読書日記

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アウシュヴィッツ以後の神 ハンス・ヨーナス 法政大学出版局

2010-01-09 11:00:23 | Weblog

アウシュヴィッツ以後の神 ハンス・ヨーナス 法政大学出版局



 ユダヤ人のアウシュヴィッツの災厄に対して神の救いはなかった。ユダヤの神は沈黙したままだった。これを契機にして著者は神概念の検討に入る。かつて遠藤周作は小説『沈黙』で、神(キリスト)の救いの無さを嘆いて見せたが、今回のはユダヤの神について哲学的思考の苦悩のプロセスを読者に披瀝する。曰く、神は世界の事物がくりひろげるこの世のなりゆきに介入する力を断念したのだ。曰く、神は私たちを助けることができず、私たちが神を助けなくてはならないのだと。これは神は全能ではないということで、神学の伝統を大きく逸脱する。しかし、善かつ全能の神がアウシュヴィッツを看過したとすれば、神は理解不能となる。ユダヤの神は理解可能な神である。神の理解可能性と善性を維持するためには神の全能を捨てなくてはならない。かくして、ヨーナスは歴史を支配するはずのユダヤの神がアウシュヴィッツの前で沈黙した、その神はいかなる神かという神義論を捨てる。そしてアウシュヴィッツが仮借なき悪であることを譲らず、そのかわりに、善にして理解可能だが、全能ならざる神の概念に行き着いたのである。一種の論理学と言っていい。神がこの世の成り行きに介入する力を断念したのは、世界と人間の自立を尊重するためである。そしてこの神に救済を訴えることもできない。救済は知と自由を持つ人間の手に委ねられているのだ。この意味で私たちが神を助けなくてはならないのだ。神は永遠に沈黙したままなのである。
 もうすぐ十日戎だが、民衆は戎様にご利益をいただいて救われることはない。逆に戎神社は民衆のお賽銭によって大いに救われるのだ。ヨーナスの言うことは分かりやすい。どうか病気が治りますように、幸せになりますように、試験受かりますように等々、縁無き衆生の願いに対して神はすべて不介入なのだ。世の善男・善女にこの書を読ませてはいけない。少なくとも十日戎が終わるまでは。

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