読書日記

いろいろな本のレビュー

ゲッベルスとナチ宣伝戦 広田厚司 光人社NF文庫

2015-10-30 15:51:15 | Weblog
 広田氏は光人社文庫から多くの本を出版されていて、旧ドイツ軍の兵器やUボート、戦略に関するものが殆どだ。作者のプロフイール紹介に、1939年生まれで、会社勤務の傍ら、欧州大戦史の研究を行ない、月刊誌「丸」をはじめ各紙に執筆とある。月刊誌「丸」は私が小学生の頃、愛読した軍事雑誌で、その頃は戦艦大和や武蔵、長門、扶桑、重巡洋艦妙高などのプラモデル作りに熱中していた関係で、書店で立ち読みしたり、ときどき買ったりしていた。でも高価なものだったので、いつも買うわけにはいかなかった。本書を読むと、ゲッペルスの事跡が非常に詳しく書かれており、「軍事お宅」の香りがプンプンと漂ってくる。またゲッペルスやヒトラー写真をはじめ当時のナチのポスターが多く載せられており、資料的な価値も高い。
 さて、ゲッペルスはナチの宣伝担当大臣として、ポスターやラジオ放送を駆使して、ドイツ国民を戦争に駆り立てていった。特にニュルンベルクで行なわれたナチの党大会は、夜に大観衆のもとでの光と大音響のページェントであった。これは国民感情を操作していくには巨大な集会がより効果的で、夜の8時以降に行なうと人々の抵抗心が減退して説得に対して最も効果的な時間帯だと考えたからであった。そこでヒトラーが登場し、アジ演説を身振り手振りを交えて延々と繰り広げるわけである。ゲッペルスは自分の分身のようにヒトラーを操ったともいえる。
 ゲッペルスは中産階級の生まれで、父親は織物会社の会計事務を務めて支配人になったが、裕福とはいえない暮らしぶりだった。7歳の時に小児麻痺にかかり左腿を手術しなければならなくなり、回復した時は左脚が右脚よりも5センチ以上も短くなってしまった。このためゲッペルスは生涯足を引きずって歩くことになり、競争相手からこのことを突かれ続けた。身長が165センチと小柄で片足が不自由という引け目があったが、頭脳では負けないと相手に論争を挑んで言い負かすようになっていった。その彼がヒトラーと出会いその天才的な弁舌能力に惚れて、心酔していったのである。そして1945年ナチスドイツの崩壊が近くなった時、4月に発行された最後の「ダスライヒ(帝国)」紙上でゲッペルスは次のように言った「このような状況下において生存することを考える者があるだろうか。今こそ英雄らしく立ち向かって行こうではないか。我が国民が全力をもって立ち向かえば倒せぬ者はない。この瞬間において絶対的なことは自分の生命を賭することである」と。この言葉通り、ゲッペルスは6人の子どもを毒殺したあと、妻のマクダと共に親衛隊の衛兵2人に後頭部に2発の弾丸を撃ち込ませ、遺体をガソリンで焼却させた。ヒトラーに殉じたのである。これで自分の死にざまがヒトラーと並んで後世に語り継がれると確信したに違いない。ところがそうはいかなかった。著者曰く、ベルリン市民がゲッペルスの死を知ったのはずいぶん後のことで、あの希代の宣伝家のことだから、死んだというのもデマの一つであろうと見ていた。やがてゲッペルスの遺体の写真がソビエト側から公開されても、人々はまだ、あのやり手のゲッペルスだからアルゼンチンあたりに隠れているのだろうとか噂していた。ゲッペルスが自分の存在と死にざまに込めたはずの「神話的英雄性」など誰も気に掛けなかったと。
 「虎は死して皮を残し、人は死して名を残す」とはいかなかったゲッペルス。あわれよのう!

戦火のサラエボ100年史 梅原季哉 朝日新聞出版

2015-10-12 14:14:25 | Weblog
 サラエボはボスニア・ヘルツエゴビナの首都で100年前にオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フエルディナンド大公がセルビア人青年に暗殺された場所で、これをきっかけに第一次世界大戦が勃発した。サラエボは元々、ボシュニャク(モスレム)人、セルビア人、クロアチア人の主要3民族が共存する多様性に富む土地だったが、チトー大統領のユーゴスラビアが1980年代後半に経済危機に見舞われたことで、共産主義の強固な縛りが解けて、民族対立を煽り利用する政治家たちによって、1992~1995年、「ボスニア内戦」を余儀なくされた。当時、欧米メディアは盛んに「民族浄化」という言葉を使い、紛争の悲惨さをドラスティックに報道したが、「民族浄化」と現実の間にはかなりの落差があるのではないかという問題提起を試みている。
 ユーゴスラビアの崩壊によって、セルビア、クロアチア、モンテネグロ、スロベニアの各国が独立したが、ボスニア・ヘルツェゴビナは上記の3民族が混在していたために、そのイニシアチブを巡って血で血を洗う戦闘が行なわれジェノサイド(大量虐殺)が頻発した。これについてはかつてここで取り上げた『ボスニア内戦』(佐原徹哉 有志社 2008)に詳しく述べられている。
本書の特徴はこの100年間サラエボに住む3民族の家族にインタビューして、その家族史の中で民族の共存と反目の実相を浮き彫りにしたことにある。説明は簡潔で、大変わかりやすい。著者によれば、ボスニアの歴史、特にサラエボの人々が積み重ねてきた系譜の中では、民族の違いよりも、人間性という普遍に目を向け、文化や宗教が異なる人々との共存をはかってきた寛容の伝統も受け継がれてきた。この寛容の伝統から逸脱し、顔のない無名の集団として「他者」を追いやる不寛容と憎悪がはびこった時こそ、戦争が起きたのだという。そして戦火の広がる困難ななかでも、寛容の精神を忘れず、他の民族を敵視する風潮に与しなかった勇気ある人々も確実に存在した。その例として包囲されたセルビアに敢えて残り続けボシュニャク人やクロアチア人と共存して伝統を守ろうとしたセルビア人(欧米の報道では虐殺を主導したとして悪の代名詞にされた)も少数ながら存在した。それを単に「民族浄化」という言葉で総括してしまうのはデリカシーに欠けるというのが著者の見解である。聞き取りの成果がここにある。そしてインタビューに応じた人々からは「民族の違いよりも、お互いの多様性をまず尊重した上でなお、そうした違いを乗り越えて人々が共通して持っているもの、つまり普遍的な人間性をこそ重んじたい」という趣旨の言葉を何度も聞いたという。
 「普遍的な人間性」こそは民族主義をコントロールする有力な概念である。これを持続して維持し、感情的アジテーションに抗して発揮することは困難を伴うが、絶対に忘れてはならないものである。シリア難民問題で揺れるEU各国の中で、これを実践できる国はどれくらいあるのか。日本も知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいる場合ではない。