読書日記

いろいろな本のレビュー

朴槿恵の真実 呉善花 文春新書

2015-09-25 09:30:13 | Weblog
 副題は「悲しき反日プリンセス」だ。朴槿恵は故朴正熙大統領の娘で、就任当時は親日政策を実行するのかと期待されたが、今まで以上に反日的で日本人を落胆させた。父母は暗殺され、本人も暗殺未遂を経験し悲劇のプリンセスというイメージが強い。本人のはかなげな微笑もそれを助長している感がある。それにしても韓国はなぜ「過去清算」と「反日」にこだわるのか。歴代の大統領ははなぜその桎梏から逃れられないのか。この問題に関しては従来からいろんなアプローチが試みられてきた。儒教的・朱子学的リゴリズムによる事大主義と小国主義等々。本書はその社会原理を心理学的に探った所に特徴がある。
 著者は産経新聞お抱えの右派の論客だと認識するが、韓国を離れ日本に帰化するまでの事情を斟酌すると発言にはそれなりの真実が含まれており、傾聴すべきものが多い。特に漢字を廃止してハングル一辺倒にしてしまった文化政策に対する批判は正鵠を得ていたと思う。最近の慰安婦少女像をアメリカのあちこちに建設する運動とか、日本国内で韓国人によって盗まれた仏像を、これはもともと韓国渡来のものゆえ返還できないとか、さらに太平洋戦争以前の親日派を暴きだして財産を没収する等々、理解に苦しむ対応が我々を不安にさせる。この点、まだ中国の方がわかりやすい。中国は近代以前の王朝的帝国主義なのだから。
 著者によると、反日行為を担なっているのは、「代償的擬似健常者」的心理だと言う。この言葉は精神医学者中井久夫氏が著書で述べているのだが、「正常・健常者」と言われる人のなかには、病気からほど遠い余裕のある人だけではなく、「他者に依存したり他者や社会を攻撃すること」によって、自らの精神衛生を維持している人達が多数いるということらしい。これは韓国にキリスト教徒が多いということの説明にもなっている。即ち神の民ユダヤ人、神の子イエスがそうだったように、我々はどんな罪もない善なる民族なのに、私はどんな罪もない正しい人間なのに、なぜ迫害されなくてはならなのか。そのように思いを向けるところに、韓国人の多くがキリスト教に惹かれる大きな理由がある。「恨」の文化がキリスト教と結びついたのだ。この「恨」は「火病」(フアッピョン)を引き起こしていると著者は言う、「火病」とは「韓国人にだけ現れる珍しい現象で、不安・うつ病・身体異常などが複合的に現れる怒り症候群」だと。個人が精神的疾患を患うことはふつうにあることだが、民族がある病を患うと言うのはなかなか理解が難しい。しかし激情に駆られて行動する人々の姿を見ると、長い抑圧の歴史の中で芽生えた病理であるのかもしれない。
 朴槿恵大統領はこのような国民情緒を軸に国家を運営する指導者であると著者は断言している。この国民情緒はグローバリズムとは相いれず、外交のかじ取りは困難を極める。韓国の近代化は遠いと言わねばならない。
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京都ぎらい 井上章一 朝日新書

2015-09-22 09:47:54 | Weblog
 井上氏は建築家出身の研究者で著作も多い。近年朝日放送の「おはようコール」のコメンテーターを務めていた。氏の京都弁は他のコメンテーターの関西弁とは一線を画しており、京都人の矜持を表しているのかなと思っていた。ところが井上氏は京都人の中でも「洛中」の人ではなく、「洛外」嵯峨の人であり、「洛中人」から「ええか君、嵯峨は京都とちがうんやで」とさげすまれてきたという。その代表的なエピソードが冒頭にある。井上氏が学生時代に、旧杉本家の調査に訪れたとき、九代目当主の杉本秀太郎氏(著述家)が彼の京都弁が気になって、「君、どこの子や」と尋ねるた。井上氏が「嵯峨から来ました」というと、「昔、あのあたりにいるお百姓さんが、うちへよう肥をくみにきてくれたんや」と言ったという。この言い回しの中には、嵯峨を田舎とバカにする意味があったと井上氏は感じたのである。ことほど左様に「洛中人」の中華意識は強い。
 今回井上氏が「洛外人」であることは初めて知った。「京都は王城の地でっさかい」は京都人の他国に対する優越感の表明として有名だが、同じ京都市内でもこのような「洛中人」至上主義があるとは、本当に面白い。実際京都市内に住んだものでなければわからない微妙な差別意識である。この京都人の差別意識を考えると、部落差別・在日朝鮮人差別のような問題も隠微な感じで語られる可能性があってなかなか難しい問題と言えそうだ。著者はこの問題に言及していないが、感じていることは多いと思う。
 その京都で有名なお寺の坊さんと舞子さんの実態は誠に京都らしいと言うか、なにか突き抜けた感じがしてある種の感動を覚える。即ち坊さんが京都の花柳界を支える大事なお得意さんだということである。この点を井上氏はシニカルに語っている。坊さんにとっては、仏の道も色の道も両方大事だということらしい。
 後半は井上氏の地元嵯峨の名刹天龍寺の話題で、足利尊氏が後醍醐天皇を祀ったのは、後醍醐天皇の鎮魂のためという内容。後醍醐天皇は内乱のはじまった三年後に病死したが、最期まで、足利尊氏の打倒と京都への復帰を思い描いていたという。こういう人物は怨霊となって、たたりをもたらす可能性があると当時の人々は考えたのである。梅原猛が『隠された十字架』で法隆寺を聖徳太子の鎮魂の寺だと論じたように。この鎮魂の話題から、靖国神社へと繋がっていく。靖国は官軍のために死んだものを祀るだけで、反官軍の死者は祀られていない。佐幕派の会津藩、西南戦争の西郷隆盛等々、中世までの怨霊思想に従えば、敵の霊を手厚く祀るべきなのにである。この靖国神社に政府高官は参拝して亡き英霊に尊崇の念を表したといつも言うが、京都人の井上氏からすると、ぽっと出の神社が何をすんねんということらしい。さらに国旗・国歌、日の丸や君が代に伝統を感じる人間にも訝しさを覚えるという。あんなもの東京が首都になってからうかびあがった新出来の象徴にすぎず、伝統もくそもないと。「京都人」の面目躍如たるものがある。
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中国臓器狩り デービッド・マタス デービッド・キルガー  アスペクト

2015-09-05 13:58:43 | Weblog
 中国では死刑囚の臓器を移植に使っている。もちろん本人の同意を得ると言うようなことはしていない。本書はこの臓器移植に法輪功信者のものを使って外国人に移植手術をして数十億ドル規模のビジネスをしたことを告発している。法輪功信者は不法に拘束され拷問を受けた挙句、生きたまま臓器を摘出されたと言う。その数数万人。これはナチのホロコーストに匹敵する人道に対する罪だと著者は言う。二人はカナダ人の弁護士で、中国政府のやり方に対して細かく分析を加えており、ほぼ事実であることを読者に納得させる。
 法輪功が公に活動するようになったのは、1992年5月から、李洪志が中国吉林省で最初に講法を行なったのがきっかけである。当初は中国政府にもその健康効果が認められ、瞬く間に中国中に広まり、七千万人まで膨れ上がった。そもそも、法輪功は明確な組織体系を持っておらず、入会手続きも会費も不要、ただ単に定期的に公園や広場で行なわれている修練場所に参加するだけであるらしい。1996年6月の光明日報が批判的な記事を掲載したが大したことはなかった。本格的になったのは1999年からである。天津教育学院が発行する『青少年博覧』誌が法輪功のことを「学習者は精神病をきたす」「義和団のような亡国団体」と批判、法輪功学習者は天津教育学院前で抗議行動を行ない、該当記事の削除を求めた。天津市公安局は45人の法輪功学習者を逮捕した。そして4月25日、法輪功学習者一万人が抗議のために指導部のいる中南海でデモを行なった。江沢民はこれに激怒し、7月19日に中国全土で法輪功禁止令が公布され、中国共産党は「邪教」(カルト)に指定した。以後弾圧が繰り返され、逮捕した学習者を拷問し、最後は生きたまま臓器を摘出したというわけである。
 江沢民の指令でかくも多くの人々が無残な死を強制されたことは誠に慙愧の念に堪えない。しかも医師団がこの蛮行に加担して反省がないところに現代の中国の病巣が表れている。「生きるに値しない命」とはかつてナチが優生主義を標榜したときに使ったフレーズだが、公安と結託した病院が金もうけのために罪を犯しているのである。中央政府の決定をさらに都合よく解釈して至福をこやす構造が表面化している。
 著者は言う、法輪功には、「眞・善・忍」という三つのシンプルな原則がある。片や共産党による支配を言葉で表現するとしたら、「不誠実・残酷・不寛容」になるだろう。法輪功は、この中国共産党による過酷な支配を背景にして生まれてきた。これらの間違った行いを二度と繰り返してはいけないという宣言でもあったと。中国共産党の本質を見事に言い表したもので、痛快である。昨日の抗日70年記念の軍事パレードは中国共産党の断末魔の咆哮であった。北朝鮮がまともに見えて来るほどの習近平のパフオーマンスであった。任期終了までもつのだろうか。


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