読書日記

いろいろな本のレビュー

昭和解体 牧久 講談社

2017-06-25 15:55:36 | Weblog
 本書の副題は「国鉄分割・民営化30年の真実」である。これは民営化されて30年経過したその経緯ではなく、昭和62年4月1日に「日本国有鉄道」が115年の歴史を閉じるまでの経緯を時系列で詳細に述べたものである。民営化前、この巨大組織は膨大な赤字を抱えていたが、その再建は時の自民党政権にとって焦眉の急であった。政権が送りこむ総裁は、国鉄の組合である「国労」の力に屈して思うように改革が進まない状況だった。現場の駅長・助役を始めとする管理職は、組合の力に屈して、彼らの意のままに操られるのが日常だったが、これを改革しなければという3人の幹部候補生に焦点を当てて、いわば権力側から見た改革の歴史になっている。「国労」は「スト権スト」など市民を無視した勝手なことをやって権利の主張ばかりやって、いい加減な勤務を組合員にさせているというネガティブキャンペーンは当時からあったが、時の首相中曽根康弘は「国労」潰し、ひいては「総評」潰しを画策して、分割・民営化を主導した。これは国のかたちを変える意味を持ち、実際日本の右傾化はどんどん侵攻した。
 本書が取り上げた改革3人組とは、井手正敬(後のJR西日本社長)、松田昌士(後のJR東日本社長)、葛西敬之(後のJR西日本社長)で、彼らは共に東大出身のエリートである。彼らが組合と戦いながら、本来の会社としての正しい有り方を求めて奮闘する姿が描かれる。巨大組織の悪弊を除去するには、分割・民営化しかないというのは、分かりやすい話だが、それによってあぶれてくる多くの社員の雇用をどう担保するかというのは、難しい問題だ。全部の社員の雇用を守るのは無理で、そこで組合を離脱するか否かの踏み絵を踏まされることになる。国鉄清算事業団で再就職の道を捜すのだが、それも解雇された「国労」組合員ら1047人は「国労所属による差別があった」など訴訟を起こし、最後は民主党政権下の2010年政治決着し、一人平均2200万円の解決金が支払われた。訴訟を起こした組合員は20年以上苦難の生活を強いられたわけである。本書は民営化で路頭に迷う社員たちの視点に立っていないという点で、先ほど権力側と言ったのである。奇しくも改革3人組の内二人は、宝塚線の脱線事故で多数の死傷者を出した責任を問われ、裁判にかけられたが、最近最高裁で無罪が確定した。本書はその無罪確定祝いのために出版されたのだろうか。タイミングが絶妙である。

夫・車谷長吉 高橋順子 文藝春秋

2017-06-17 08:53:32 | Weblog
 2015年5月17日に車谷長吉は亡くなった。妻の順子氏によると、いつもの夫婦での散歩の途中、車谷が300円を夫人に貰い、それでコンビニでキリンラガーを買い、先に帰った。夫人が帰宅すると車谷が倒れていた。救急車で搬送されるもそのまま死亡。医者は「誤嚥性窒息死です」と夫人に告げた。ビールの当てに解凍した生のイカを丸のまま呑み込んでしまったのだ。あっけない死であった。享年69歳。
 本書は二人の出会いから結婚、死別までの20年間の歴史を夫人が回想したもの。小説家の夫のことを書いたものとしては、高橋和巳の夫人であった高橋たか子氏の「高橋和巳の思い出」が有名だが、その中でたか子氏は「高橋和巳は自閉症の狂人だった」と書いて話題になった。なるほどあの観念的で重厚な小説を書く人物は多分そうなんだろうなと納得させるものがあった。
 本書にも車谷が強迫神経症で苦しんだことがつぶさに語られており、あの「究極の私小説家」が身を削って言葉を紡ぎ出していたことがよくわかった。二人が知り合うきっかけは、順子氏が「マリー・クレール」1988年5月号に発表した「木肌が少しあたたかいとき」を車谷が読んで、感銘を受け、順子氏に絵手紙を送ったのが最初だった。夫人によると車谷は詩の第四連「街が近づいてきて お近づきのしるしのように雨が降った 雨に流されたのは 殉教風の恋人でした」の「殉教風の恋人でした」が気に入ったらしい。絵手紙は太字のかな書き(ひらがな・カタカナ)で独特のものだ。個人的な感想を臆面もなく書きつづっており、普通なら相手にされないが、詩人の順子氏には何か心にヒットするものがあったのだろう。これが縁で結婚するのだから誠に「縁は奇なもの、味なもの」である。
 車谷は身内の出来事をあれこれ書き散らしてトラブルメーカーになっていたが、知人・友人の事も断りなしに書いて、訴訟になる場合もあった。逆に言うと事実の中に真実があるという小説観なのだろう。播州姫路をバックボーンとして生まれた異才をその死まで見守り続けた夫人はまさにビーナスといえるだろう。

武田氏滅亡 平山優 角川選書

2017-06-10 09:28:37 | Weblog
 本書は、武田信玄が元亀四年(1573)に亡くなってから九年後の天正十年(1582)に子の武田勝頼が織田信長・徳川家康に滅ぼされるまでの勝頼の事跡を時系列に従って述べたもの。750ページの大部の書だが、歴史小説のようで、一気に読み終えた。著者の平山氏は2016年放送のNHK大河ドラマ「真田丸」の時代交渉を担当されたとあるが、たまたま勝頼が味方に裏切られ自決する回を見て、なかなか迫力があるなあと感動した記憶がある。あの感じが本書に横溢していて、広汎な資料の援用と相俟って、タイプとしては選書以上、専門書以下という位置づけになるかと思う。
 信玄は武田家の大黒柱であったので、その死はたちまち武田家の危機をもたらす危険性があった。それゆえ信玄は自分の死を3年間秘匿せよと遺言していたが、隠密が暗躍する時代、到底隠しおおせるものではなく、跡継ぎの勝頼は周辺の大名と神経戦を戦わざるを得なくなった。著者は勝頼を決して暗愚なリーダーとして描いておらず、困難な状況の中でよく頑張った有能な武将として描いている。それにしても、勝頼没後の織田信長の武田氏残党に対する過酷な処置は眼を覆いたくなる。ここまでやるかという感じなのだ。信玄の菩提寺の臨済宗・恵林寺を焼き討ちにして僧侶たちを殺戮するなど悪魔の所行というべきものだ。戦国時代とはそのように殺伐としたものだったということが、よくわかる話である。
 本書を読むと、この時代の武将は敵と戦うに当たって誰と同盟を結ぶか、どうやって味方に引き込むか等々、権謀術数の世界であったことがわかる。どれだけの手紙を書いたかと思われるほどの量である。生き残りのためのなりふり構わぬ行動は、疑心暗鬼を生み、人間の性善説を覆すものだ。武将達もいつまでこんなことをやらなきゃいけないんだろうと思ったことだろう。
 勝頼周辺の武将のエピソードも沢山出てきて面白い。たとえば、信玄のライバルだった上杉謙信の死後、跡目争いで上杉景虎と上杉景勝が争った「御館の乱」は跡目相続の祖形を描いていて一般性を持つ。また徳川家康の息子の徳川信康が正室五徳(信長息女)と不和になり、五徳の怒りが爆発し、父信長に十二ヵ条に及ぶ夫の不行跡を手紙に書き連ねて訴えた件。信長は家康に信康を切腹させよと命じた。因みに信康生母の築山殿が武田家に内通しているという疑いで、築山殿にも死を命じた。家康は信長に逆らえず信康と築山殿を殺した。忍従とはこのことかという例である。このようにこの時期にはいろんな人間ドラマが現れる。著者はそれを丁寧に拾い上げて好個の読み物に仕上げている。

ヒトラーの裁判官フライスラー ヘルムート・オルトナー 白水社

2017-06-04 09:48:02 | Weblog
 フライスラーはナチスドイツ時代の人民法廷長官(第一部部長)で1942年8月に49歳で就任し、国家反逆罪等で多数の市民に死刑を言い渡した。その実態を著者は次のように述べる、判決には部内で協議する必要はなかった。部のメンバーが異なる意見を出すようなことがあると、フライスラーは熱弁をふるい、下手に触れれば手が切れるような鋭さで応酬したので、誰も異を挟むことができなかった。採用されたのは、ほとんどいつもフライスラーが予め決めていた判決文だった。人民法廷の判決は「我らが民族の継続的な自己浄化」であるという彼の根本思想に違わず、フライスラーは死刑判決を連発した。人民法廷が1942年に言い渡したほぼ1200件の死刑の内、半数以上の約650件がフライスラーの第一部によって下されたものであった。翌1943年でも1662件の死刑の内、約半数の779件がこの第一部によるものだった。1944年でも2100件の死刑の内、第一部の下したものは886件だったと。
 法廷でフライスラーの前に立たされた被告はほぼ死刑になったということだ。その罪状というのは、些細な体制批判、ヒトラーの悪口などで、普通ではどう考えても死刑とはなりえないものばかりである。たとえば、ヒトラー暗殺未遂事件に関して、「ついてなかったわね」と発言した女性に対して、民族と総統閣下と帝国に反逆したということで死刑が言い渡された等々、反論を一切許さぬ姿勢は裁判とは言い難い。これを支えていたのが、市民間の密告の常態化である。これは戦後の東ドイツに受け継がれた。
 フライスラーはいわばヒトラーという虎の威を借る狐のようなもので、典型的な権力依存症といえるだろう。元々は優秀な弁護士だったが、ナチスに入党してから党同志の弁護人として多数の刑事裁判にして、帝国司法省司法次官を経て人民法廷長官に上り詰めた。敗戦に伴って戦犯として裁かれるはずが、1945年2月3日、ベルリン空襲の際に被弾して死亡した。他の裁判官たちは戦犯として起訴されたが、ただ法に従っただけで悪意はなかったということで、戦後何年かして法律家として西ドイツなどで復活している。著者はこれを追求が甘いと厳しく批判している。上からの命令に従っただけだというのはアイヒマンを始めとする戦犯の決まり文句だが、裁判官を裁くというのは結構難しいのがよくわかった。法に従って粛粛と死刑判決を下しただけだという言い訳を罪に問えないのはすっきりしない。フライスラーが生き残って裁かれたとしたらどうなっていただろうか。許されて後、弁護士として復活したのだろうか。本書はその問題を読者に投げかけている。

プロテスタンティズム 深井智朗 中公新書

2017-06-03 08:36:59 | Weblog
 マルティン・ルターが1517年10月31日にヴィッテンベルク城の教会の扉に「九十五カ条の提題」を貼りだして宗教改革が始まり、新しい宗派であるプロテスタントを生み出したと世界史で習ったが、筆者によると提題は貼られたのではなく、読んでもらうべき相手に書簡として送付されたもので、プロテスタントを生み出したと言うのも間違いで、教会の改革や刷新を願ってはいたが、新しい宗派を創設する意志はなかったということらしい。改革ではなくリフオームが適当とのこと。ルターの賛同者たち、あるいは彼を保護した政治勢力は、今日のドイツでも「プロテスタント」ではなく、「福音主義教会」と呼ばれている。プロテスタントは、ルター以後に発生した様々な教会とその信者たちを指し、プロテスタンティズムとは、ルター以後の潮流が生み出した、その後のあらゆる歴史的影響力の総称である。本書はその歴史的変遷をたどり、現状を分析する。私にとって未知の知見が随所に披歴されており、一気に読めた。
 興味深かったのは第六章の「保守主義としてのプロテスタンティズム」だ。ドイツはヴァイマール期にルター派が伝統的に行なってきた王と教会との関係を軸とする政治的な体制が、王を失い共和制に移行した。これはルター派教会がその成立時から維持してきた前提が失われたということである。ルター派はヴァイマール期ドイツでは政治の舞台から追い出され、彼らと敵対関係にあったカトリック中央党と社会民主主義勢力が政治を支配するようになった。それゆえルター派は後にヒトラー率いる国家社会主義が台頭したとき、この新しい指導者を「上に立つ権威」として違和感なく受け入れたという指摘は重要だ。
 王政と親和性があり、デモクラシーや資本主義に対して否定的なルター派は社会主義者、共産党、カトリック中央党に批判的なプロパガンダを繰り返すナチズムに親近感を感じ、大ドイツを再建すべく血と大地に訴える政治に取り込まれてしまった。プロテスタンティズムの負の側面である。ドイツのヴァイマール期では革新的ではなかったわけである。
 第七章ではアメリカに渡ったプロテスタントについて書かれている。これを新プロテスタンティズムと言っているが、これは教会を作る自由を主張し、信じる自由を徹底しようとしたがゆえに古プロテスタンティズムから追い出され迫害された勢力である。イングランドのピューリタンたちのアメリカへの移住は、最終的には国営の教会によって独占されていた宗教市場を自由化・民営化しようとした。これをリベラリズムと定義すると、アメリカの流儀がよくわかる。アメリカの宗教市場は、この民営化の中で、伝道と呼ばれる競争を続けて民衆の取り込みに躍起となっている。メガチャーチと言われる巨大教会で牧師がカリスマのごとく分かりやすい言葉で説教する姿は、この競争の一側面を現出させたものだ。マックス・ヴェーバーによると、神が救いへと予定に定めた者は天国に行けるだけでなく、この世でも祝福に満ちた人生をを送れるという考え方を超えて、逆にこの世で成功している者こそが天国に行けるものであり、それが神が救いを予定したことの証明になっているという。だからこの世での成功がアメリカでは宗教的な救済の証明となったのだ。アメリカの拝金主義の容認はここに根拠がある。「神は俗事に関わらない」という宗教本来の趣旨が大きく変容している。この伝でいくとトランプ大統領は真っ先に天国に行けることになる。