシリーズの著者の使うキーワードは、言霊、怨霊、ケガレ、朱子学の弊害等で、これらを思いつきで、歴史の場面場面に当てはめている感がある。さらに事柄の説明に、世界百科大辞典等の辞典を引用しているのも大きな特徴である。従って本書を歴史書として評価することは難しいであろう。大体日本史学者が基本的に学習した古文書の解読術も身につけていない素人が、4つか5つのキーワードで歴史を裁断することは難しいだろう。飽くまでも週刊誌の娯楽的読み物であって、学術論文ではないことを認識すべきだ。

 この点に関して、第四章の特別編が面白い。『応仁の乱』(中公新書 2016)で有名な日本史学者の呉座勇一氏が、井沢氏の諸作について、「評論の必要はない」「推理小説家に戻るべき」等の言葉で、批判したことについて、著者は、専門馬鹿が歴史の本質を見誤らせている、資料絶対主義は間違いだ等の言葉で強く反論しているが、どうも反論になっていない気がする。

 別の場所で、呉座氏は本書のような「俗流歴史本」は、資料に基づかない想像を交えており、学問的な批判に耐えるものではない。結論ありきで強引に怨霊やケガレに結び付けるのは学問ではない。想像の翼を広げて「歴史のロマン」を楽しむことと、歴史を学ぶことは明確に区別すべきである。などと批判しているが、正鵠を得た言葉だと思う。『日本史面白話』ぐらいの気持ちで書けば良いと思うがどうだろうか。

東條英機 一ノ瀬俊也 文春新書

2020-08-15 11:36:07 | Weblog
 本日2020年8月15日は、75回目の終戦記念日だ。本書は約一か月前に刊行された。東條英機は戦時中首相を務め、戦後は戦犯として東京裁判にかけられ、絞首刑に処せられた。日本を戦争の泥沼に引き込み、国民に多大の犠牲を強いた悪役としての位置づけが定まったいる感が強いが、本書は彼の再評価を目指すもので類書にはない試みである。それは腰巻の写真を見ればよく分かる。軍帽をかぶり左手に軍刀を配し、軍服にありったけの勲章を付けて座る晴れがましいもので、陸軍大学卒のエリートの姿を強く印象付ける。

 その再評価の中身を著者は次のように言っている、曰く、東條は軍人、戦争指導者として1930年代以降、航空戦と総力戦を相当に重視し、それを国民に語りかけてもいた。東條の行動の背後には、彼なりの戦争指導者としての自己意識や使命感があったのである。「総力戦」指導者としての東條の実像を、その発言や行動に基づき明らかにすることが、本書の目的であると。

 東條英機は陸軍大学校一期生であった父英教の息子として1884(明治17年)年7月30日、東京に生まれた。陸軍幼年学校から陸軍士官学校、浪人して陸軍大学に入学した。才気煥発というのではなく、愚直に努力する直球勝負の人柄だった。その英機の年代記を簡潔にまとめて、陸軍内の人間関係や、海軍との関係をくっきり描き出しているところはさすがというべきだ。海軍が対米戦争に二の足を踏んでいるときに、これでは「総力戦」は無理だ。強国アメリカ相手に普通に戦えば負けるに決まっている。その中で、戦艦を中心とした戦いではなく、航空母艦を中心にした航空戦が重要になるという認識を持っていた。特に1943年から1944年にかけての対米戦争が、陸海軍ともに飛行機とその量主体の総力戦と化していた現実が根拠になっていた。

 しかしアメリカの航空機の数は日本をはるかに凌駕するものであるがゆえに、その不足は精神力で補う必要があるというのが有名な東條の精神論である。1944(昭和19)年3月、少年飛行兵に向かって「敵機は精神力で墜とすのである」と訓示したが、著者によると、これは東條が「生命がけ」の精神力が、空母や戦艦、飛行機などの物的戦力の欠くべからざる補完物とみなし始めていたことを表わすという。つまり、東條は(日本の物資力+精神力)で(米国の物資力)を克服して勝つという発想に傾きつつあった。このような直線的ともいえる認識を持つ参謀総長の下で、参謀本部は44年3月、航空機による体当たり攻撃---特攻の実施を決定する。従って陸軍における航空特攻作戦導入の主たる責任は東條にある。東條たちの率いた日本陸海軍の異様さは、飛行機というモノの「数量」不足に由来する対米戦争の劣勢を、特攻というヒトの精神力・生命でおぎなおうという、悪い意味での合理的な発想をごく自然に形成し、躊躇なく実行したことにあったと手厳しい評価を下している。著者の東條に特攻導入の責任ありという見解は初めて聞いたが、だとすると愚直に努力する直球勝負の人柄が悪い方に発揮されたことになる。「航空戦重視」をしていたとはいえ、これは戦争前に陸海軍が共通認識として持つべきもので、敗戦に傾きかけていた時期にいくら言っても後の祭りである。

 また東條は降伏直前のメモに「自分は国家に対する国民の忠誠心に期待して戦争を始めたのだが、こんなにも指導者と国民が無気力だ」とは思わなかった、それを読み切れなかった自分が愚かであったと、この一点に限り、指導者としての責任を認め、「申し訳なき限り」と天皇と国民に謝罪している。国民を総力戦遂行の同志と見て、生活状況を知るため平服で「ゴミ箱」視察などをして一体化を目指してきたが、裏切られたという思いが強かった。戦犯として裁かれる前にピストル自決を図ったが失敗。批判が沸き起こったが、裁判では日本の正当性を主張するという著者のいう最後の演技に臨んだ。演技を終えた東條は急速に仏道に帰依し、念仏を唱えながら処刑されたとある。これが演技だったとしたら相当の役者だと言える。すべてを恩讐のかなたに追いやった最期を演出したとしたらそれなりに見事と言える。合掌。