広田氏は光人社文庫から多くの本を出版されていて、旧ドイツ軍の兵器やUボート、戦略に関するものが殆どだ。作者のプロフイール紹介に、1939年生まれで、会社勤務の傍ら、欧州大戦史の研究を行ない、月刊誌「丸」をはじめ各紙に執筆とある。月刊誌「丸」は私が小学生の頃、愛読した軍事雑誌で、その頃は戦艦大和や武蔵、長門、扶桑、重巡洋艦妙高などのプラモデル作りに熱中していた関係で、書店で立ち読みしたり、ときどき買ったりしていた。でも高価なものだったので、いつも買うわけにはいかなかった。本書を読むと、ゲッペルスの事跡が非常に詳しく書かれており、「軍事お宅」の香りがプンプンと漂ってくる。またゲッペルスやヒトラー写真をはじめ当時のナチのポスターが多く載せられており、資料的な価値も高い。
さて、ゲッペルスはナチの宣伝担当大臣として、ポスターやラジオ放送を駆使して、ドイツ国民を戦争に駆り立てていった。特にニュルンベルクで行なわれたナチの党大会は、夜に大観衆のもとでの光と大音響のページェントであった。これは国民感情を操作していくには巨大な集会がより効果的で、夜の8時以降に行なうと人々の抵抗心が減退して説得に対して最も効果的な時間帯だと考えたからであった。そこでヒトラーが登場し、アジ演説を身振り手振りを交えて延々と繰り広げるわけである。ゲッペルスは自分の分身のようにヒトラーを操ったともいえる。
ゲッペルスは中産階級の生まれで、父親は織物会社の会計事務を務めて支配人になったが、裕福とはいえない暮らしぶりだった。7歳の時に小児麻痺にかかり左腿を手術しなければならなくなり、回復した時は左脚が右脚よりも5センチ以上も短くなってしまった。このためゲッペルスは生涯足を引きずって歩くことになり、競争相手からこのことを突かれ続けた。身長が165センチと小柄で片足が不自由という引け目があったが、頭脳では負けないと相手に論争を挑んで言い負かすようになっていった。その彼がヒトラーと出会いその天才的な弁舌能力に惚れて、心酔していったのである。そして1945年ナチスドイツの崩壊が近くなった時、4月に発行された最後の「ダスライヒ(帝国)」紙上でゲッペルスは次のように言った「このような状況下において生存することを考える者があるだろうか。今こそ英雄らしく立ち向かって行こうではないか。我が国民が全力をもって立ち向かえば倒せぬ者はない。この瞬間において絶対的なことは自分の生命を賭することである」と。この言葉通り、ゲッペルスは6人の子どもを毒殺したあと、妻のマクダと共に親衛隊の衛兵2人に後頭部に2発の弾丸を撃ち込ませ、遺体をガソリンで焼却させた。ヒトラーに殉じたのである。これで自分の死にざまがヒトラーと並んで後世に語り継がれると確信したに違いない。ところがそうはいかなかった。著者曰く、ベルリン市民がゲッペルスの死を知ったのはずいぶん後のことで、あの希代の宣伝家のことだから、死んだというのもデマの一つであろうと見ていた。やがてゲッペルスの遺体の写真がソビエト側から公開されても、人々はまだ、あのやり手のゲッペルスだからアルゼンチンあたりに隠れているのだろうとか噂していた。ゲッペルスが自分の存在と死にざまに込めたはずの「神話的英雄性」など誰も気に掛けなかったと。
「虎は死して皮を残し、人は死して名を残す」とはいかなかったゲッペルス。あわれよのう!
さて、ゲッペルスはナチの宣伝担当大臣として、ポスターやラジオ放送を駆使して、ドイツ国民を戦争に駆り立てていった。特にニュルンベルクで行なわれたナチの党大会は、夜に大観衆のもとでの光と大音響のページェントであった。これは国民感情を操作していくには巨大な集会がより効果的で、夜の8時以降に行なうと人々の抵抗心が減退して説得に対して最も効果的な時間帯だと考えたからであった。そこでヒトラーが登場し、アジ演説を身振り手振りを交えて延々と繰り広げるわけである。ゲッペルスは自分の分身のようにヒトラーを操ったともいえる。
ゲッペルスは中産階級の生まれで、父親は織物会社の会計事務を務めて支配人になったが、裕福とはいえない暮らしぶりだった。7歳の時に小児麻痺にかかり左腿を手術しなければならなくなり、回復した時は左脚が右脚よりも5センチ以上も短くなってしまった。このためゲッペルスは生涯足を引きずって歩くことになり、競争相手からこのことを突かれ続けた。身長が165センチと小柄で片足が不自由という引け目があったが、頭脳では負けないと相手に論争を挑んで言い負かすようになっていった。その彼がヒトラーと出会いその天才的な弁舌能力に惚れて、心酔していったのである。そして1945年ナチスドイツの崩壊が近くなった時、4月に発行された最後の「ダスライヒ(帝国)」紙上でゲッペルスは次のように言った「このような状況下において生存することを考える者があるだろうか。今こそ英雄らしく立ち向かって行こうではないか。我が国民が全力をもって立ち向かえば倒せぬ者はない。この瞬間において絶対的なことは自分の生命を賭することである」と。この言葉通り、ゲッペルスは6人の子どもを毒殺したあと、妻のマクダと共に親衛隊の衛兵2人に後頭部に2発の弾丸を撃ち込ませ、遺体をガソリンで焼却させた。ヒトラーに殉じたのである。これで自分の死にざまがヒトラーと並んで後世に語り継がれると確信したに違いない。ところがそうはいかなかった。著者曰く、ベルリン市民がゲッペルスの死を知ったのはずいぶん後のことで、あの希代の宣伝家のことだから、死んだというのもデマの一つであろうと見ていた。やがてゲッペルスの遺体の写真がソビエト側から公開されても、人々はまだ、あのやり手のゲッペルスだからアルゼンチンあたりに隠れているのだろうとか噂していた。ゲッペルスが自分の存在と死にざまに込めたはずの「神話的英雄性」など誰も気に掛けなかったと。
「虎は死して皮を残し、人は死して名を残す」とはいかなかったゲッペルス。あわれよのう!