読書日記

いろいろな本のレビュー

街道をゆく5 モンゴル紀行 司馬遼太郎 朝日文庫

2024-01-31 10:12:06 | Weblog
 初出は週刊朝日1973年11月2日号から1974年6月14日号に連載されたもの。私は当時大学3年生だ。本書は1978年12月に刊行された文庫の新装版で、2022年第五刷発行とあり、新品の手触りで気持ちが良い。司馬氏に関しては昨年NHKで「昭和への道」(全12回)がアンコール放送されているのを視聴したが、改めて司馬氏の偉大さが認識できた。日本が太平洋戦争に突入するまでの日本陸軍の暴走ぶりを、自身のノモンハンの戦いで戦車兵として従軍した体験をもとに語っていたのが印象的だった。なぜあのような愚かな戦争に突き進んでいったのか。その原因を司馬氏なりに分析していた。フアナティックな軍国主義思想に躍らせることの怖さを改めて痛感した。これはヒトラーに導かれたナチス・ドイツについても当てはまる。権力がメディアを支配して国民を誤った方向に導いていくリスクは今も我々を取り巻いている。もしも司馬氏が生きていて今の日本の現状を見た時どう思われるか聞いてみたいものだ。

 司馬氏とモンゴルの関係は深い。というのも彼は大阪外国語学校のモンゴル語科出身であるからだ。その中でのモンゴル訪問だが、50年前はソ連経由で入国しなければならない。ウランバートルに入るまでのソ連での飛行機の乗り換えやビザの問題など、旧社会主義国家の悪弊が次々と露呈してくる。社会主義的官僚主義が組織の末端まで浸透しており、そこには権力による腐敗がある。その後ソ連は崩壊したが、いま共産主義国家として生き残っている中国に権力による腐敗がはびこっていることは周知の通り。特に習近平が個人崇拝を復活させたことで、国全体がおかしくなっている。一人の人間が14億民を支配するなんて、まるでホラー小説ではないか。

 司馬氏曰く、モンゴル人は遊牧の民であり、定住して農耕に従事する中国人を卑しんだ。特に元時代は、農耕民である漢民族を賤奴のように扱った。むしろ商売をするウイグル人やイラン人あるいはアラビア人を漢民族より上等の民族として上の階層に置いた。一方中国人は文明(自分の)というものは、人は染まるべきものという信念が古来から続いている。異民族でも染まれば人として扱い、王化に浴したとするが、染まらない民族は『漢書』におけるように、鳥獣に等しいと。最近中国の内モンゴル自治区でそこに住むモンゴル人に対してモンゴル語を捨てて中国語を国語として学習せよというお触れが出て話題になった。これはウイグル人に対する弾圧と同じ発想で、「王化に浴」せしめる所業と言えよう。このように中国国内では異民族に対する同化政策が進められる中で、隣国のモンゴルはこの異形の大国とどう対峙していくのか、かじ取りが難しい。

 中国人とモンゴル人の違いを司馬氏はヤギとヒツジの例を出して述べているのが面白い。司馬氏曰く、ヤギとヒツジは元来、似たような動物だし、牧人たちは無論一緒に飼っている。ところがこの両動物は必ず同じ仲間だけでかたまり、決して入りまじったり、一緒になったりしない。通訳のツェベックマ女史が「ごらんなさい。どちらもずいぶん離れて群れを作っているでしょう」と両種別居の可笑しみを繰り返し語りつつ、自分のイメージを私に伝えようとした。「ね、そうでしょう」と彼女はあちこちの両種の群れを指さしたと。ツェベックマ女史は少女のころ、中国人との雑居地帯で暮らし、中国語も堪能だった。ただし雑居地帯とはいえ、蒙と漢は互いに別々に群居し、決して入り混じらなかった。さらには成人後、中国という政治状況の中で苦労したという経験が彼女にある。一見似たような顔つきの蒙と漢は、内側から見たら全く違う民族なのである。そのことを暗に言いたくて彼女はヤギとヒツジの群れをしつこく語っているのではないかというくだりは鋭い人間洞察というべきである。

 遊牧民のテント・パオに泊まってラクダの乳酒を飲み、草原の草の香りをかぎ、満天の星を眺め、馬で草原を駆け抜ける青年の姿を見て、司馬氏はモンゴルを体感している。「我々は、日本人の祖先だ」とモンゴル人はよく言うようだが、大相撲のモンゴル出身の力士を見ても、それが実感できる。大いなる親和性がある。モンゴルと友好を深める努力が求められる。

「線」の思想 原武史 新潮社

2024-01-08 17:05:21 | Weblog
 本書は2020年の刊行だが、最近文庫化されて人々の眼に触れやすくなった。「鉄道と宗教と天皇と」という副題がついていることからわかるように、旅行記をベースに宗教的論考がなされているという点で類書とは一線を画している。著者は夙に鉄道マニアとしても有名で、最近は朝日新聞土曜版beに「歴史とダイヤグラム」を連載して、現皇室と鉄道に関わるの話題を提供されている。以前著者の『レッドアローとスターハウス』(2012年 新潮社)というのを読んだことがあるが、西武鉄道と多摩の団地が何を生み出したのかという論考で、結構面白かった。レッドアローは西武の特急電車、スターハウスは星形住宅で、高度経済成長期に都心池袋から郊外の団地を結ぶ鉄道によって人々の生活が都市化されていく様子を描いたものだった。

 その中で興味深かったのは団地の増加と共産党の躍進が正比例しているという指摘だった。なるほど団地であれば活動家を住まわせ、自治会を通じて住民をオルグしやすいという側面は確かにある。ソ連でも団地を通じて共産党の支配を強化することが行われたという話を聞いたことがある。著者も実際44歳まで、団地住まいであったようだ。西東京市のひばりが丘団地、東村山市の久米川団地、東久留米市の滝山団地、横浜市青葉区の田園青葉台団地を転々として、一戸建てに転居と年譜にある。著者は慶応普通部、慶応高校を経て、早稲田大学政経学部に進学卒業しているが、早稲田に行ったいきさつが面白い。著者曰く、「団地育ちの自分は慶応になじめないと感じ、慶応大学の推薦入学を辞退して早大に入学した」と。慶応在学中から同級生との格差を思い知らされ続けたのか。それはそれで苦しいことに違いない。「軽井沢の別荘に今度遊びに来ないか」とか「今度うちのクルーザーに招待するよ」とか言われても返事に困ることは確かだ。でも庶民派としてのアイデンティティーを持ち続けて学究生活を全うしたのは偉いと思う。その感性は文章に現れている。

 中身は鉄道の沿線の神社、寺院、キリスト教の教会、天皇陵、新興宗教の道場などを漏れなく訪問して蘊蓄を傾けている。地域の歴史をわかりやすく学べるので大変参考になる。中でも第四章の「古代・中世・近代が交錯するJR阪和線」が地元なので面白く読めた。天王寺の駅のホームの分析や南海和歌山市駅とJR和歌山駅の歴史解説等々、流石鉄道マニアというべき論考が続く。そして旅行記に必須のご当地グルメ探索もぬかりなく入っている。和歌山ではラーメンと鯖寿司、そして駅弁の「小鯛雀寿司」のレポートが庶民目線で語られる。他の章でもそうだが、当地の尊厳を傷つけない敬愛の念がにじみ出ていて心地良い。都会人は往々にして田舎(方言を含めて)を上から目線で悪口を言いがちだが著者にはそれがない。さすが庶民派この沿線の風景を知っているものはああなるほどと思い出すほど緻密な描写である。

 ただ一つ残念だったのは新興宗教「ほんみち」泉南支部の見学は断られてしまったというところだ。「ほんみち」は、天理教山口宣教所の所長だった大西愛次郎(1881~1958)が天理教かた分派して1925(大正十四)年に発足させた「天理研究会」を前身としている。1950年に「ほんみち」と改称したが、戦前には「大本教」と同じく不敬罪や治安維持法違反で二度にわたって弾圧されているとのこと。その巨大な神拝殿の写真(121ページ)は圧巻で、天理教の建物をはるかに凌いでいる。その見学レポートを読みたかったが、残念である。というのも私が住む奈良県の中部に「ほんみち」が広大な土地を取得しているのだが何年たっても建物が建つ気配がない。また信者が沢山移住してくると、生活保護を申請する人が多いので、当該の市町村は大変だということを知り合いから聞いた。だから泉南市は財政的に苦しいのだと。まあとにかく本書は上質の紀行文であった。