読書日記

いろいろな本のレビュー

孤高 川村二郎 東京書籍

2010-03-27 08:44:34 | Weblog
 本書は国語学者の大野晋の生涯を綴ったもの。大野氏といえば、日本語の源流はインドのタミル語だという説を発表して学会に衝撃を与えた人物だが、氏の逝去と共にこの議論はすっかり下火になってしまった。去るものは日々に疎しを実感する次第である。氏は東京の深川の生まれ。典型的な下町の江戸っ子で、山月記の李徴ではないが、性狷介、自ら恃むところすこぶる厚くという人物であったようだ。本書はしかし、氏に対して非常に好意的に記述している。
 深川生まれの砂糖屋のせがれが学問に志して、外の世界に触れていく時の軋轢とどう戦ったかというところが、本書の面白いところだ。開成中学二年の時に、山の手の早稲田諏訪町の同級生の家に遊びに行った時、書物がたくさん並べられた部屋、夕食に出された、深めの皿の中で、ジャガイモと牛肉の塊が乳白色の液体にどっしりと身を沈めているカレーとは違う料理、食べるとめちゃめちゃ美味しい。クリームシチューと言うんだよと教えられた時の屈辱感は大いに同感できる。また別の日に大久保の友人宅に行くと、友人の母親に三つ指ついて「お早いお出ましで」と言われたときの衝撃。さらに同級生が母親のことを「お母様」と呼ぶのにも驚いた。下町では母親のことは、男の子は「かあちゃん」といい、女の子は「おっ母さん」と呼ぶ。呼ばれた母親は「あいよ」と答える。大野家でもそうだった。同じ東京でこうも違う生活があるのかという驚き。大野少年のその後の学会での孤高の戦いを予感させるエピソードである。貧乏人のせがれが苦労して第一高等学校に入学したのはいいが、ここでも周りは山手の富裕層の生徒が多く、文化的厚みの中で育って来た彼らのサロン的雰囲気に馴染めない。これは永遠のテーマで現在の大学生活でも文化的格差問題は存在する。猛勉強して有名に大学合格したのはいいが、入って見ると余裕で入試に合格し、音楽・絵画・読書・海外生活・外国語・別荘等々持てる者の生活をバックにして人生を謳歌している生徒がいるのを発見して衝撃を受けるというパターンだ。中にはそれがもとで、劣等感に苛まれて中退という例もあるようだ。勉強を大学入試に特化して生きてきたものにとっては辛い現実だが、もともと間違ったことをやってきたのだからしょがない。学問は基本的に無償の行為なのだ。
 大野氏はその劣等感を学問の世界で精進するエネルギーに変えて、学会で名を成した。その努力は素晴らしいと思う。いろいろ毀誉褒貶の多い人だったが、一時代を築いたという意味で当分の間、記憶に残るだろう。

民主主義がアフリカ経済を殺す ポール・コリアー 日経BP社

2010-03-19 21:31:06 | Weblog
 原題は「Wars,Guns,and Votes」で副題が「Democracy in Dangerouse Places」
これが「民主主義がアフリカ経済を殺す」(最底辺の10億人の国で起きている真実)と変わっている。翻訳のマジックと言うべきか。確かにアフリカの圧政部族国家にどう民主主義を根付かせるかという事は議論されているが、どう転んだらあのようなタイトルがつけられるのか。売るためにはこれぐらいのハッタリが必要なのだろう。本書が最底辺と位置づけた国は、アフガニスタン、アンゴラ、アゼルバイジャン、ベニン、ブータン、ボリビア、ブルキナフアソ ブルンジ、カンボジア、カメルーン、中央アフリカ共和国、チャド、コロモ、コンゴ民主共和国、コンゴ共和国、コートジボワール、ジブチ、赤道ギニア、エリトリア、エチオピア、ガンビア、ガーナ、ガイアナ、ハイチ、カザフスタン、ケニア、北朝鮮、キルギス、ラオス、レソト、リベリア、マダガスカル、マラウイ、マリ、モーリタニア、モルドバである。これらを民主化するのは並大抵ではない。
 アフリカ諸国では民族間の闘争をどう解決するかが課題だと言う。著者曰く、「社会はその構成員が複数のアイデンティティーを持っているときに、きわめて健全に機能しうるが、問題が生じるのはそうした副次的アイデンティティーに対する忠誠心が、国家全体に対する忠誠心をしのぐ場合である」と。その通りだ。さすれば、これをどう解決すれば良いのかということだが、著者はタンザニアのニエレレ大統領が採用した、政治的リーダーシップによる民族国家としてのアイデンティティーの構築を挙げている。具体的には汎アフリカ主義を民族国家アイデンティティーと同じぐらい強調して共通の国民意識を育み、民族の権利はその国民意識の創出の上に成り立つ制度に支えられることを悟らせたのだ。民主的選挙制度はこういうプロセスを経て初めて実効あるものとなる。選挙が部族間の利益を獲得する争いになって、流血の騒動になるのはこのようなプロセスを経ないためである。民族闘争を止揚するもう一つの課題は国家のアカウンタビリティー(責任)だ。チエック・アンド・バランスが機能していれば、国内グループ同士の競合があっても、連邦国家を公平に保てる。それは帰属意識の共有ではなく、構成しているグループ同士が相互に猜疑心を抱いており、けれども不利益を避けるためにアカウンタビリティーの構成を利用できるからだ。こうした社会は居心地は悪いが、存在能力があると著者は言う。カナダやベルギーがこれに当たる。みんな仲良くというメッセージは多民族国家では意味がないことがこの説明で腑に落ちる。いわば消去法的共存で、論語的発想が感じられる。何はともあれ、キーワードはアカウンタビリティーである。

魅惑する帝国 田野大輔 名古屋大学出版会

2010-03-13 08:15:25 | Weblog

魅惑する帝国 田野大輔 名古屋大学出版会



 副題は「政治の美学化とナチズム」。この言葉はヴァルター・ベンヤミンの「複製技術の時代における芸術作品」という論文で、フアシズムを「政治の美学化」と規定した部分の引用だ。ベンヤミン曰く、「所有関係を変革する権利のある大衆に対して、フアシズムはそれを温存させたまま、彼らに表現の機会を与えようとする。従って、フアシズムは政治生活の美学化に行き着く。大衆を征服して、彼らを指導者崇拝のなかでふみにじることと、機構を征服して、礼拝的価値を作り出すためにそれを利用することは、表裏一体をなしている。」と。これはナチズムの美的支配に対する説明として多くの研究者によって用いられてきたが、著者は「政治の美学化」をプロパガンダという言葉で一面的に理解し、大衆操作やイデオロギー統制の問題にナチズムの本質を還元してきた従来の研究に対して批判的な立場に立つ。それは「政治の美学化」を「政治=芸術」の位相で把握しようとするものである。第三帝国を一つの「芸術作品」として見ることで、新たな国家像が見えてくる仕組みである。
 まずはナチの党大会の分析から始まる。人民をブロック(石)と規定し、ヒトラーは石工だ。何十万という大衆が石のように並べられ、総統の演説を聞く。この党大会は厳しい縛りで強制された大衆が参加していたのかと思いきや、そうでは無いらしい。日当が支払われたが、退屈な思いで参加した者も多かったようだ。実際党大会が形骸化してきて大衆は退屈し、そのために娯楽化して行き遂には1939年で中止になったのである。プロパガンダの舞台裏はこのようなもので、大衆の意識をすべて統制できていなかったのだ。掲載された多くの写真がこれを物語っている。開催地のニュルンベルクはお祭り騒ぎで、蚤の市も開かれていた。いわば民衆の祭典だ。このような状況下で、1943年宣伝相のゲッペルスは近代の技術的成果の中に新しい帝国の威信の表現を見出す。それは「鋼鉄のロマン主義」と謳われた。ヒトラーの遺産と言われるアウトバーンにフォルクスワーゲンのようなモータリゼーションもこの流れに入るだろう。ゲッペルスによればナチ的な意味での政治家とは伝統的な芸術の枠組みを超えて、民族そのもの、国家そのものを「芸術作品」として造形する芸術家であった。
 近代的技術国家を推進させる労働を支える大衆に要求されるのは強力な肉体である。その肉体の鍛錬には何が必要かといえば、スポーツである。ヒトラーによるベルリンオリンピックの開催はスポーツ振興の流れで理解することが大切だ。またヒトラーは存命中に自分の彫像を作らせなかったが、これはスターリンと対照的である。それは平均的な市民道徳を身につけ、民心への配慮を怠らなかったヒトラーにとって、自分の彫像を建てるような行為は悪趣味で、政治的にも全く意味がなかった。こういう世俗的なカリスマによる支配をリチャード・セネットは「親密さの専制」と呼んでいる。そこではマスメディアを通じて演出される親密さが人々の注意を政治から政治家に向け、魅力的な個性に感情を注ぎ込むよう方向をそらす。それは安定した平和的な支配であるが、現実の問題を隠蔽している点で危機の原因になっていると彼は言う。これを受けて著者は「ヒトラーそのものに特別な意味はなく、彼に意味を付与したのは民衆だった。ヒトラーを取り巻いた親密さのイメージは笑顔に満ちた政治家が支配する社会に対して警鐘を鳴らしている」と現代政治の本質に言及している。鋭い分析だと思う。ナチスは極悪人ヒトラーの一人の責任で戦争を起こしたのではない。政治はすべての人間を含む総体として考えなければならないという視点をこの書は提供してくれている。力作である。なお最近「毎日出版文化賞」を受賞した田中純氏の『政治の美学』は「ナチズムと美学」からさらに「政治権力と表象」という広いテーマを扱っている。本書より少し読みにくいが、これも力作だ。
 
 

節約の王道 林望 日経新書

2010-03-07 21:19:16 | Weblog
 『イギリスはおいしい』でお馴染みのリンボウ先生こと林望氏の節約指南の書だ。こういう本はあまり買わないのだが、「金をおろすなら、3万4千円に限る」という腰巻の宣伝文句につられて買ってしまった。なかなかうまい文句だ。千円札を混ぜておくと節約になるらしい。1万円は崩すとすぐになくなるのは実感として確かに同感できる。氏は大学の教員をいつの間にか辞めて、文筆業に専念しているようだ。従って、節約を旨とする生き方が宮仕え時代よりも一段と厳しさを増しているような感じだ。節約と吝嗇は違うとか、なるほどという例がたくさんあげられている。以下、印象に残った部分を列挙してみよう。
 一 「安全運転していれば車両保険は不要。保険料が高いので、貯金して事故の場合はそれで充当させればよい。」同感。 
 二 「ゴルフなどやらずに、家で過ごす。これが究極の節約で家庭円満の秘訣。」家庭円満はともかく、家で読書がいいと私は思う。
 三 「本は借りて読むな、買って読め。」私は手元不如意なので、借りることが多いが、大事だと思う本は買うことにしている。
 四 「住む場所のブランドにはこだわるな。」六本木ヒルズのような都会の真ん中に建つタワーマンションに暮らす連中が月200~300万円の家賃を払って得意満面でテレビに出ているが、虚しいことだと一刀両断。それをやるなら社会福祉に寄付をして陰徳を積めとのたまう。同感。
 五 「病気にならないことが何よりの節約である。」飲酒・喫煙による健康被害に要注意とのたまう。夕食時に痛飲してカロリーの高いおかずをたくさん食べたらそりゃ身体に悪い。夕食が2~3時間も続けば自滅行為に等しいと私も常々思っている。同感。
 六 「死から逆算して、将来プランを立てる。」人は死から逃れられないと知っているのに、自分だけは死なないと思っている。兼好法師も死は人の背後から迫っているのに人はそれに無頓着だとおっしゃっている。老後の資金を貯めねばと頑張っている人に突然死が訪れる。死ねばお札はただの紙切れだ。著者曰く「明日死んでもでもかまわない。」と言えるほど、一生懸命に生き、一生懸命に仕事をすることです。家族を養い、世のため人のためになる仕事を精一杯やって、それで倒れたのなら、もう仕方がないと納得できます。それ以上ほかに、人生のやりようがあるでしょうかと。上手くまとめていただきました。何か平成の福沢諭吉という感じ。因みに林氏は慶応義塾大学の出身です。
 林氏は現在60歳、人生を謳歌している様子が垣間見れて羨ましい限り。私も自分のスタイルを確立したいと思うようになりました。買って損のない本です。著者も本は買うもんだと言ってました。本当に上手く乗せられた感じです。

ヒトラーの秘密図書館 ティモシー・ライバック 文藝春秋

2010-03-06 10:37:36 | Weblog

ヒトラーの秘密図書館 ティモシー・ライバック 文藝春秋



 まずヒトラーがこれほどの読書家だったとは知らなかった。14000冊の蔵書の内、半数は軍事に関わるもので、詰め込んだ知識で対立する将軍と渡り合おうとしたらしい。本書は彼の蔵書の一部(1200冊)がアメリカ議会図書館希少図書部の書庫に収蔵されていたのだが、それを調査しヒトラーの人間形成に影響を与えた書物を年代順に紹介したものである。
 ヒトラーといえば反ユダヤ思想だが、32歳の時、ドイツ労働者党の集会に参加して縁で、作家ディートリッヒ・エッカートと知り合い彼の反ユダヤ思想に影響を受けるようになる。二人は師弟関係を結ぶが、二人の問答を記録したと思われるエッカートの晩年の作『対話』において以下のような問答が展開されている。
 ユダヤ人の集団的越権行為とカトリック教会の失策を非難して曰く、免罪符の販売は明らかに「ユダヤ人の習慣」である。「600万人の男」の血をドイツに流させ、「数万の子供たち」をしに追いやったと言われている十字軍は、ユダヤ人の発明である、云々。ヒトラーは逆上して言う、「大した宗教だ!この汚わいへの耽溺、この憎悪、この悪意、この傲慢、この偽善、このペテン、この詐欺と殺害への煽動ーーこれが宗教なのか?それなら、悪魔自身こそが最も宗教的だったことになる。これこそユダヤの本質、ユダヤの性格なのだ。以上!」
 エッカートが答える、「それに対する意見をルターは至極平明に述べている。シナゴーグとユダヤ人学校を焼き払い、その残骸の上に土を盛って、礎石も灰も二度と誰の目にも触れないようにせよ、と彼は促している。」
 ヒトラーが付け加える、「シナゴーグを焼き払ったところで、何の役にも立たなかっただろう。結局のところはこうだ。もし仮に、シナゴーグもユダヤ人学校も、旧約聖書もタルムードも存在しなかったとしても、ユダヤ的精神はやはり存在しただろうし、その影響は及んでいただろう。」
 この問答の中に後のユダヤ人絶滅作戦の萌芽を見て取れる。このエッカートが1921年にヒトラーに贈ったのが『戯曲ペール・ギュント』である。『ペール・ギュント』はイプセンの書いた「北欧のフアウスト」物語で、主人公ペール・ギュントが、若さゆえの思い上がりに胸を膨らませ、「世界の王」になろうという野望を抱いてノルウエーの寒村から広い世界に出て行くという話だ。エッカートはヒトラーのアジテイションの能力、反ユダヤ思想、権力への意思等を見て将来頭角を現すと読んだのだろう。恐怖の独裁者の誕生の第一歩である。
 またアメリカを移民制限に導いたマディソン・グランドの『偉大な人種の物語』は、ヒトラーの『聖書』となり、ナチスが政権をとると、ユダヤ人根絶計画の礎となった。読書によって思想が形成され、それが信念になったときが最も恐い。他人の意見を受け入れない不寛容が公然化するからだ。ヒトラーによる災禍は歴史が証明する通りだ。ちなみにベルリン陥落前夜、ヒトラーが読んだのはトマス・カーライルの『フリードリヒ大王』だ。フリードリヒはかつてのプロイセン王。敵国の女王が死に辛くも命を救われた奇跡の大王で、ヒトラーは彼に自分の身を重ねたが、奇跡は起きなかった。1945年4月、、ベルリンの地下壕内で妻のエバ・ブラウンと共に自決して果てた。