読書日記

いろいろな本のレビュー

チャイナ・ナイン 遠藤誉 朝日新聞出版

2012-11-27 09:50:08 | Weblog
 チャイナ・ナインとは中国共産党政治局常務委員のことで、今回の共産党大会で習近平が国家主席に選ばれ、彼を含む常務委員は9人から7人に減った。これはトップの意思決定を迅速にするためであるという。この常務委員に誰がなるのかを予測したもので、本年2月に刊行された。予測はほぼ的中して、胡錦濤派は李克強副首相だけで、後は江沢民派と目されるが、7人以外の政治局員には胡錦濤派が多く、5年後に政権を共産主義青年団上がりのメンバーが握る可能性が高い。胡錦濤は今回江沢民の院政を阻止するために、自身が完全引退するという最強のカードを切った。彼の強い意志を感じる。今回政治局員になるはずだった薄煕来は汚職と妻の殺人事件、そして毛沢東主義を掲げたことで、失脚した。しかし彼が重慶で実践した「革命家を歌おう」という運動は、燎原の火のように広がり、一時は胡錦濤政権を揺るがしかねない危機を孕んでいた。著者によれば中国では「革命度が低い」というのが弱点として指摘されるので、薄煕来に一目置かざるを得なかったらしい。これを中国語で「紅色度」と言う。
 著者は戦前の旧満州国に渡り、終戦後も中国に残り、国共戦争を経て、中華人民共和国の成立を目の当たりにした経歴を持つ。従ってその人脈を生かした情報による記述は大変説得力があり、類書の追随を許さない。自信にあふれた書きぶりで、最初私は男性だとばかり思っていたが、実は女性だった。あとがきにある経歴を見ると余人には想像もできない悲惨な体験をくぐりぬけたようだ。それは1948年の共産党軍と国民党軍の闘いで、共産党の八路軍が長春の国民党軍を包囲して兵糧攻めにした時、市民も囲いの中に閉じ込め封鎖した。このため30万人の市民(日本人を含む)が餓死したという事件である。著者は危うく難を逃れたが、その囲いをチャーズと言い、著者はそのいきさつを本にまとめている。『チャーズ』(1984年読売新聞社)がそれである。共産党軍の残虐性が指摘されているが、これを指示したのが、毛沢東である。彼の人命軽視の性向ががよく表れている。毛沢東主義を復活させてはならないという胡錦濤指導部が薄煕来を斬った理由がよくわかる。

大坂落城 戦国終焉の舞台 渡邊大門 角川選書

2012-11-18 10:42:01 | Weblog
 慶長五年(1600)の関ヶ原合戦から慶長二十年(1615)の豊臣家滅亡までの歴史を、徳川家康と豊臣家という対立の構図の中で描いたもの。特に大坂の陣の定説として語られる「家康謀略史観」についての疑義を表明して、それを打ち消しているところが本書の特徴である。
 著者によれば、関ヶ原合戦以降、家康の目的は秀頼をいかにして、ほかの大名と同様に配下に収めるかにあった。従来は家康が豊臣家の滅亡を企図して着々と準備を進めたとされる。そのことは方広寺鐘銘事件での老獪な手法で秀頼を翻弄したことで、より鮮明に印象付けられている。しかし、徳川方は豊臣家を大坂冬の陣で潰すことなく、和睦によって解決を図ろうとした。潰そうとすれば、潰せたにも関わらずである。
 大坂の陣で家康が提示した条件は次の通り、
 ①淀殿を江戸へ人質として送ること、②秀頼が大坂から他の場所へ移ること、③大坂城に籠城した浪人衆を追い出すこと、の3点に集約できる。家康からすれば、豊臣家が指示に従い、言うことを聞けば、むやみに争う気はなかった。しかし、結果は①と②は家康は譲歩して、③の徹底を求めたが、豊臣側にこれを確約する姿勢がなく、やむを得ず滅ぼさざるを得なかった。豊臣家が臣従を潔しとしなかったことが滅亡につながった。これが本書の結論である。
 まあ、位人臣を極めた豊臣家にはそれなりのプライドがあり、かつての家臣に従属する屈辱を味わうよりは滅んだほうがましという美学が働いたことは理解できる。これを機に戦国時代の終焉と定義する所以は、徳川方から排除された浪人衆、彼らは戦場で活躍したが、これで終わりにを迎えた。また、多くの信者を獲得したキリシタンも家康の迫害にあって終わりを迎えた。以後は徳川幕府の強力な治世によって、長い「平和」な時代が続く。
 それにしても徳川家康という人物の我慢強さ、執着心には驚きを禁じ得ない。本書で詳細に紹介されている方広寺鐘銘事件での豊臣家に対する揺さぶりは、彼の人となりを彷彿させて興味が尽きない。古今東西の独裁者の系譜に十分入る資質を備えている。
 

北朝鮮14号管理所からの脱出 ブレイン・ハーデン 白水社

2012-11-13 15:50:47 | Weblog
 白水社は人権抑圧をテーマにしたものが多く、私の好みの本屋だが、今回は北朝鮮の強制収容所から脱走した青年の人生にスポットを当てる。14号管理所とは政治犯収容所で、青年の名はシン・イングンと言い、この収容所に生まれた。北朝鮮のそれは収容された男女が結婚することを許され、産まれた子どもは収容所の中の学校で教育を受ける。教育と言っても囚人としての強制労働のかたわら行なわれるもので、普通の学校とは一線を画す。ここでは保衛員と言われる監視官が絶対的権力を持ち、日々収容者の労働や子どもの教育に当たる。収容者は彼らの奴隷と言ってもよく、女性の囚人は殆どと言っていいくらい彼らの性的暴行の対象になる。ゲットーにおけるゲシュタポのような存在である。
 シン・イングンの母と兄が脱走を図り、死刑に処せられた。兄は銃殺、母は絞首刑で、それを目の前で父と共にに見せられた。身内を処刑されることはこの上ない悲しみであるが、イングンは、はじめ、規則を破って脱走を図った母と兄の行為そのものを憎んだ。収容所の規則を破ったのだから死刑になるのは当然と考えたからである。これはいわば、収容所内の教育の成果であったといえる。母と兄の脱走に関して保衛員から「知っていたのだろう」等々、拷問されるが、身に覚えがないと突っぱねた。収容所内で自殺は禁止され、もしやれば罪は一族に及ぶので、なかなか実行できない。イングンの場合もそうであった。この連座制は人権抑圧の装置として普遍的に存在するもので、人間の良心を破壊する怖ろしいものだ。
 イングンはその後、別の囚人と脱走し、中国に逃げて2年、その後、韓国で4年、そしてアメリカに渡り、そこの人権団体「北朝鮮に自由を」の上級使節になった。著者との出会いはここで実現した。その時、処刑された母と兄に対する本当の気持ち、即ち掛け替えのない家族を失ったという喪失感が実感できたのである。イングンを始めとして脱北者は、北朝鮮の人権抑圧を告発する役割を担っているのだが、彼らの多くは「汚れたアイデンティティー」を抱えたまま人生を歩んで行き、「恥辱と自己嫌悪と挫折感にとらわれている」ようだ。「 」はジュディス・ルイス・ハーマン『心的外傷と回復』からの著者の引用(この本はみすず書房から翻訳が出ている)。脱北者が他国の生活に順応できない所以である。
 政治犯の名の元に、収容所で体制批判分子を抑圧・殺傷する人権抑圧装置を使い続け、体制維持を図る北朝鮮に未来は無い。
 

私はホロコーストを見た ヤン・カルスキ 白水社

2012-11-03 08:51:52 | Weblog
 ヤン・カルスキは1914年、ポーランドのウイッテに生まれ、ルヴフの大学に入学して法律と国際外交を学んだ。卒業後外務省に入省。入省間もない1939年夏、予備役将校として動員された。ドイツ軍の電撃作戦で彼の部隊は壊滅状態になり、東に遁走したが、今度はソビエト軍に捉えられてラーゲリに移送された。しかし1939年の独ソ不可侵条約の規定で、占領下ドイツに併合された地域出身のポーランド兵士はドイツの準国民と見なされて捕虜交換の対象となることが分かった。そしてソ連赤軍からナチス・ドイツの捕虜になり、占領下のポーランドに戻り、そのまま強制収容所に入れられるも、脱走し占領下のワルシャワに帰還、レジスタンス運動に加わった。写真の顔の傷はナチス・ドイツのゲシュタポから受けた拷問の痕で、厳しい捕虜生活を想像させる。
 そしてある時期からレジスタンスが立ちあげたポーランド秘密政府のクーリエ(伝令)となり、敵国・非友好国を命がけで横断するようになる。またやがてユダヤ人指導者たちの依頼を受けて、ワルシャワゲットーや強制収容所に潜入し、ナチスによるユダヤ人虐殺の目撃者となる。この重大な事実を英米の政治指導者に知らせることも重要な任務であった。
 カルスキはその後、アメリカに亡命し、ワシントンのジョージタウン大学で長年教鞭をとっていたが、2012年5月29日、アメリカ大統領オバマから、「大統領自由勲章」を授与された。これはアメリカで文民に与えられる最高の賞である。
 このスパイ小説さながらの主人公を地で演じたカルスキの記録は、ナチス・ドイツとソ連に蹂躙されたポーランドの歴史とヒトラーによるユダヤ人の虐殺の実相を伝えて、読者を粛然とさせる。
 ソ連軍に捕まった時点で彼はカチンの森事件に巻き込まれる可能性があったが、交換でドイツ軍の捕虜になったために難を逃れた可能性がある。ソ連はスターリンの指示でポーランドを将来属国として固定するために、インテリ階層を絶滅しようとした。そのために、捕虜とした将校を虐殺したのである。ソ連は最初ドイツ軍の仕業だと言い逃れしていたが、戦後ソ連の虐殺行為であったことがはっきりした。
 カルスキは連合国の戦争犯罪捜査委員会に召喚され、ワルシャワのユダヤ人ゲットーとベウジェツ絶滅収容所(実際は、イズビッツア・ルベルスカ収容所)で目撃したことを証言した。ゲットーでのナチスによる人間狩り、それは無作為に銃を発射して不特定多数のユダヤ人を殺して楽しむ非道な行為である。また、絶滅収容所では鉄道の貨車にユダヤ人をギュウギュウ詰めにして生石灰と水を混ぜ、100キロ離れた草原の誘導し3日待って、確実に死が訪れた時点で、若くてがっしりしたユダヤ人の若者が、湯気を立てている死体を大きな穴に放り込む。この若者たちもいずれは同じ運命をたどる。収容所では毒ガスで大量虐殺を実行したことが一般的に報じられているが。この貨物車に押し込んでの虐殺もその苦痛の度合いから言ってさらにひどい犯罪と言えるだろう。「人道に対する罪」というのは大げさな修辞ではない。上下二巻、640ページの大著だが、読むのが苦にならない。翻訳者の吉田恒雄氏の力である。