読書日記

いろいろな本のレビュー

学力と階層 苅谷剛彦 朝日新聞出版

2009-02-26 21:51:21 | Weblog

学力と階層 苅谷剛彦 朝日新聞出版



 最近の学力テストの成績の開示をめぐって、教育委員会と首長が対立するという構図がマスコミの話題となっている。そもそもこの学力テストを始めた中山前文部大臣なる人物の胡散臭さは、あの辞任劇を見ても明らかなのだが、某知事は文部大臣の「日教組の強い地域の学力は低い」という暴言を、真理をついているなどと持ち上げたものだから、一挙に論争に火が点いた。今、日本国中、学力テストの成績をどう上げるかという、非常に矮小な議論が横行して、教育の本質が忘れられようとしている。知識のみが学力であるという考え方に押されがちの昨今だが、見えない学力をどう保証するかという視点は忘れてはいけない。小学生がお受験のために、夜の9時、10時まで塾で勉強するという状況は、確かにおかしい。そういう連中が、難関大学のほとんどを占有して、この国の中枢を支配するという構図はほんとうに寒気がする。
 著者によれば、家庭的背景が学力に大きな影響を及ぼすことは確かで、階層が上位になればなるほど、勉強時間が増えるということをデータをもとに分析している。これがひいては義務教育の機会は平等に保たれているかという議論に発展する。子どもは親と地域を選べない、これらは所与のものとして存在する。当然その中には格差がアプリ・オリなものとして存在している。これらの問題一つとっただけで、議論の難しさは実感できる。早寝・早起き・朝ごはん・百マス計算で解決できるような浅薄なものではないのだ。最近の教育議論は問題を単純化しすぎており、危惧すべき状況と言える。著者は深い学識によって、教育の綻びをどう修正したらいいかを第五章で示唆してくれている。どこかのアホな知事が、「オレが日本の教育を変える」とほざいているようだが、この本を読んで勉強せい。
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精神のたたかい 立野正裕 スペース伽耶

2009-02-22 16:16:45 | Weblog

精神のたたかい 立野正裕 スペース伽耶



 テーマは非暴力主義についてである。冒頭の「徹底的非暴力主義を目ざしてーー大西巨人氏との対話」が本書の基調を成している。大西巨人の「神聖喜劇」の主要テーマの一つである「兵士の論理をどう越えるか」についての対談で、天皇制・軍隊についての鋭い考察が披瀝される。大西の「あの戦争で死んだ者は英霊などではない。彼らの死は、天皇制のもとで滅私奉公を強いられたあげくの犬死にであると認めることこそ、ほんとうの追悼になると私は思うてるんだよ」という言葉はあの戦争の本質を言い当てている。したがって加藤典洋が「敗戦後論」(講談社)で「三百万の戦争犠牲者の哀悼を通じて国民を立ち上げる」という立論は無効になるわけだ。
 著者は言う、国家的暴力装置である軍隊と兵士という図式の中で、兵士は絶対服従という軍隊規律を通して人格的に拘束され、その拘束が人格の道徳的無規律を結果する。命令と服従という軍隊規律の狭い往還の中で、道徳はやすやすと扼殺される。葛藤を維持しながら良き兵士であり続けることは困難であり、その困難に耐えることを自らに課すような精神的態度を、日本軍兵士は自分のうちに見出しがたかったのであると。例えば中国大陸で度胸をつけると称して、中国人捕虜を銃剣で突き刺すことを命じられたとき、ほとんどの日本軍兵士らがそれを拒否しなかったのはその一つの証明だ。
 大岡昇平の「俘虜記」に、至近のアメリカ兵を撃つか撃つまいか逡巡して、結局撃たなかった話が出てくるが、これは人間として当然の行為なのだ。戦争は人間の中の動物的なものの領域を解放させることによって、兵士の戦意を旺盛にしようとする。このとき動物的部分のほかの面も同時に解放される。強姦残虐が戦争につきものであるのはこのためである。戦争だから仕方が無いというのは、戦争犯罪不成立論への道を拓くだけだろう。日本軍兵士はあまりにたやすく「人間」としての自分を放棄したのではないかというのが、著者の見解だが、首肯できる部分が多い。
 日本兵の自律心の脆弱さは敵の捕虜になったときに顕著に表れたようだ。彼らは捕虜になるといとも簡単に自白し、敵の尋問に協力したという話を以前読んだことがある。ソ連や中国の洗脳にも易々と受け入れた事実がある。このようなメンタリティーが戦争犯罪を助長したのではあるまいか。ナチのユダヤ人殲滅とは違った意味で日本人のあり方が問われているような気がする。
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私はガス室の「特殊任務」をしていた S・ヴェネツイア 河出書房新社

2009-02-22 09:26:34 | Weblog
 著者は1923年、ギリシャのテッサロニキ生まれのイタリア系ユダヤ人。21歳のときにアウシュビッツ=ビルケナウに強制収容され、特殊任務部隊で同胞の遺体処理という地獄の体験をした。本来なら収容所解放前に抹殺される運命だったが、奇跡的に逃れて生き延びた数少ない生存者のひとり。1992年からこの惨劇を広く伝えるために講演活動を続けている。本書は彼へのインタビューをまとめたものである。
 同胞をガス室へ送り、その遺体を焼却炉へ運ぶという仕事に従事していたという事実は戦後明らかになり、ナチの戦争犯罪を糾弾するユダヤ人に衝撃を与えた。この本には人間が何処まで残酷になれるのかという実例が書かれており、言葉を失う。ナチは看守には犯罪者を任命し、ユダヤ人の生きる意欲を喪失させた。また「特殊任務」に就いた者は、秘密が外へ漏れるのを防ぐために三ヶ月ぐらいで殺されたという。
 ハンナ・アーレントは「イエルサレムのアイヒマン」でこの「特殊任務」を取り上げ、ユダヤ人がこの任務を引き受けなかったら、600万人もの犠牲者は出なかっただろう述べ、大きな論争となった。アーレントはアイヒマンの罪を軽くしようという意図はなく、一つの問題提起だと考えられる。極限状況の中で少しでも生き延びたいという人間の欲求をナチは利用したわけで、それらのユダヤ人には道義的責任を負わせることはできないと思う。
 人類の敵ともいうべきナチの犯罪を風化させないことが、人類の平和的共存の必要条件になることは間違いない。戦争は犯罪であることをもう一度確認すべきである。その意味で先日イスラエル文学賞を受賞した村上春樹がイスラエル軍のガザ地区への攻撃を批判したことは誠に素晴らしいことだ。受賞を辞退せよという圧力が人権団体からかかっていて、どう対処するのか注目していたのだが、一番賢明な方法を選んだと思う。このようなメッセージをあらゆる機会をとらえて発信することが重要だ。
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日本語が亡びるとき 水村美苗 筑摩書房

2009-02-21 11:53:13 | Weblog

日本語が亡びるとき 水村美苗 筑摩書房



 副題は「英語の世紀の中で」とある。第一章のアメリカのアイオワ大学で行われたIWP(International Writing Program)に参加したときの体験談から始まる。これは世界各国から小説家や詩人を招待し、アメリカの大学生活を味わいながらそれぞれの仕事を続けてもらおうというプログラムである。著者のとってアメリカは十二歳から二十年間住んだ所で、第二の故郷と言うべきものだが、本人の言によるとこの国に馴染めなかったらしい。それは直接には英語に原因があったと言っている。その本人が英語は世界の普遍語だと強調しているのだから面白い。アメリカに招待された作家達は英語の得意な人も全くしゃべらない人もいて、それぞれが個性的なのだが、その中で意思疎通を図るには英語に頼るしかないという認識が生まれる。
 日本語は世界の言語の中ではマイナーであり、日本及び日本人が世界の中で主要な地位を占めるためには世界の普遍語である英語をマスターする必要があるというのが著者の主張なのだが、少し唐突な感じがする。今流行の英語教育論とも違うし、日本語を軽視するのとも違う。世界的に活躍する野望を持っている人は言われずとも英語をマスターするであろう。日本文学も亡ぶという論も少し違うと思う。そもそも言語はそこに住む人間がいる限り生き残るもので、それを守るためのナショナリズムも必ず生まれる。複合的な要素があって、そう簡単にはいかない。著者の主張の源流は何かというのが、私には興味が湧く。次の機会にまとめて欲しい。
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年をとって、初めてわかること 立川昭二 新潮選書

2009-02-14 09:16:12 | Weblog

年をとって、初めてわかること 立川昭二 新潮選書
 


 老いることは悲しいか。人生の晩秋を迎えることは何人も避けられない。その時感じる寂寞と孤独。しかし、そこには思いもよらない豊穣な世界があるのだ。本書は老いの複雑微妙な「幸福」の味わいを愉しむ文学案内である。斎藤茂吉「白き山」から青山七恵「ひとり日和」までカバーして老いの諸相をあぶりだす。
 老いと欲望という点から言うと、谷崎潤一郎の「ふうてん老人日記」を始めとする諸作が有名だが、これらは谷崎の見るからに艶福家風のイメージとぴったりの欲望全肯定の内容だ。老いても枯れぬその生命力に驚嘆してしまう。また、詩人の金子光晴も晩年無頼派を実践した人で、その足跡が記されている。創造的営為に携わるものは、その生命力も人並みではない。吉井勇の短歌「夜ふかく寒き夜床の中に聴く心の中のけだものの声」などを読むとその感を深くする。
 私が本書で一番気に入ったのは第三章の「老いのパトス」で、川端康成の「山の音」を分析したところだ。「山の音」を通奏低音として老いのパトス(苦しみ・受難)が語られる。川端独特の微妙な感情の表出が楽しめる小説である。後にノーベル文学賞を受賞したその理由は「日本的抒情」の探求であったと思うが、とにかくうまい。
 折りしも本書を読了後、朝日新聞の映画レビューで作家の沢木耕太郎が「エレジー」という作品を取り上げていた。六十二歳の大学教授が二十四歳の美人大学生と愛し合うという話だが、この前途ある美人が乳癌にかかり、かなり重篤な状況に陥る。その時、気楽な独身生活でいろんな女性とアバンチュールを愉しんでいた老教授は悲哀の涙を流す。それを沢木氏は、「女性に対する憐憫ではなく、自分もまた間近に死を抱えた存在であることを痛切に感じることによって生まれる悲哀だ。そのとき、二人は初めて対等になる。死というゴールまでの時間がもうほとんどないということを知った二人として。」と小説家らしいまとめ方をしている。私もこの映画を見たが、老教授のデヴィッドを演じているベン・キングズレーは誠に魅力的で女子大生にもてて当然という感じ。コンスエラという若くて美しい女性はペネロペ・クルスが演じていた。こんな美人の女子大生いるのかいという感じだが、これが最後の悲劇をいやが上にも盛り上げるのだ。この映画を見て、「老い」の豊穣な世界の一端を垣間見た気がした。人生はこれからだ。
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あまりに野蛮な 津島佑子 講談社

2009-02-10 14:34:38 | Weblog

あまりに野蛮な 津島佑子 講談社



 上下二冊で表紙が豹柄。紙は上質で読み易い。話の舞台は1930年代の日本統治下の台湾の台北。台北高等学校の教員の夫について日本からやってきたミーチャの結婚生活を、彼女の手紙・日記で構成する。新婚生活から子どもの誕生、そして子どもの死をきっかけにミーチャの精神は破綻していく。その台湾生活の象徴が「霧社事件」である。統治同化を強いられた山地の先住民族(高砂族と呼びならわされていた)が村の小学校の運動会に集まった日本人を多数殺した凄惨な事件である。その後先住民も日本の軍隊・警察によって殺された。植民地政策の中で起こるべくして起こった事件である。作者は自分の子どもの死を、「霧社事件」で死んだ日本人と先住民族の子どもと重ね合わせて、この時代の象徴性の中に彫り込もうとする。
 それから70年後、姪のリーリー(50代)が台湾をさまよう。彼女は、自分は子どもを殺し、親を殺し、男を殺したという思いにとりつかれている。この時空を隔てた二人の生活がタペストリーのように織り成されて展開する。作家の久田恵は朝日新聞の書評で、これは「女性小説」で、女であるところの痛みを書いたものだと言っている。したがって男には理解できないだろうと。
 小説の展開はドラマチックということではない。ただ内面の心情が延々と綴られていくのみである。そこにいろんな象徴性をかぶせて行って小宇宙を形成するというやり方だと思う。これは笙野頼子の方法に似ている気がした。久田が「女性小説」という所以はそこら辺にあるのではないか。私としては、台湾を伝説の国、そう易々と近寄れない異郷として取り上げているのが興味深かった。「霧社事件」の顛末はまさにそのことを証明している。並みの作家じゃそうは行かない。
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橋下「大阪改革」の正体 一ノ宮美成 講談社

2009-02-07 10:59:06 | Weblog

橋下「大阪改革」の正体 一ノ宮美成 講談社



 人気絶頂、タレント知事の仮面を剥ぐ!というのが腰巻のコピー。某新聞社の調査では、支持率80%と驚異的な数字が出ているが、ホンマかいなというのが実感。府職員の給料を一割削減したし、退職金の5%を分捕ったということで府民の溜飲を下げたがゆえの数字かなとも思う。しかし、そのうち府民自身にこの予算大幅削減の余波が押し寄せた時どうなるかである。まあ朝三暮四のレベルの話ではないか。
 橋下は前出の石原慎太郎を師と仰いでいるようだ。なるほど、マスコミを巻き込んで攻撃目標を作り、民を煽っていくという手法は共通点がある。ただ、橋下は石原に比べて文学的才能が皆無なため、その言葉は原始的な凶暴性を秘めており、攻撃的だ。レトリックとは無縁の粗雑な言葉は聞くに堪えないが、大阪府民にはそれが心地良く聞こえるのだろう。まあそれが府民の民度といえばそれまでの話だが、こういう手合いを上に仰いで仕事をする府職員にとっては、内心忸怩たるものがあろう。橋下は石原と同じく、知的スノビズムを口を極めて痛罵するのが特徴だ。しかも自己絶対化の希求が誠に強い。この衝動が実人生に現われれば、権力意志、或いは虚栄心という悪徳になるのだが、今のところ権力に対する意志が強烈に出ているといえる。これは本書でも指摘されているように、家庭的、経済的に不遇な少年時代を過ごした反動が出ているといえる。不遇であったがゆえに反権力に向かうのではなく、体制にべったりとくっつきながら権力を握ろうというサクセスストーリーを演じて成功したのである。ご同慶の至りといわねばならぬ。
 橋下の改革の最終目標は大阪府を解体して道州制に移行させることらしいが、そんなものが政府のどこで検討されているのか。皆目わけがわからない。まあ、大阪をかき回すだけかき回して、その知名度で国政に打って出るというのが彼のシナリオだろう。石原とは逆パターンだが、麻生でも首相になれるのだから俺にでもできると妄想はどんどんエスカレートしているのだろう。まあ足元を掬われないようにお気をおつけあそばせよ。おごる平氏は久しからずと言いますから。


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誰も書けなかった石原慎太郎 佐野眞一 講談社文庫

2009-02-05 20:36:59 | Weblog

誰も書けなかった石原慎太郎 佐野眞一 講談社文庫



 評伝の第一人者佐野眞一が石原慎太郎に挑戦したもの。副題に石原慎太郎への「退場勧告」とある。最近の石原を見ていると、老残の身を晒しているという一言に尽きる。新銀行東京への追加融資、我が子に対する溺愛からの公私混同等々。引き際を考える時に来ているのは確かだ。
 本書によると石原は、「男が惚れる男」だった父・潔と、「日本で最も愛された男」と言われた弟・裕次郎へのコンプレックスに悩まされ続けたようだ。あの、頻繁に瞬きを繰り返すチック症状はそこに原因があるのだ。自己紹介するとき「石原裕次郎の兄です」と言った話は有名だ。「太陽の季節」で芥川賞をとって時代の寵児になったが、そのネタは弟・裕次郎の不良生活の断面を切り取ったもので、裕次郎がいればこそ作家になれたといえる。あの暴言に近い発言もそのコンプレックスの裏返しと見ることができる。実際は真面目な小心者なのだ。
 本書は石原のルーツを探った第一部が圧巻だ。父・潔の人となりや経歴の調査は探偵並みの詳しさで佐野の実力が大いに発揮されている。潔は旧制中学中退で山下汽船という船会社に入り、たたき上げで出世した人物だ。その父の遺伝子は裕次郎に色濃く継承され、慎太郎には伝わらなかった。そのことがその後の彼を縛ることになる。作家としても政治家としても一流になれなかった理由もそこに淵源がある。この事情を把握すれば彼の言動が手に取るように理解できる。あまりにも人間的、人間的すぎる。「太陽の季節」から「落陽の季節」へという本書のコピーは秀逸だが、本人がこの本を読んで、一刻も早く花道を飾ることを希望するものである。早くしないと花道から落っこっちゃうよ。
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