本書は国語学者の大野晋の生涯を綴ったもの。大野氏といえば、日本語の源流はインドのタミル語だという説を発表して学会に衝撃を与えた人物だが、氏の逝去と共にこの議論はすっかり下火になってしまった。去るものは日々に疎しを実感する次第である。氏は東京の深川の生まれ。典型的な下町の江戸っ子で、山月記の李徴ではないが、性狷介、自ら恃むところすこぶる厚くという人物であったようだ。本書はしかし、氏に対して非常に好意的に記述している。
深川生まれの砂糖屋のせがれが学問に志して、外の世界に触れていく時の軋轢とどう戦ったかというところが、本書の面白いところだ。開成中学二年の時に、山の手の早稲田諏訪町の同級生の家に遊びに行った時、書物がたくさん並べられた部屋、夕食に出された、深めの皿の中で、ジャガイモと牛肉の塊が乳白色の液体にどっしりと身を沈めているカレーとは違う料理、食べるとめちゃめちゃ美味しい。クリームシチューと言うんだよと教えられた時の屈辱感は大いに同感できる。また別の日に大久保の友人宅に行くと、友人の母親に三つ指ついて「お早いお出ましで」と言われたときの衝撃。さらに同級生が母親のことを「お母様」と呼ぶのにも驚いた。下町では母親のことは、男の子は「かあちゃん」といい、女の子は「おっ母さん」と呼ぶ。呼ばれた母親は「あいよ」と答える。大野家でもそうだった。同じ東京でこうも違う生活があるのかという驚き。大野少年のその後の学会での孤高の戦いを予感させるエピソードである。貧乏人のせがれが苦労して第一高等学校に入学したのはいいが、ここでも周りは山手の富裕層の生徒が多く、文化的厚みの中で育って来た彼らのサロン的雰囲気に馴染めない。これは永遠のテーマで現在の大学生活でも文化的格差問題は存在する。猛勉強して有名に大学合格したのはいいが、入って見ると余裕で入試に合格し、音楽・絵画・読書・海外生活・外国語・別荘等々持てる者の生活をバックにして人生を謳歌している生徒がいるのを発見して衝撃を受けるというパターンだ。中にはそれがもとで、劣等感に苛まれて中退という例もあるようだ。勉強を大学入試に特化して生きてきたものにとっては辛い現実だが、もともと間違ったことをやってきたのだからしょがない。学問は基本的に無償の行為なのだ。
大野氏はその劣等感を学問の世界で精進するエネルギーに変えて、学会で名を成した。その努力は素晴らしいと思う。いろいろ毀誉褒貶の多い人だったが、一時代を築いたという意味で当分の間、記憶に残るだろう。
深川生まれの砂糖屋のせがれが学問に志して、外の世界に触れていく時の軋轢とどう戦ったかというところが、本書の面白いところだ。開成中学二年の時に、山の手の早稲田諏訪町の同級生の家に遊びに行った時、書物がたくさん並べられた部屋、夕食に出された、深めの皿の中で、ジャガイモと牛肉の塊が乳白色の液体にどっしりと身を沈めているカレーとは違う料理、食べるとめちゃめちゃ美味しい。クリームシチューと言うんだよと教えられた時の屈辱感は大いに同感できる。また別の日に大久保の友人宅に行くと、友人の母親に三つ指ついて「お早いお出ましで」と言われたときの衝撃。さらに同級生が母親のことを「お母様」と呼ぶのにも驚いた。下町では母親のことは、男の子は「かあちゃん」といい、女の子は「おっ母さん」と呼ぶ。呼ばれた母親は「あいよ」と答える。大野家でもそうだった。同じ東京でこうも違う生活があるのかという驚き。大野少年のその後の学会での孤高の戦いを予感させるエピソードである。貧乏人のせがれが苦労して第一高等学校に入学したのはいいが、ここでも周りは山手の富裕層の生徒が多く、文化的厚みの中で育って来た彼らのサロン的雰囲気に馴染めない。これは永遠のテーマで現在の大学生活でも文化的格差問題は存在する。猛勉強して有名に大学合格したのはいいが、入って見ると余裕で入試に合格し、音楽・絵画・読書・海外生活・外国語・別荘等々持てる者の生活をバックにして人生を謳歌している生徒がいるのを発見して衝撃を受けるというパターンだ。中にはそれがもとで、劣等感に苛まれて中退という例もあるようだ。勉強を大学入試に特化して生きてきたものにとっては辛い現実だが、もともと間違ったことをやってきたのだからしょがない。学問は基本的に無償の行為なのだ。
大野氏はその劣等感を学問の世界で精進するエネルギーに変えて、学会で名を成した。その努力は素晴らしいと思う。いろいろ毀誉褒貶の多い人だったが、一時代を築いたという意味で当分の間、記憶に残るだろう。