読書日記

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神と仏の出逢う国 鎌田東二 角川選書

2010-01-31 17:24:02 | Weblog

神と仏の出逢う国 鎌田東二 角川選書



 「日本は神の国である」と言ったために辞職させられた総理大臣がいたが、確かに日本は神の国なのである。政治家の文脈でこれを言ったためにこけてしまったが、学会で学者が言えば誰も文句は言わないのだ。山川草木すべてに神が宿ると古人は考えた。「何事のおはしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」と言っていることからも分かる。本書は神の国日本が仏教を取り入れて、神と仏をうまく融合させて宗教を豊かに享受してきた神仏習合の歴史を辿っている。そして世俗化してしまった現代、神と仏が分離してしまった時代にに何が大事かという問題提起をしている。それはスピリチュアリティ(霊性)だという。この件に関しては詳細な説明が無いので次回を期待するしかないが、真摯な提言である。
 この書は前半がメインで面白い。日本の神々をうまく分類しているし、神と仏の違いを簡潔にまとめている。曰く、「①神は在るモノ/ 仏は成る者 ②神は来るモノ/ 仏は往く者 ③神は立つモノ/ 仏は座る者」と。このような原理的な違いを持つ神と仏が、また神道と仏教が、神仏習合という融合を遂げることになる。なぜそれが可能なのかと言えば、それは神も仏も共に自然の中に、また万物の中に神性や霊性や仏性を持って存在しているという自然認識や存在認識が生まれたからだと言う。その典型的な例が修験道である。この修験道の説明が分かりやすく、著者の薀蓄が自然に披瀝される。また鎌倉新仏教の流れとともに興ってきた、伊勢神道と吉田神道の解説も明快。
 伊勢神道とは、伊勢の神宮の外縁部から生まれてきた。内宮には天照大神が、外宮には豊受大神が祀られている。そもそも、古代国家律令体制は、天皇家の祖先神である天照信仰によって全体が包含されていた。ところが、中世に出てきた伊勢神道では、天照大神信仰よりも、外宮の豊受大神に全体像を包含する力を見ようとするのだ。そして、その外宮神学を度会氏という祭祀一族が発信したので、度会神道と言うようにもなった。国家を支えてきた天照大神よりも自分達の信じる神の方がより根源的だという思想である。つまり、国家という枠を超えた視点を持っていたわけで、鎌倉新仏教と合い通じるものがある。等々。
 このような仏教・神道が一番力を抑えられたのが、江戸時代である。著者曰く、徳川家康は寺院諸法度を作って神社や寺院を管理下に治める一方、自らを神=東照宮として祀る東照宮ネットワークを張り巡らし、徳川政治神として幕藩体制を守護し、睨みをきかせた。これは天台僧・天海大僧正の考えで、天照大神のネットワークに対する東照宮ネットワークを確立したのである。これにより宮廷勢力と寺社勢力を完全に封じ込めた。そして天皇家も公家も寺社も世俗化し、多くが体制内の骨抜き文化人になってゆき、遊民・遊興化の道だけが残された。その世俗化された社会で何が発展したのかと言うと、庶民文化であると。
 江戸時代の宗教的側面から分析で、見事と言うしかない。世俗化した平成の民よ、気高い高尚な霊性を取り戻して格調高く生きようではないか。




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