読書日記

いろいろな本のレビュー

インドネシア大虐殺 倉沢愛子 中公新書

2020-07-31 09:28:19 | Weblog
 副題は「二つのクーデターと史上最大級の惨劇」である。二つのクーデターのその一とは、1965年9月30日の夜、大隊長ウントウン陸軍中佐に率いられたスカルノ大統領の親衛隊チャクラビラワ連隊配下の軍人たちが、7人の陸軍将軍の家を襲い、その場で彼らを射殺、あるいは生きたまま連行した。国防大臣のナスティオン大将は避難して無事だったが、副官と6歳の娘が犠牲になる。拉致された者も後に遺体で発見され、犠牲者は計8人にのぼった。決起部隊は、自らを革命評議会と名乗り、襲われた将軍たちが大統領を倒す計画を立てていた故、それを未然に防いだのだと述べた。翌日スハルト少将率いる陸軍戦略予備軍司令部が素早く反撃して、革命評議会の部隊を粉砕した。スハルトはこの事件をインドネシア共産党(PKI)によって仕掛けられたもので、反革命的クーデターだと位置づけた。当のスカルノはこれを事前に知っていたのかどうか、大事なところだが真相はいまだ不明だ。ただスカルノがデヴィ夫人に宛てた手紙には彼が事件のことは全く知らず、非常に驚き、ときには途方に暮れている様子が窺われると著者は言う。そして著者は、PKIの総意ではないが、やはりごく一部の幹部が関与し、陸軍の容共派と共謀して決起したのではないかと言っている。(スカルノ自身は容共の姿勢を保っていた)

 その二とは、9,30事件から半年たった1966年3月11日、権威を失っていたスカルノに代わって反共の軍人スハルトが無血クーデターを成功させた3,11政変を言う。この一年後スカルノは正式に大統領の地位を追われ、1968年3月にスハルト大統領が誕生する。この権力奪取のプロセスは、手の込んだ形でゆっくり時間をかけて進行したため、「這うようにして進められたクーデター」とも称される。

 この権力闘争の裏で200万人もの市民が共産主義者の一掃という名のもとに、共産党のシンパとみなされ残酷な手口で殺された。これに対して諸外国の対応は冷淡であった。アメリカはもともと共産党に対してアレルギーがあったので、期待できないにしても、ソ連と中国の対応は冷淡としか言いようがないものだった。著者によると、ソ連は経済的に苦しく、インドネシアとの貿易が途絶えることが不安で、あえてスハルトとことを構えることを避けた。中国は文化大革命の影響で、国力そのものが弱体して手を差し伸べる余裕がなかったからだと分析している。

 それにしても200万人が犠牲になるとはただ事ではないが、これを実行したのは軍とつながった地元の反共の青年団やヤクザ、イスラム教系団体の青年組織であったことは驚きである。殺戮を主導したこれらの人々は、王朝時代の死刑執行人を意味する「アルゴジョ」という呼び名で恐れられた。国軍は共産主義者を殺すことは「お国のため」「公的な利益のため」という世論を作って殺害を助長させた。

 2014年に「アクト・オブ・キリング」という映画が公開されて話題を呼んだ。中身はこの虐殺に加わった人間にその殺害の模様を再現して映画にするというものであった。彼らはいまでも罪に問われることはなく、平穏に暮らしている。そしてこの殺人を反省している風でもなく、むしろ自慢している風であった。血がでないように針金で首を絞めて殺す場面を語るところは衝撃的だった。ところが主人公アンワルが映画で被害者を演じるうちに自分のやったことの重さを自覚し涙を流すというラストは印象的だった。

 インドネシアは島が多く部族も多いので、国家として統治するには苦労が多いところである。そこで地元の有力者が政治家になって治めるのだが、彼らの多くはヤクザやその流れをくむ青年団出身である場合が多い。前近代の国家の通弊だが、インドネシアはこれに当てはまる。従って民主的な政治を実現するには多くの壁がある。これは夙に岡本正明氏が『暴力と適応の政治学(インドネシア民主化と地方政治の安定)』(京大学術出版会)で指摘されている通りである。このような状況下で、共産党に対する弾圧が地方の課題として軍の指導の下徹底的に行われ、疑いをかけられた膨大な数の市民が犠牲になったのだ。その様子は第二章の「大虐殺ーー共産主義者の一掃」に詳しく書かれている。著者自身虐殺者にインタビューを試みているが、聞くに忍びない話である。

 さて著者は先述の映画のパンフレットに、「「アクト・オブ・キリング」の背景」という一文を載せ、わかりやすく解説しているが、本書では、この映画に言及していない。少しでも触れておくべきだったというのが実感だ。岡本氏の指摘の通り、インドネシアの地方政治からヤクザを排除するのは容易でない。彼らは地元の生活にしっかり根を生やして住民を巻き込んでいるからだ。日本のように田舎に団地ができて、近代化・都市化するというのとは話が違うからだ。地方分権の強烈な形が出ているとも言える。

宮沢賢治の真実 今野 勉 新潮文庫

2020-07-17 08:55:32 | Weblog
最近宮沢賢治を巡る、小説や評論が目につくが、本書はゴリゴリの伝記ではなく、元テレビマンが書いた「作品の裏側」という感じのものだ。読みやすくて面白い。個人的には、第六章の『妹とし子の真実と「永訣の朝」』に興味が集中した。この詩は大正11年11月27日に妹とし子の臨終に立ち会ったときに作った賢治の詩である。題は「永訣の朝」で、「けふのうちに とほくへいつてしまうわたくしのいもうとよ」で始まる挽歌である。

 賢治は、とし子に「雨ゆじゆとてちてけんじや」(雨雪を取ってきてちょうだい)と頼まれて「まがつたてつぽうだまのやうに このくらいみぞれのなかに」飛び出す。その背後から「雨ゆじゆとてちてけんじや」が響く。結局詩の前半で4回この言葉が繰り返される。賢治はこの妹の要求を「わたくしをいつしやうあかるくするために」だと考えた。とし子の本意がどうであったかはわからない。ただ賢治はそう信じたのだ。

 外では「ふたきれのみかげせきざいに みぞれはさびしくたまつている」。その上に危なく立ち、「このつややかな松のえだから わたくしのやさしいいもうとの さいごのたべものをもらっていこう」と二つの茶碗(とし子と賢治の)にみぞれを入れる。私はこの「ふたきれのみかげせきざいに みぞれはさびしくたまつている わたくしはそのうへにあぶなくたち」の個所がよくわからなかったが、本書の自宅見取り図によると、家の外に便所があり、その前に手水鉢と松の木がある。よってこのみかげせきざい(御影石材)は手水鉢のことであると著者は言う。そこに「みぞれはさびしくたまつている」わけで、不浄なみぞれでなく、隣の松の木の清浄なみぞれを手水鉢に「あぶなくたち」取ろうとしたのだ。現に賢治は松のえだも取っている。これで腑に落ちた。

 そして、とし子の言葉「おら おらで しとり えぐも」がくる。これをローマ字で書いている。これを標準語に直すと「私は私で独り行きます」という決意表明になるが、著者はこれに異を唱えている。曰く、「えぐも」の「も」は時には「もの」になったり「もん」になったりするが、この言葉は、「不本意だがそうするしかないのでそうする」だとか、「しかたがないので運命に従う」と、相手に訴えるようなニュアンスある。つまり、「ひとりでは行きたくはないんだけど、そうしなければならないんだから、ひとり行くことにしたんだ」ということになろうかと。

 さらに曰く、賢治はこの時、とし子は依然としてあの音楽教師(とし子の初恋の相手)のことを忘れていないことを知っていた。賢治の耳にこの言葉は、「あの人はあの人で生きていけばいい。私は私でひとり行くことにしたのだから」と聞こえたはずだ。本当の意味はこれだ」と。そしてローマ字で書いたのは、とし子の諦めと悲しみと孤独の言葉を書き留めるのがつらすぎてあえてローマ字にしたのだと言っている。この解説に無理はない。そして最後のとし子の言葉、「うまれてくるたて こんどはこたにわりやのごとばかりで くるしまなあよにうまれてくる」(こんど人間にうまれてくるときは、こんなにじぶんのことばかりで苦しまないように生まれてくる)は、ふつう、今度は健康な体で生まれて、みんなに迷惑をかけないようにしたいという意味になるが、賢治は「こんど生まれてきたら、自分で惹き起こした初恋事件で何年も苦しんだような人生を送らないようにしたい」と言っているのだと理解したという。

 このとし子の俗世間的な遺言を賢治は宗教的悟りの文脈変えてしまった。「おまえがたべるこのふたわんのゆきに わたくしはいまこころからいのる どうかこれが兜率の天の食に変つて やがてはおまえとみんなとに 聖い資糧をもたらすことを わたしのすべてのさいはいをかけてねがふ」という宗教的な祈りの次元に収斂するためにとし子の遺言は使われたわけだ。詩は読む人の状況によって、人を感動させることがあるが、賢治のとし子に対する賛美は格別のもので、兄弟愛という言葉では括れないものがある。

 門井慶喜の『銀河鉄道の父』(講談社)によると、とし子臨終の場で、父の政次郎はとし子に、何か言い残すことはないかと言ったところ、しゃべったのがこの言葉で、賢治はこの時何妙法蓮華経を唱えるばかりだったという。その後、この詩が発表されたとき、とし子の長セリフが引用されていることを政次郎は怒って詩集を投げ出したという。「なんてことをするんだ」と。これは故人の遺志を曲げてまで清浄な世界を描こうとした賢治に対する怒りでもあっただろう。詩の感動の源泉はかくも俗っぽい人間的営為にあるのだ。合掌。

映画には「動機」がある 町山智浩 インターナショナル新書

2020-07-04 09:21:18 | Weblog
『「最前線映画」を読む』 の続編で、一本の映画が参考にした先行の映画、監督の人生、宗教を絡めて解説したもの。確かにこれで理解が深まった。前著では、「ブレードランナー 2049」「エイリアンコヴェナント」「イット・フオローズ」など11本、今回は「シェイプ・オブ・ウオーター」「スリー・ビルボード」など、12本が紹介されている。そのうち私が見たのは「シェイプ・オブ・ウオーター」「スリー・ビルボード」「パターソン」の三本で、わかりにくかったのは「パターソン」だ。これはジム・ジャームッシュ監督が2016年に発表したもので、ニュージャージーに実在する町パターソンに住む、バス運転手のパターソン(アダム・ドライバー)という男の一週間を描いている。バス運転手にドライバーという名の俳優を使うこと自体こだわりがある。普通じゃない。

 彼は毎日6時過ぎに起きて、シリアルの朝食を摂り、歩いて市バスの会社に行き、仕事が終わると家に帰り、妻と夕食を食べてから犬の散歩に出かける。その途中で同じバーに寄って、ビールを一杯だけ飲んで、家に帰って寝る。その繰り返しだ。その日常の中で彼は詩をノートに書き溜めている。特にランチタイムには必ず滝の見える公園に行って、そこで滝を見ながら詩を書くのが彼の日課だ。なんとも風変りな映画だが、著者によると、この映画は、ウイリアム・カーロス・ウイリアムズという詩人が、自分の住む町パターソンについて書いた『パタソン』(邦訳題・沖積舎)という長編詩を基にしているとのこと。『パタソン』という詩は、パターソンという町自体を「パタソン氏」という名の巨人になぞらえ、その地形や歴史を描いている。映画ではそのパタソン氏をアダム・ドライバーが演じている。

 それではなぜ主人公がバス運転手なのかというと、『パタソン』で、「パタソン氏は引き下がって書く。バスの中にパタソン氏の想念がすわっている、立っている。氏の想念たちがバスを降り、散っていくーーー」ウイリアムズは乗り合いバスの乗客たちをパタソン氏の「想念」としてスケッチしている」という一節があるからだ。そして『パタソン』はウイリアムズ(1883年生まれ)が1946年から63年に亡くなるまで17年間書き続けた長編詩で、E・E・カミングスの詩、T・S・エリオットの「荒地」、ジェームズ・ジョイスの「ユリシーズ」の影響を受けた。「ユリシーズ」はダブリンに住む一人の中年男が、家を出てから帰るまでの一日を書いた小説だが、主人公が読む新聞の記事や広告、音楽の楽譜、収支報告書まで引用されている。『パタソン』も同様の事柄が引用されており、映画ではパターソンという町のすべてを描こうとする。

 主人公は詩作ノートをコピーを残す前に、飼い犬に噛みちぎられてしまう。打ちひしがれたパターソンは落胆していつもの公園に行く。そこに永瀬正敏が日本から来た『パタソン』のフアンとして登場し、会話を交わす。彼もパターソン同様自分のノートに詩を書いているという。二人はジャン・デュビュッフエ(1901~85)というフランスの画家について会話をする。著者によると、デュビュッフエは「生の芸術」を提唱した人で、認められたい、カネを儲けたい、有名になりたいなどという気持ちを持たないことが芸術には必要だという。最後に永瀬はパターソンに白いノートをプレゼントし、「何も書かれていないページのほうが可能性があるんだよ」と言う。

 私は最後になぜ永瀬が出てくるのかよく分からなかったが、著者は彼を詩の神の化身だという。そして、見返りを求めない詩作(芸術)は愛だという。以上、この中身を初見で読み解いた人はいないんじゃないか。「変人のバス運転手の平凡な日常」ぐらいが関の山かもしれない。これだけ高踏的な映画をよく作ったものだ。まさに「ヒットする」そして「カネを儲ける」という見返りを求めない芸術映画というべきか。