読書日記

いろいろな本のレビュー

間違いだらけの教育論 諏訪哲二 光文社新書

2009-08-30 09:05:56 | Weblog
間違いだらけの教育論 諏訪哲二 光文社新書


 著者は「プロ教師の会」代表で、高校現場で定年まで教鞭をとり、七年前に退職して、現在日本教育大学院大学客員教授。この大学はどういうものか知らないが、教師上がりで、ここに勤めている人は結構多い。本書はカリスマ教育者と言われる人を丁寧に批判したもので、俎上に上げられているのは、①斎藤孝 ②陰山英雄 ③義家弘介 ④寺脇研 ⑤渡邊美樹の五人である。ほかに苅谷剛彦、西研、内田樹も取り上げられているが批判というほどではない。
 私は①の斎藤氏の本は読んだことがなく、今回初めて彼の教育論を知った訳だが、やたら本が売れていて、テレビにも出てニコニコしている人だなあという印象しかなかった。そりゃ大学教授で本がやたら売れて、テレビで引っ張りだことなれば、笑わずにはいられないだろう。③の義家氏はここで取り上げて批判する価値もないと思っていたのでどうでもよかったのだが、案の定、発言がぶれて何を言っているのかわからないという評価だった。その通りだと思う。
 著者の持論は、教育とは私人を公人にする営為で、そこには強制が伴うというものだ。これは教育現場にいる者にはすごく実感できることで、正論だと思う。冒頭のヘレンケラーとサリバン先生の話はそのことを説明する適切な例えである。三重苦に見舞われたヘレンが人間として成長するためには言語獲得と発声という困難な課題があったが、サリバン先生の厳しい訓練によってそれが実現したというものだ。最近の教育論はこの視点が抜け落ちているために話が混乱しているという氏の分析は誠に素晴らしい。
 ②の陰山氏は教育を「学力」を伸ばすことに特化してマスコミの寵児となった人だが、「学力」をさらに知識・技術に限定しており、教育を非常に底の浅いものに置き換えてしまったという批判はまことに痛快だ。大阪の橋下知事に請われて教育委員会の特別顧問についてが、現場の迷惑を顧みずに「百マス計算」ばかりアホの一つ覚えみたいに唱えている。現場の反発の空気を読めない、お気楽な人とみた。
 ④の寺脇氏は「ゆとり教育」の司令塔で、文部官僚として高みからものを言ってきた人だ。自分の教育理念は誤謬がない、常に正しいと宣言した人で、これも現場の混沌を理解していないお気楽な人だ。
 ⑤の渡邊氏は「ワタミ」の社長で、潰れかけた私学の高校を買い取って教育界に参入した人だ。「夢」を追いかけるのが教育だというロマンを前面に出して、教員を叱咤激励しているが、教員はなかなか言うことを聞かないと嘆いている。著者によれば、民間の営利競争主義を教育界に導入してもダメな理由を詳しく書いている。著者は言う「構成員としての教師を渡邊さんは好きなように動かすことはできない。それに、好きなように動かせたとしても、教育的に意味がない。精神的な奴隷は教師になれない。(中略)教育は理念によってではなく、具体的な人間によってなされる。そして、教師たちへの指導も、生徒たちへの教育も、やっている側の思う通りにいくはずがない。教師も生徒もひとだからである。やっている側の思う通りにいったら、洗脳や強制であり、教育的に意味がない。人間的に意味がない。渡邊さんの望むような自立した産業人にはならない」なんと至言ではないか。
 大阪の橋下知事の教育改革に現場が反発する理由も分かろうというものである。 前から②と⑤の人物には嫌な感じを持っていたが、本書を読んで溜飲が下がった。これで770円は安い。是非買って読んでいただきたい。

牛を屠る 佐川光晴 解放出版社

2009-08-25 09:43:29 | Weblog

牛を屠る 佐川光晴 解放出版社



 佐川光晴は小説家で、2000年「生活の設計」でデビュー、その年の新潮新人賞を受賞した。彼は北大法学部卒で、出版社勤務の後、大宮屠畜場に勤務し、牛や豚を捌く仕事に従事した。その中で、自身の結婚にまつわる話など、身辺の雑記をまとめたもので、結構面白く読めた。この体験は彼の文学活動の核のようなものになっていることは間違いない。(そればかり書いているというわけではないが)大卒で屠畜場勤務という世間の常識では珍しい職業選択と世間の目をどう受け止めたかということが、主題だった。屠畜場は問題と相関関係が深い。彼は出身ではないが、そのような目で見られることについての思いというものが、縷々語られていた。職業に貴賎なしというが、彼の淡々とした語り口は「職業と差別」という問題をあっさりと解決してしまったいる。この「淡々とした」文体は逆に説得力があり、才能を感じさせる。本書は彼の屠畜場の体験をルポルタージュ風に書いたもので、皆があまり知らない職場の様子をまさに「淡々と」書いている。声高に書かないところがいい。
 出版もとの「解放出版社」は2007年に「世界屠畜場紀行」(内澤旬子)を出して、好評を得た。世界の「屠畜」の様子を内澤氏のスケッチとともに紹介したもので、屠畜にまつわる不浄感・差別感を払拭するのに大いに効果があったと思われる。その流れで今回の企画になったものと推測する。佐川を起用して屠畜場の実態を書いてもらって、屠畜と差別の微妙な問題に一石を投じるという戦略はまあまあ成功したといえる。それはとにもかくにも佐川の謙虚さと誠実さに負う所が多いと思う。佐川は最後に「屠畜場」は「場」の方がいいと本音を吐いている。「殺」という字が差別を助長するという間違った考え方に警鐘を鳴らしたという意味で、私も同感だ。「障害」を「障がい」と書く愚を思い起こしてほしい。
 佐川が今後更なる発展を遂げるためには、また違うテーマ・問題意識を持つ必要がある。大いに頑張って欲しい。近著「ぼくたちは大人になる」(双葉社)を読んで頂きたい。佐川の「いい感じ」が横溢している。

儒教・仏教・道教 菊池章太 講談社選書メチエ

2009-08-22 09:59:52 | Weblog

儒教・仏教・道教 菊池章太 講談社選書メチエ



 東アジアは儒・仏・道教の混合地域である。本書のキイワードはシンクレティズム(融合・混成・ごたまぜ)で、この融合状況をフランスの宗教研究者が分析するという趣向だ。今までは儒・道、儒・仏、の組み合わせでの議論は多かったが、儒・仏・道を俯瞰してまとめたものは無く、タイムリーな企画と思う。
 葬式仏教という言葉がある。これは仏教の堕落を非難するニュアンスを含んでいるが、日本の仏式の葬式は実は儒教のやり方であり、本来の仏教とは無関係なものなのである。仏教では、人間は死ねば魂が身体から抜け出て、身体はただの物に過ぎなくなる。日本人が遺体にこだわるのはまさに儒教の精神そのもので、「身体髪膚これを父母に受く、敢へて毀傷せざるは孝の始めなり」(孝経)の実践といえる。儒教が死と深く結びついた宗教であることを説いたのは加地伸行氏で、氏の「儒教とは何か」(中公新書1990年)は儒教に宗教性はないという従来の考え方を覆えした画期的な書物である。本書にもここからの引用があるが、儒・仏・道教をまとめて分かりやすく論じているところが最大の長所だ。仏教の伝播の仕方は国の状況によって多様であり、道教の現世利益も同様だ。個人的な体験だが、台湾では仏教や道教の寺院は多くの人々でにぎわい、みんな懸命に祈っている。それに比べると日本のそれは静かで、雑駁さがない。エネルギーが噴出していないという気がする。このエネルギーの差が、今後の国力の差として表面化するような気がする。そのうち街は老人ばかりになり、廃墟の様相を呈するのではないか。杞憂であればいいのだが。

強いられる死 斎藤貴男 角川学芸出版

2009-08-18 20:54:42 | Weblog
 副題は「自殺者三万人超の実相」だ。日本はこの十年間連続で年間三万人を超える自殺者を出しているが、具体例を挙げて自殺者を「社会的に強いられる死」という視点から、日本の暗部を照らし出す。斎藤氏は夙に反権力の立場から激しい批判をする事で有名だ。本書で例に挙げられたのは、Ⅰ会社のパワハラと過重労働、Ⅱ郵政民営化の余波、Ⅲ多重債務・倒産、Ⅳ学校と自衛隊、Ⅳは他と違って閉ざされた世界であるが、いじめの構造は他の場合にも共通する。
 読んでいて気が滅入って来るのをどうすることもできなかった。学校のいじめ以上に会社の上役によるいじめの実態を知るに及んで段々怒りがこみ上げてきた。会社を辞職できない状況を知った上でのパワハラは人間の尊厳を破壊するものだ。会社は人権研修をやらないのだろうか。いや、そのような研修がなくても、人間としてまっとうな生き方を心がけていれば、心の痛みを覚えて当然ではないか。中部電力やトヨタ関係に自殺者が多いという指摘は意味深長だ。乾いた雑巾も絞るというほどの労務管理を実践して巨大な利益を上げるトヨタと同じ地域に中部電力はある。ことほど左様にトヨタの影響力は大きいと言える。そしてグローバリズムによる自己責任論もこの人間使い捨ての風潮を助長しているのだ。
 営業成績の良いものが勝者であり、悪いものは敗者という二項対立が会社を支える理念だとすれが、それはあまりに悲しいことではないか。金儲けが善という発想はそれだけでは意味がない。それだけが強調される社会は絶望的だ。いくら資本主義社会とは言え、一人勝ちを容認して、金持ちを敬うというようなバカな風潮にストップをかける必要がある。小泉内閣が促進した郵政民営化も今、様々な問題点が浮かび上がってきている。郵便局の現場は大変な混乱に見舞われている。用事で郵便局を訪れても、労務管理が非常にきつくなって職場が暗くなっているのを実感できる。いつか、配達のおじさんが記念切手買ってくれと家まで入って来た時はそこまでやらせるかとあきれてしまったことがある。今度は四年前の郵政民営化が争点の選挙の揺り返しが来る気がする。この30日の選挙で国民がどういう判定を下すか、興味深い。

満身これ学究 吉村克己 文藝春秋

2009-08-13 15:02:42 | Weblog

満身これ学究 吉村克己 文藝春秋



 副題は「古筆学の創始者、小松茂美の闘い」で、表題は作家の井上靖が茂美を讃えた言葉である。古筆学とは、「古筆」と呼ばれる書道史上の名筆の真偽をはじめ、その内容、筆者、書写年代などを明らかにし、それらを系統的に分類整理する学問である。毎日、3~4時間の睡眠時間で、三十年以上も費やし、撮影できる限りの古筆切れを撮影、収集分析し、1989年から五年かけて『古筆学大成』全三十巻という大著を発行した。この書で古典研究の土台が出来上がったと言われる。まさに古典の基礎研究の代表的なものと言える。古典研究は本文の校勘、即ちテキストクリティークにあることを実証したものと言える。
 小松氏の特異な点は、その学歴・職歴が普通の学者と違っているところである。彼は旧制中学卒後、広島鉄道局柳井駅勤務から始めて、東京国立博物館学芸部美術課に職を得てから研究に没頭し、先の成果をあげた。学歴なしで学者になった立志伝中の人なのである。彼が古典研究に志すきっかけは宮島の厳島神社に収められている「平家納経」を見たことである。以来、上級学校への進学は叶わなかったが、熱い思いで、研究者を夢見てその夢を実現した。氏の生き方をみると、日々怠惰に過ごしているわが身が恥ずかしい。氏の努力は誠に正真正銘の努力で、純度100%だ。このような人文科学の分野で地味な研究に一生を奉げて悔いなしとする人間がいることを嬉しく思う。利益・打算・地位・名誉を、何かはせんという覚悟で研究に没頭する姿は崇高である。
 最近の大学は実学優位で、まるで資格を取るための専門学校のようなところもある。かつての教養主義は廃れつつあるが、これをなくしては大学のアイデンティティーが成り立たない。就職するために大学に行くのではない。学問と就職は無関係なのだ。最近、高校ではやりのキャリア教育なるものも、この教養主義の視点がスッポリと欠落している。小松氏の生き方から、学問とは何かということについて思索して欲しいものだ。

運命の人 山崎豊子 文藝春秋

2009-08-09 15:47:33 | Weblog
 佐藤内閣がアメリカとの沖縄返還交渉の中で、協定の中の軍用地復元補償費400万ドルを日本側が肩代わりするという密約があったという書類のコピーが外に漏れた。これが社会党の国会議員に渡り、国会で暴露された。この件にに関わったのが当時の毎日新聞の西山記者で、彼に機密文書のコピーを渡したのは、外務省審議官付きの蓮見書記官であった。二人は公務員法違反に問われた。国民の知る権利はどこまで認められるかというメディアと国家権力の争いになったが、結局二人は有罪になった。検察のシナリオは、西山記者が蓮見書記官に色仕掛けで近づき、情を通じて機密文書を持ち出させたというもので、西山記者を倫理的に断罪する意味が強かった。この作戦は成功し、一審では無罪だったが、二審、三審で有罪になった。ところが最近アメリカ側の文書にこの密約を記した文書が発見され、アメリカ政府もこれを認めたという報道がなされた。ところが日本政府は密約はなかったの一点張りで、識者の失笑を買っている。まさに自民党政権の末期を実感させる事件だ。
 山崎豊子はこの事件を忠実に再現している。個人名が確定できるぐらいだ。逆にいうと非常に小説にしにくい素材であると言えよう。西山記者は弓成記者と名を変えているが、やり手の記者という面が大きく描かれている。この感じは私自身強く抱いたイメージそのままで、うまく描かれていると思う。当時私は高校生だったが、検察に誘導されたマスコミの報道を鵜呑みにし、女を騙して特ダネを取ろうとするそのあくどさに憤慨したものだ。また蓮見書記官の写真を見ると、そんな魅力的な女性には見えなかったので、余計に色仕掛けで迫ったということに腹が立ったのを覚えている。高校生ゆえの権力に対する批判力のなさが災いしたのだ。
 この小説が小説らしさを発揮するのは、第4巻で、主人公が家族と別れて沖縄に移住し、沖縄の実相を皮膚で感じる部分だ。アメリカ軍の駐留で巻き起こる様々のトラブル、それに耐える住民という構図は昭和20年から変わっていないが、それを生き生きと描くことに成功している。今度の総選挙で政権が交代した時、民主党は沖縄問題にどう取り組むか、見ものである。

マリリン・モンローという女 藤本ひとみ 角川書店

2009-08-08 13:51:52 | Weblog

マリリン・モンローという女 藤本ひとみ 角川書店



 モンローの伝記風小説。表紙の写真が気にいって読んだ。少女期を不幸な家庭に育ち、一時は孤児院にも入っていたノーマ・ジーンは愛されることに飢えていた。それと同時に天与の美貌を武器にモデルからハリウッドスターへと階段を昇る中で次々と男を換えて行く。大リーガーのジョー・ディマジオ、大作家 アーサー・ミラー、大統領のジョン・ケネディと華麗な男遍歴だが、ジーン(モンロー)の中ではすべての恋に必然性があった。それはつらい毎日を乗り切るために、別の人格を作り出したことと関係がある。本書はジーン、グリーディ、モンローの三人の人格を登場させて、彼女の葛藤を描くというスタイルをとっている。これは成功して、彼女の複雑な人生をリアルに描くことができた。
 モンローはアメリカのセックスシンボルとして燦然と輝いていた。今のハリウッドにはこれほどの女優はいない。時代が違うといえばそれまでだが、これほど華麗な男関係は空前絶後だ。しかし、彼女の中では女優としての成功の影に、愛されることへの欲望が絶えず渦巻いており、この心の隙間は埋められることが無かった。その空虚感を慰めるために「薬」を常用する。その挙句の死。一つの時代が終わる。ハリウッドスターの光りと影。このまとめ方はいかにも月並みだが、そうとしか言いようがない。マリリン・モンロー ノーリターン。折りしも、我が国では女優 大原麗子が孤独死したというニュースが流れた。栄光の後の孤独。合掌。

阿呆者 車谷長吉 新書館

2009-08-08 11:42:21 | Weblog

阿呆者 車谷長吉 新書館



 車谷の雑文集。文章の一つ一つに毒があって面白く読める。彼の小説の基本は私小説で、身内の恥も堂々と晒すという過激なものだ。播州弁を駆使して土着性をひしひしと感じさせる。この雑文集も例外ではなく、身内の私生活を赤裸々に暴露する。執拗に同じ事を書くその精神力にはまいる。彼の基本的な人生観は「苦」である。それは昭和36年に兵庫県立姫路西高校の入試に落第して、姫路市立飾磨高校に回し合格になったという体験である。この体験を彼はあらゆるところに書き散らしている。普通なら秘めておきたい類のことだが、彼は堂々と書く。それが生きる核になっているのだろう。その後、慶応の文学部に合格しているのだから捲土重来を期して臥薪嘗胆の日々を送り、夢を実現したと言える。この努力は賞賛に値すると思う。
 執着ということで言えば、女性関係についてもそれが発揮される。妻の高橋順子は詩人でもと筑摩書房新社の編集者で東大仏文卒の才媛だが、彼は彼女の詩のフアンとして手紙を書き、結婚までこぎつけた。男48歳、女49歳、どちらも初婚だった。二人の結婚生活も赤裸々に描かれる。車谷の脅迫神経症を妻は優しく見守り、看病に献身した。身を削るような作品群は確実に精神を消耗させる。妻はよく耐えて日常を支えている。車谷は幸福者だ。彼の講演会に行ったとき、夫人の姿を見かけたが、大変上品な人だった。平成19年11月、姫路文学館で車谷長吉展を見た。そのとき彼が意中の女性に送った絵葉書がたくさん展示されていたが、なかなかまめだと感じた。今ならストーカーと間違えられそうだ。そういうエネルギーが彼の文学の重要な要因になっていることは間違いない。
 自分の母を父を妹を弟を、親戚を一刀両断するそのメンタリティーの裏には深い愛情がこめられている。虚飾を排すというのが彼の信条だ。朝日新聞土曜日版に「悩みのるつぼ」という身の上相談を連載しているが、上記の彼の特徴がみんな出ていて、読ませる。好企画だ。

アイヒマン調書 ヨッヘン・フオン・ラング 岩波書店

2009-08-02 13:37:42 | Weblog

アイヒマン調書 ヨッヘン・フオン・ラング 岩波書店



 ナチスの親衛隊中佐アドルフ・アイヒマンは戦後アルゼンチンに逃亡したが、1960年、イスラエルの情報機関モサドに拘束されイスラエルに連行された。裁判の前段階としてイスラエル警察は八ヶ月、275時間の尋問を行った。本書はその記録である。
 ユダヤ人絶滅という狂気の計画をヒトラーが実行するその命令を忠実に実行したのが、アイヒマンである。絶滅収容所へユダヤ人を移送する計画を綿密に立ててこれを実行した。ハンナ・アーレントはアイヒマンの小役人ぶりを「悪の凡庸さ」と表現したが、彼がこの調書で主張するのはまさに上からの命令を忠実に実行したまでで、拒否することは不可能だったというものである。悪いのは狂気のナチ幹部で自分ではないという言い回しを一貫して使っている。時には卑屈に調査官に媚びる姿勢を見せるなど、その卑屈さは犯した犯罪の大きさと大きな落差がある。悪人を捕まえてみればただの人という感じが、先述のアーレントの言葉に表れていると思う。
 巨悪が実行されるには組織が必要で、ナチはまさに狂気の指導者の手足となってユダヤ人やヨーロッパ各国の人民のホロコーストを実行した。民族浄化はその後の民族対立紛争の常套手段となり、現在に至っている。アイヒマンはそのような悪の官僚制を支える人材として有能だったのだ。自分のやっていることがどのようなことかを理解できないあるいは理解しようとしない想像力の欠如は組織の悪を助長する。巨悪が小人によって実行されるそのメカニズムを我々は詳しく分析して、将来に禍根を残さぬようにしなければならない。
 アイヒマン裁判については、ハンナ・アーレントの「イエルサレムのアイヒマン」(みすず書房)を読まれると良い。