最近新聞のニュースに以下のタイトルの小さな記事が載った。「麻薬トラブルか 32人の胴体発見 メキシコ南部」記事は「メキシコ南部のゲレロ州シトウララで、32人分の胴体と9人分の頭部が見つかった。麻薬組織同士の抗争が激しい地域で、麻薬絡みのトラブルが関係しているとみられる。匿名の通報を受けた警察が22日から3日間、山中を捜索し、17カ所に埋められた胴体を見つけた。遺体の身元は判明していない。近くでは車数台が乗り捨てられており、警察は近くで誘拐されていた人も見つけ、救出した。近くの道路沿いでは先週、9人分の頭部が見つかっていた。(ロサンゼルス)」というものだ。これが日本で起こっていたとしたらビッグニュースとして報じられることだろう。ところがメキシコでは日常茶飯事のようだ。
麻薬の原料の「ケシ」はメキシコで産し、それが麻薬となってアメリカに密輸され、メキシコの裏の経済を潤している。これといった産業のない土地柄、この麻薬に関わるギャングが跋扈し、政治家・警察と癒着し、一般市民を恐怖のどん底に陥れている。市民は自警団を組織し、麻薬カルテルと相対峙している場合もあるが、カルテル側の切り崩しにあったり、自警団が犯罪に手を染めて腐敗していくなど、成果は出ていない。今春公開された米ドキュメンタリー映画「カルテル・ランド」はその問題を扱ったものだ。
本書はメキシコの麻薬問題を時系列で記述したもので、危険な取材を敢行し、書物にまとめた努力には敬意を表したいと思う。いろいろと話題は多いが、私が興味深く読んだのは第10章の「文化」の項で、マフイアの音楽「ナルコ・コリード」を扱った部分だ。「ナルコ」は麻薬、「コリード」はノルテーニョと呼ばれるリズムにのせて歌われる物語歌のことで、「ナルコ・コリード」は麻薬密輸入を歌った物語歌ということになる。これがメキシコでは盛んで、カルテルの幹部が自分の人生を振り返った内容をのものを作曲家に依頼しそれを歌手が歌って発表しCDにしたり、果ては映画にすることもあるという。中身は麻薬密輸の称賛と暴力の公認が中心で、メキシコ政府はラジオでの放送を禁止している。それにもかかわらず、ナルコ文化は信じられないくらいもてはやされているという。そんな中で、ナルコミュージシャンがギャングに襲われ殺される事件が多発している。作品や、歌い方が気に入らないのかというとそうでもない。コリード専門のレコード会社のプロデユーサー曰く、「ここには今、暴力が蔓延している。しかし音楽家がそれを作ったわけじゃない。ミュージシャンが殺されたケースの多くは、彼らの音楽とは関係がなかった。女や金やなにかで争いに巻き込まれていたんだ。あるいはたまたま運が悪かっただけなんだ」と。殺される方もわけがわからぬままに死んで行くわけで、それが冒頭の記事に繋がっていく。貧困の中で育つ若者にとって先の見えない社会の中で、麻薬カルテルのギャングになってしのぐしかないという状況はメキシコのみならず中米の特徴だ。ホンジュラスは政権交代による治安の悪化で、殺人事件発生率が世界一で、ギャングがはびこっている。その若者ギャング団を取材した『マラス』(工藤律子 集英社)によると、子どもを取り巻く貧困が彼らをギャングへと駆りたてているとのこと。貧困ゆえに生きるか死ぬかの選択しかないのが原因だ。市民生活の中での生き残るための暴力は戦場におけるそれよりはとりあげられ方が少し甘い気がするが、現実麻薬カルテル同士の殺人は戦場のそれと変わらないぐらい酷い。逆に麻薬戦争の方が文脈が読みにくいので、巻き込まれる恐怖は国と国の戦争以上である。このメキシコ麻薬戦争を目の当たりにして、トランプ次期大統領がメキシコとの国境に壁を作りその費用をメキシコに払わせると言って喝采を受けたのも、理解できる。でもその前にアメリカの麻薬密輸問題に手をかけることが求められる。
麻薬の原料の「ケシ」はメキシコで産し、それが麻薬となってアメリカに密輸され、メキシコの裏の経済を潤している。これといった産業のない土地柄、この麻薬に関わるギャングが跋扈し、政治家・警察と癒着し、一般市民を恐怖のどん底に陥れている。市民は自警団を組織し、麻薬カルテルと相対峙している場合もあるが、カルテル側の切り崩しにあったり、自警団が犯罪に手を染めて腐敗していくなど、成果は出ていない。今春公開された米ドキュメンタリー映画「カルテル・ランド」はその問題を扱ったものだ。
本書はメキシコの麻薬問題を時系列で記述したもので、危険な取材を敢行し、書物にまとめた努力には敬意を表したいと思う。いろいろと話題は多いが、私が興味深く読んだのは第10章の「文化」の項で、マフイアの音楽「ナルコ・コリード」を扱った部分だ。「ナルコ」は麻薬、「コリード」はノルテーニョと呼ばれるリズムにのせて歌われる物語歌のことで、「ナルコ・コリード」は麻薬密輸入を歌った物語歌ということになる。これがメキシコでは盛んで、カルテルの幹部が自分の人生を振り返った内容をのものを作曲家に依頼しそれを歌手が歌って発表しCDにしたり、果ては映画にすることもあるという。中身は麻薬密輸の称賛と暴力の公認が中心で、メキシコ政府はラジオでの放送を禁止している。それにもかかわらず、ナルコ文化は信じられないくらいもてはやされているという。そんな中で、ナルコミュージシャンがギャングに襲われ殺される事件が多発している。作品や、歌い方が気に入らないのかというとそうでもない。コリード専門のレコード会社のプロデユーサー曰く、「ここには今、暴力が蔓延している。しかし音楽家がそれを作ったわけじゃない。ミュージシャンが殺されたケースの多くは、彼らの音楽とは関係がなかった。女や金やなにかで争いに巻き込まれていたんだ。あるいはたまたま運が悪かっただけなんだ」と。殺される方もわけがわからぬままに死んで行くわけで、それが冒頭の記事に繋がっていく。貧困の中で育つ若者にとって先の見えない社会の中で、麻薬カルテルのギャングになってしのぐしかないという状況はメキシコのみならず中米の特徴だ。ホンジュラスは政権交代による治安の悪化で、殺人事件発生率が世界一で、ギャングがはびこっている。その若者ギャング団を取材した『マラス』(工藤律子 集英社)によると、子どもを取り巻く貧困が彼らをギャングへと駆りたてているとのこと。貧困ゆえに生きるか死ぬかの選択しかないのが原因だ。市民生活の中での生き残るための暴力は戦場におけるそれよりはとりあげられ方が少し甘い気がするが、現実麻薬カルテル同士の殺人は戦場のそれと変わらないぐらい酷い。逆に麻薬戦争の方が文脈が読みにくいので、巻き込まれる恐怖は国と国の戦争以上である。このメキシコ麻薬戦争を目の当たりにして、トランプ次期大統領がメキシコとの国境に壁を作りその費用をメキシコに払わせると言って喝采を受けたのも、理解できる。でもその前にアメリカの麻薬密輸問題に手をかけることが求められる。