韓国哲学の専門家で京大教授の小倉氏が京都の市中を逍遥して、ゆかりの人物の魂と交感するという内容だ。冒頭に鈴木大拙の『日本的霊性』から、「法然・親鸞にこそ日本で最初の真の霊性が発現したのであって、万葉や古今や源氏の世界はいまだ霊性のレベルに到達していないこころの動きだ」という一節を引いて、歴史上の人物との交感に必要な霊性のありようについて自説を披歴しているのがポイントである。作者曰く、第一のいのち=生物学的生命・肉体的生命 第二のいのち=霊的生命・普遍的生命 第三のいのち=偶発的生命・間主観的生命と分類したうえで、私としては、この京都という場所で、大拙のいう「日本的霊性」が、私のいう〈第三のいのち〉のかたちをとって炸裂する/炸裂した「現場」を、とらまえたい。そのために逍遥するのだと。この設定によって、本書はただの「京都文学散歩」と一線を画すことになった。ただ一読して、「第三のいのち」が今一つ分かりにくいのは確かだ。
取り上げられた人物は、鈴木大拙から始まって、高橋和巳、伊藤静雄、和辻哲郎、九鬼周造、西田幾多郎、柳宗悦、尹東柱、桓武天皇、塚本邦雄、三島由紀夫等々、その著作や歴史的評価にも及んでおり、博識ぶりが発揮され面白い。
その京都はかつて天皇が住む王城の地であり、町衆が独特の文化を育んできた地でもある。そのヒエラルキーは著者によれば「襞のように複雑で細かい」のだ。よって下層民は自分たちよりさらに下層な人々を差別し、その差別された人々はさらに下層な人々を差別する。この襞のような序列の構造が京都だと喝破している。井上章一氏が『京都ぎらい』でいう、洛中の人が嵯峨の人を蔑視するのとは違う、「語られえない場所」についての蔑視のベクトルが存在する。その場所を逍遥して観光客でにぎわう街とは対極の差別に苦しんできた人々の生活に思いをはせる。「竹田の子守唄」の意味を知って歌っている人はどれくらいいるのだろうかということだ。このレポは著者のような非京都人でなければできなかったであろう。
本書の腰巻に『京都ぎらい』に書かれなかった「奥深き京都」と謳っているが、「襞のような序列の構造」の内部に「語られえない場所」を持つと表現した著者はさすがである。井上氏の『京都ぎらい』と同じぐらい売れたらすごいのに。
取り上げられた人物は、鈴木大拙から始まって、高橋和巳、伊藤静雄、和辻哲郎、九鬼周造、西田幾多郎、柳宗悦、尹東柱、桓武天皇、塚本邦雄、三島由紀夫等々、その著作や歴史的評価にも及んでおり、博識ぶりが発揮され面白い。
その京都はかつて天皇が住む王城の地であり、町衆が独特の文化を育んできた地でもある。そのヒエラルキーは著者によれば「襞のように複雑で細かい」のだ。よって下層民は自分たちよりさらに下層な人々を差別し、その差別された人々はさらに下層な人々を差別する。この襞のような序列の構造が京都だと喝破している。井上章一氏が『京都ぎらい』でいう、洛中の人が嵯峨の人を蔑視するのとは違う、「語られえない場所」についての蔑視のベクトルが存在する。その場所を逍遥して観光客でにぎわう街とは対極の差別に苦しんできた人々の生活に思いをはせる。「竹田の子守唄」の意味を知って歌っている人はどれくらいいるのだろうかということだ。このレポは著者のような非京都人でなければできなかったであろう。
本書の腰巻に『京都ぎらい』に書かれなかった「奥深き京都」と謳っているが、「襞のような序列の構造」の内部に「語られえない場所」を持つと表現した著者はさすがである。井上氏の『京都ぎらい』と同じぐらい売れたらすごいのに。