読書日記

いろいろな本のレビュー

次男坊たちの江戸時代  

2008-04-27 08:11:11 | Weblog


次男坊たちの江戸時代  松田敬之  吉川弘文館
 サブタイトルに公家社会の厄介者とある。お公家さんは階級社会の上位に位置し気楽に過ごせたと思うのだが、次男、三男たちは結構厳しかったようだ。彼らは親や兄に扶養される「厄介」と呼ばれる存在で、そのまま一生を終わる者、幸運にも養子先のあった者、養子先を廃嫡された者、いろいろだったようだ。江戸時代は跡継ぎが優遇された時代、武家の場合はよく話題になるが、公家に関する研究は少なく、話題としては大変におもしろい。まあ次男、三男はスペアみたいなもので、長男が無事成長して家を継げばまさに「厄介者」になるわけで、彼らの処遇には気を遣ったであろう。
 本書は彼らの人生を具体的な資料をもとに解説してあり、大変わかりやすい。公家社会における厄介たちも、すべてが悲惨な人生を送ったわけではなく、多種多様。成功者もいれば、失敗者もいる。逆に、長男だからといって安穏な人生を送れたわけでもない。まさに人生いろいろという感じ。人生はそれほど単純ではない。

四字熟語物語  

2008-04-25 22:02:02 | Weblog


四字熟語物語  田部井文雄  大修館書店
 温故知新、四面楚歌、明眸皓歯など有名な四字熟語の出典を説明したもので、前著「四字熟語辞典」の要約版のようなもの。著者は前千葉大学教授で中国文学の研究者である。六朝から唐代までの詩文を専門にしている。この出典を読むだけでも漢文のエッセンスが勉強できて非常に有益だ。漢文は大学入試でも出題されなくなっている。ほとんどの私立大学では古典を入試科目にしていても「漢文は除く」となっているのが普通。関西では関大と立命が漢文を出題しているが、関学、同志社はやっていない。漢文を課すと受験生が敬遠して応募者が少なくなるという計算が働いているようだ。全くけしからん話である。漢文の論語、史記、唐詩などは中国の古典というよりもはや日本の古典なのである。そこらへんのことがわかっていない人間が多すぎる。国立大学でも京大は漢文を出題しない。吉川幸次郎以来の伝統を誇る大学がなぜ漢文をださないのか。その理由を説明して欲しいものだ。
 一つだけコメントすると、「山紫水明」は「山が日に映えて紫色に見え、川の水が澄んで透き通って見えること」の意だが、これは江戸時代後期の漢学者、頼山陽の造語である。「題自画山水詩」の「黄葉青林 小欄に対す 最も佳し 山紫水明の間」が出典で、これを京都の草堂でものし、その草堂に「山紫水明処」と名づけたと田部井先生は説明されている。この「山紫水明」は見延典子氏の「頼山陽」によると唐代の詩人、王勃の「煙光凝而暮山紫」(煙光凝りて暮山紫なり)と杜甫の「残夜水明楼」(残夜水楼を明らかにす)を出典にしているということだが、私自身は出典の詩に直接当たっていないので、この説について云々できないのは残念だ。でもこの小説は「激情の人、頼山陽」を余す処なく描いた佳作である。是非一読されたい。  



アメリカ弱者革命  

2008-04-25 19:37:39 | Weblog


アメリカ弱者革命  堤未果  海鳴社
 競争社会アメリカの光と影についてはさまざまの著作があるが、これは影についてのルポルタージュである。第一部はアメリカ大統領選の投票不正問題に抗議するジョン・B・ケニーのハンストに同行した時の報告。電子式投票機械の導入に伴う票の数え間違いの危険性を追求する。およそ文明国で投票の厳正さを保持できないとは信じられないことである。現大統領のブッシュはマイアミの不正投票で当選したと言われている。本書には貧困層が投票所に赴いたさいに投票を拒否された話が載っており、これで当選した大統領はどこぞの独裁国家の大将と変わらない。民主主義が泣いている。
 第二部は貧困層の若者がアメリカ軍のリクルーターにスカウトされる話。未来の無い閉塞感に悩む若者に言葉巧みに近づき、美味い話で契約書にサインさせ、イラクの送って人殺しさせる。構造的に弱者が苦しむようになっているのだ。日本人はこの状況をもっと知るべきだ。帰還兵は戦場でのトラウマでまともな人生を送れなくなるのだ。これはアフリカの内戦で反政府軍が少年を拉致して教育し、殺人マシーンにするのと同じだ。これらの弱者がこの国で革命を起こせるのだろうか。懐の深さを誇るアメリカのことだから、弱者をいつまでも弱者で放置しない社会的正義が実現されることを願うばかりだ。クリントンとオバマの対決はその意味で注目せざるをえない。彼らの主張に注目しよう。そうすればアメリカの問題点が理解できる。テレビのスポーツコーナーで大リーグでの日本選手の活躍に一喜一憂しているだけではダメだ。自戒を込めて。



かけがえのない人間  

2008-04-22 22:12:34 | Weblog



かけがえのない人間  上田紀行  講談社現代新書
 著者は49歳の文化人類学者で東工大の准教授。スリランカで「悪魔祓い」のフィールドワークを行い、著書において「癒し」の観点を最も早くから提示。新聞・テレビ等のメディアで日本社会変革の提言を行っていると紹介されている。本書でダライ・ラマとの対談のもようも紹介されているので、仏教に関しても造詣が深いのだろう。
 全編愛と思いやりの大切さが説かれ、宗教家の言説に近い。「愛されるよりも愛する人になる。かけがえのない人間への道がそこにあるのです」という文句で締めくくられているが、オジさんの感覚でいうとなんとなくしらけてしまうのですよ。これって「日本を美しくする会」のお掃除の実践と同じじゃないかっておもうわけ。
 著者が本気で日本社会変革を目指すならば、象牙の塔(懐かしい言葉)から打って出て、一宗教者としてカリスマになったほうが手っ取り早いと思う。それにふさわしい出自と経験をお持ちだ。わたしなぞ、孔子様の「己の欲せざるところ、人に施すこと勿れ」という東洋哲学の流儀の親しんだものから見ると「愛だ。愛することだ。」というホットなメッセージは眉に唾して聞くべきものと考えている。

「心」が支配される日  

2008-04-21 19:39:38 | Weblog


「心」が支配される日  斉藤貴男  筑摩書房 
 本書の腰巻に「国ぐるみの規模で心がコントロールされる実態」とあるのに興味を抱いて購入した。第一章「心で生産性を高める」は治安対策やビジネスの現場で利用される消費者や労働者の「心」のルポ。某会社の経営者が「日本を美しくする会」を作って文字通り社員を動員して街をきれいに掃除する。そして社員の心も美しくするというもの。以前学校現場でも掃除によって子供を鍛えるという実践報告があったが、それの会社版である。たしかに掃除は成果が目にみえるので達成感があるが、きれいな社会が住みやすいか否かは不明だ。そう簡単なものではない。
 第二章は教師たちの間で話題の道徳教材「心のノート」を基軸に「心」が学校現場でどう扱われているのかを描いている。道徳は教えられるのかという素朴な疑問があるのだが、文科省はこのノートを使って義務制の小中で実施させている。その中学校のテキストには「美しい言葉がある。美しい四季がある。そして、、、、、」これは「わが国を愛しその発展を願う」というページだが、どこかの首相が言っていた事とそっくりでただナショナリズムを喚起しているだけのような気がする。最近の子供のマナーの欠如は私も感じないわけではないが、それは経済的な問題も大いに関係していると思われる。まずは経済格差による貧困層の問題等、為政者がやるべきことは他にある。「衣食足りて礼節を知る」 この言葉のもつ意味をもう一度考えるべきだ。
 心が集団化されるとは国家がカルト化することで、カリスマの指導者が待望されることだ。それを阻止できるかどうか、この国の民度が試されている。



江戸の媚薬術  

2008-04-20 09:58:11 | Weblog


江戸の媚薬術  渡辺信一郎 新潮選書
 本書は「江戸の閨房術」「江戸の性愛術」に続く第三弾である。今回は江戸の元祖バイアグラを豊富な図版と古川柳を交えて紹介している。江戸の庶民は、性を楽しむ秘薬・惚れ薬の分野でも世界の最先端を行っていたらしい。「たけり丸」「床の海」「寝乱髪」「帆柱丸」「女悦丸」名前を聞くだけで効いてきそうな感じである。
 内容の具体的解説はできないが、江戸時代のサブカルチャーとも言うべき性の文化の奥深さは驚嘆に値する。武士が威張って庶民は小さくなって過ごしていたということは絶対ありえないことがわかる。さまざまの抑圧に苦しむ現代人から見ても、生きる喜びを謳歌している点はうらやましい限りだ。「あべこべさ長命丸で死ぬと言い」、このようなバレ句を読むとなんだかほっとする。退廃と紙一重の爛熟の美酒か。
 ところでの著者の渡辺氏は既に故人となっておられるが、経歴を見ると江戸庶民文化ならびに古川柳研究者で元都立高校校長とある。さぞかし洒脱な学校運営をされたことであろう。

おれちん(現代的唯我独尊のかたち) 

2008-04-19 11:25:51 | Weblog

おれちん(現代的唯我独尊のかたち) 小倉紀蔵 朝日新書
 著者によれば、「おれちん」とは「おれさま」プラス「ぼくちん」のことで、「自分は偉い」と思っているが、自分を「偉い」と認めてくれる共同体が必要なのにもかかわらず、最初から共同体の存在を認めておらず、その自己意識が空回りしている人のことらしい。たとえば小泉純一郎前総理のような人が典型だという。共同体の支えがなく、自己正当化の論理だけを主張する手合いは日常のあらゆる場面に登場する。私は前々から電車などの公共の場で、純粋に個人的な話題を大声で喋っている連中に疑問を感じていたが、「共同体から切れている」という著者の指摘で、その理由が理解できた。傍若無人の所以は共同体からの離脱だったのだ。
 このような手合いが人の上に立って政治を行うと民は塗炭の苦しみを味わうことになる。大阪府知事の橋下徹を見よ。1100億円の予算削減をやらなければ大阪府は壊れると言い募り、我慢をお願いします云々を繰り返している。これを本気でやったら弱者は確実に死を宣告される。庶民の日々の暮らしに対する実感が欠如している。テレビという虚構の中で繰り返していたいい気な発言を政治の場で再現することの愚を犯している。まさに誰もが喜ばないことを唯我独尊的に自己主張するデリカシーの無さに唖然とするばかり。予算削減はアプリオリのものとしてあるのではない。
 こういう人物を選んだ民衆の民度の低さも問題だ。知事を批判すると知事をいじめるなというメールが殺到するらしい。こういう手合いがはびこるのも憂慮すべき状況だ。独裁者、全体主義者が現れるメカニズムの一部をこの国は内包している。


西南戦争  

2008-04-15 20:55:42 | Weblog
 

西南戦争  小川原正道  中公新書
 近代日本最大の内戦である西南戦争、その反乱軍の盟主である西郷隆盛の動向を柱に、熊本城籠城戦、田原坂の戦いをはじめ、九州各地での戦闘を丹念に追い、その実態と背景を明らかにしたものである。細部に渡って調べられているが、記述がなんとなく単調で少々退屈したことは否めない。野口武彦であればもっとサービス精神に富んだ書き方をするのになあと思わず比較してしまった。
 西郷隆盛を語る場合は小説にした方が断然精彩を帯びてくることは確かだ。司馬遼太郎然り、津本陽然り。大久保利通との確執、決起の大義名分等々、内面に入り込んで描くのが最も適している。素材が小説向きなのだ。
 しかし本書も終章に近づくにつれ、俄然筆致がさえてくる。とくに終章の「西郷伝説と託された理想」は素晴らしい。その中で上野の西郷像が、当初は馬上の軍服姿が予定されていたが、「平生好んで山野に遊猟する時の形状」にならい、あの単衣に脇差、犬を連れた姿に定まったが、反逆者の経歴ゆえに軍服は避けられたという話は面白い。また皇居正門外の予定だった設置場所が上野に変更されたのもその経歴のためらしい。ちなみに上野は江戸を鬼門から見る位置にある。

幕末不戦派軍記  

2008-04-13 10:55:38 | Weblog
 

幕末不戦派軍記  野口武彦  講談社

 幕末のどさくさで、幕府武具奉行同心から撤兵並勤方に配置換えされ、幕府が瓦解してからは失業同然になった、矢部次郎、筒井千之助、中西関次郎、北村喜三郎の四人を主人公にして、彼らを上野彰義隊、日光戦争、奥羽戦乱、函館五稜郭の戦乱場面に出場させて、のんべでスケベでやる気のない幕府下級役人の目を通して戦争の悲惨さと悲しさそして愚かさを描いたセミフイクションである。
 明治維新成立前の官軍と幕府軍の戦闘は函館五稜郭の戦いで終結した。指揮官の榎本武揚、大鳥圭介の言動は軽薄のそしりを免れず、彼らの元で戦死した兵隊は犬死の観がある。五稜郭の戦いも敗色濃厚となった時の兵士達の厭戦気分は人間として当然で、にもかかわらず、体面を整えるために戦闘続行を唱える榎本武揚の姿は滑稽そのもの。指揮官の通弊と言えるが、その後太平洋戦争に突入していく歴史を見るにつけ思い半ばに過ぎるものがある。
 彼ら四人はいわば庶民の象徴で日々の生活の中にささやかな幸福を求めようとしているのである。戦争はいかなる大義があろうとも、結局庶民の幸福を奪うものでしかないということを声高にではなく、さりげなく言っているところに作者の教養を感じる。庶民は馬鹿じゃない。

ルーマニア・マンホール生活者たちの記録  早坂 隆  中公文庫

2008-04-07 20:50:11 | Weblog

ルーマニア・マンホール生活者たちの記録  早坂 隆  中公文庫
 チャウシェスク体制崩壊後のルーマニアでは、ストリートチルドレンの一部がマンホールでの生活を強いられていた。著者はマンホールに単身乗り込み、シンナーを吸ったり、結婚し、子どもまでつくっている生活の様子を取材した、本書はその記録である。
 チャウシェスクは夫人とともに射殺され、あわれな最期を遂げたが、その映像が世界中に発信され大きな衝撃を与えた。独裁者の最後はこうなるという典型であった。これを見た北朝鮮の金正日は大いにびびったと伝えられている。今のところ彼が吊るされたという話は聞かないので体制はどうにか維持されているのだろう。
 他人の不幸を見て沸き起こる感情を幸福というらしいが(ビアスの悪魔の辞典)、この本を読んだ時の感じもこれに近い。いわば高みの見物だ。社会の底辺では戦場と同様、人間の悪なる面が露呈する。弱者どうしのいがみあい、ロマ(ジプシー)に対する露骨な差別。ここには善良な市民の姿は窺えない。国家の体をなしていないのだ。このような現実の前に我々は何をなすべきなのだろう。国際交流と人は言うが、それは飽くまで「衣食足りて礼節を知っ」たもの同士の関係ではないのかという本質的な問いかけがなされている。ところで、日本の平和はいつまで続くのだろう。天下泰平、平和ボケ、内向きの絆。テレビのバラエティ番組、成金たちの教養のなさを見よ。危うきかな日本。