読書日記

いろいろな本のレビュー

永遠の0 百田尚樹 講談社文庫

2012-10-21 12:57:56 | Weblog
 本書は現在104万部のベストセラーである。0とは日本海軍が誇る零式戦闘機のことだ。零戦パイロット・宮部久蔵飛曹長が太平洋戦争末期、神風特攻隊で出撃し、戦死した事跡を二人の孫が戦後65年経って追跡するというもの。テーマは家族愛・献身・日本海軍批判・戦争批判と多岐に渡るが、劇的なフイナーレに向かって淡々とした描写が続く。宮部の人物像を元戦友から聞き取る中で語られる戦争の悲惨、とりわけ神風特攻隊の理不尽さが際立つ。
 私は本書をフイナーレの部分を除いて、小説というより、「零戦パイロットから見た日本海軍」というノンフイクションとして読んだ。薄い鉄板の飛行機で戦場に送られるパイロットの悲劇。アメリカの戦闘機グラマンF6Fの、パイロットの人命を守るための設計と比較対照される中で日本軍の人命軽視が際立ってくる。これは捕虜になるくらいなら自決せよという思想と繋がって、最後に神風特攻隊に収斂してゆく。
 国のために死ぬことを「散華」と讃えても、兵士の命は帰らない。国に対する「献身」の実態は酷いものだが、歴史の流れの一場面を精いっぱい生きて国に命を捧げた人々には哀悼の意を表さざるを得ない。そして改めて不戦の誓いを立てて実行することが、戦争で亡くなった人への償いとなるであろう。
 本書を読みながら、2001年刊行の『〈玉砕〉の軍隊 〈生還〉の軍隊』(河野仁 講談社選書メチエ)を小説化したのではないかと思ったが、巻末の主要参考文献には無かった。私がノンフイクション的だと思った理由なのだが、一度読んでいただきたい。〈玉砕〉の軍隊とは日本軍、〈生還〉の軍隊とはアメリカ軍を指す。
 本書はもちろん力作だが、最後の児玉清氏(テレビ司会者で最近亡くなった)の解説も素晴らしい。これを読めばすべてがわかるという簡潔で丁寧な文章で、作品に対する敬意が満ち溢れている。
「なぜ、あれだけ死を避け、生にこだわった宮部久蔵が特攻で死んだのか。それは読んでのお楽しみだが、僕は号泣するのを懸命に歯を喰いしばってこらえた。が、ダメだった。目から涙がとめどなく溢れた。今、この本を手にしているあなたは、どんな思いを抱くだろうか。泣かずに読めるのか、それとも滂沱と流れ落ちる涙に頬を濡らすのか。いや、ちょっぴりの涙なのか。実に興味深い」児玉氏の司会ぶりがそのまま再現された文章で、児玉氏のお人柄と相俟って、錦上花を添えている。
 その児玉氏も鬼籍に入られた。戦没者とともに哀悼の意をささげたい。合掌。

韓国とキリスト教 浅見雅一・安廷苑 中公新書

2012-10-20 11:12:58 | Weblog
 韓国では宗教人口の過半数を、キリスト教信者が占めているが、これは日本と大きな違いである。何故これほどキリスト教信者が多いのかをレポートしたのが本書である。実際、韓国に行くとキリスト教会が多いことが分かる。屋根に十字架が懸っており、それが夜になるとネオンのように光るのだ。これは日本にはない光景である。教会とネオンの十字架は我々日本人の感覚ではしっくりこない。何か安っぽく見えてしまう。実際、韓国教会がほぼキリスト教化した巫教の宗教であるという指摘は前からあった。現世利益を求める大衆の宗教心と欲求を満たすものとして歓迎され広がっていったというものである。
 本書では十八世紀以降の朝鮮半島における受難の布教開始から、世界最大の教会を首都ソウルに置くに至った現在までを追っている。その中で現在のように韓国社会にキリスト教が深く浸透した要因を以下の四点にまとめている。
 ①韓国の原信仰が一神教的要素を持っていたので、一神教であるキリスト教を受容する下地となった。
 ②朝鮮王朝の朱子学の理気二元論にはキリスト教の世界観に類似する点があった。
 ③儒教の倫理を重視する姿勢が、キリスト教の倫理への接近を容易にした。
 ④植民地時代にキリスト教が抗日独立運動の精神的支柱となった。
 ①は巫教の宗教であるという説と重複するものだ.②については理性を前面に打ち出し、儒教的「理」を継承したものを「理のキリスト教」、感性を前面に打ち出し、シャーマニズムや仏教を吸収したものを「気のキリスト教」と呼ぶという小倉紀蔵氏の説を紹介している。③について、朝鮮王朝という儒教社会で成立した東学もしくは天道教と呼ばれる宗教との関連で説明しているところが目新しい。④は感覚的に理解できる。
 以上、韓国におけるキリスト教受容の歴史は韓国の裏面史というべきもので、異文化理解の重要なカギになる。

光線 村田喜代子 文藝春秋

2012-10-19 10:33:32 | Weblog
 村田氏は女流小説家では随一の人だと私は考えている。その最新作がこれだ。「文学界」中心に連載された、八つの短編を集めたもの。テーマは自身の放射線によるガン治療と2011年の東北大震災(福島原発事故)を関連させたものが四つ。土地の力、地の霊力について書かれたものが四つという構成である。前の四つが自身のガン体験を踏まえているだけに、より切実さがある。
 著者が火山灰の舞う鹿児島へ放射線治療に出かけ、そこで日々めぐらせた思いは、3・11に続く体験とも言える。原発への恐怖と、放射線治療の恩恵と、太陽を燃やし地球を鳴動させる巨きな世界への驚異である。
 自然界の厄災とガンという個人の厄災、その中で生き残ることと死ぬこと、これを「運命」という言葉で片付けるのは簡単だが、実際はもう少しデリケートだ。3つ目の『原子海岸』の中でそれが的確に語られる。鹿児島に放射線治療に来ていた患者たちがガン克服後、日南海岸で交流会を開き、そこで主人公の秋山の妻が、もと患者たちと交わす会話を以下に引用する。
 駐車場に戻りながら秋山の妻は波江に言う。「この先原発がなくなったら、放射線治療もできなくなるんじゃないかって、私、そんな自分の利害のことを心配したんじゃなかったのよ」
「ええ、ええ。わかります」と波江もうなずきながら歩く。
「私のガンが見つかったのは3,11の明くる日でした。もう日本中がどんどん放射能に震え上がっていた頃です。大きな鬼が暴れまくっているときに、日本中がその鬼を憎んで罵って石投げているときに、車一台買えるくらいのお金を持って、その鬼の毒を貰いに行ったようで、何とも言えない気分だったの」
「そうですねえ。その後ろめたさっていうか。そういうことですよねえ」
「東日本では沢山亡くなったじゃないですか。その元気な人たちが、一瞬に。病気もないのに」
「ええ、ええ。ガンでもないのにね」
「だから私たちガンが消えても、あんまり大きな声でバンザイって叫べませんものね」
「ええ、ええ、叫べないですよね」と下向い歩く波江郁美。だが人にはそれぞれ運命があるかもしれない、と秋山は思いながら後ろからついていく。一つ寝床に入る夫婦でも片方はガンになり片方はピンピンしている。石が飛んできてもその場の全員にあたるわけじゃない。あれだけの津波でも同じところにいて生死を分けた人もいる。バンザイと小さな声なら言ってもいいんじゃないか。いや、しかし、放射能は同じところにいるならば生死を分けることはない。一緒に平等に被曝しる。まんべんなく浴びる。石が飛んでくるのではない。放射能はでかい大岩だ。生死を分けるには巨大すぎる。地震や津波や戦争には個別の死がある。放射能に個別はない。降ったら浴びる。いや、それでも原発だって広域でなら場所を分ける。東日本と西日本を分けた。ヒロシマ・ナガサキとそれ以外を分けた。運命という言い方が嫌なら、大岩の飛来を免れたというべきか。別に妻は原発の悪鬼に命乞いに行ったのではない。(以下略)
 放射能被害が深刻に伝えられる中で、放射線治療で命を助けてもらおうとする行為の後ろめたさと放射能の巨大な恐怖、災害で生き残ることの運不運が委細漏らさず描かれていて見事だ。個人のガンとの闘いがこれほどの社会的な広がりの中で描かれた例を知らない。私が当代随一と評価する所以である。

反ポピュリズム論 渡邉恒雄 新潮新書

2012-10-11 13:59:26 | Weblog
 中身は橋下徹大阪市長の政治手法に対する批判である。氏は読売新聞の会長で、巨人軍のオーナーとしても有名。最近こわもての経営者として報道されることが多いが、本来はまともなインテリのジャーナリストである。その渡邉氏が橋下市長の「政治には独裁が必要」「選挙で通れば白紙委任されたも同然」という強気の発言をヒットラーにたとえて批判している。
 一読して至極まっとうな内容だ。ヒトラーの全権委任法は後の第二次世界大戦、ユダヤ人のホロコーストの悲劇を生みだした。当初ドイツ国民はヒトラーを侮っていた節があり、まさかあいつに大それたことができる筈がないという油断があったことは確かである。大阪のタレント弁護士出身の市長に現に大阪の人間は白紙委任状を提出したも同然の状態だ。「私は一市長にすぎませんよ」という言葉を信じてはいけない。「4年の実績を見ていただいてもしだめなら次の選挙で落としてもらったらそれでいいわけです」という言い方をよくしているが、その4年の間に民主主義を根底から崩す行為をしないとも限らない。有権者はそこを厳しい目で見る義務がある。「衆愚の王」に要注意だ。
 並行して『日本破滅論』(藤井聡・中野剛志 文春新書)を読んだが、今の日本の政治の問題点を正確にえぐり出している。ここでも橋下市長批判が展開されているが、私が強い印象を受けたのは、中野氏の「政治家は政策よりも人品骨柄」という意見だ。これは本質をついている。橋下市長を持ち上げるメディアは多いが、国の指導者としての「人品骨柄」を備えているかというといささか疑問である。中野氏は全否定している。ツイッターでとことん気に入らない者を攻撃(口撃)する手法はどうみても下品だ。中野氏はこの攻撃の被害者である。
 最近、現職の国会議員を寄せ集めて「日本維新の会」を立ち上げて国政に進出することを決めた、橋下市長であるが、民主党と自民党の党首選挙の報道が余りに盛りあがったため、その存在がすっかり影が薄くなってしまった。世論調査での支持率も下降して、行き先不安の状況だ。所謂政党の体をなしていないことが大きな問題点と言える。折しもノーベル医学・生理学賞を山中伸弥教授のインタビューが連日テレビで放送されているが、その謙虚な受け答えは日本国民を感動させるに十分な素晴らしいものだった。この真摯な態度をみるにつけ「日本維新の会」の党首の軽薄ぶりが際立ってしまう。こころすべきである。もしノーベル文学賞に村上春樹氏が選ばれたら、また大変な盛り上がりになることだろう。そうなれば、また山中教授とは違ったインタビューが放送され、連日人々に感動を与えることだろう。そうなれば、「維新の会」党首WHO?ということになる可能性が高い。メディアは移り気であることをその時実感せざるえないだろう。メディアをうまく使ってのしてきた人間にとっては痛いことだ。

東大のディープな日本史 相澤理 中経出版

2012-10-07 14:51:58 | Weblog
 東進ハイスクールという予備校の講師が東大の日本史の問題を解説したもの。自明に思える歴史の見方・考え方に揺さぶりをかける面白さがあると説く。設問パターンは、いくつかの資料を元に記述式で答えるもので、歴史は年代の暗記で事たりるという者からすると大変厄介な問題である。逆に言えば、深い問題意識と読書経験のある生徒を取りたいということだろう。
 入試問題を一読してこれをあっさり解ける生徒はそんなに多くないと思うが、大変問題意識の高いもので、さすが東大というべきか。中では2008年度の第二問の中世の「一揆」に関する問題が面白かった。まず資料1~4を提示する。1は1373年、九州五島の武士たちが「一味同心」を誓った誓約書に「このメンバーの中で訴訟が起きた時は血縁で有るかどうかを問わず、理非の審理を尽くしべし」と書かれていたことを示すもの。2は1428年に足利義持が跡継ぎの男子なく死去し、遺言もなかったので、重臣たちは石清水八幡宮の神前でクジを引いて、当たった義教を将軍に推戴したという文章。3は1469年備中国の荘園で、成年男子が一人残らず鎮守の八幡神社に依り合って、境内の鐘をつき、「京都の東寺以外に領主を持たない」ことを誓い合った。鐘をつく行為は、その場に神を呼び出す意味があったという文章。4は1557年、安芸の国の武士12人は、「今後、警告を無視して軍勢の乱暴をやめさせなかったり、無断で戦線を離脱したりする者が出たら、その者は死罪とする」と申し合わせた。その誓約書の末尾には、「八幡大菩薩・厳島大明神がご覧になっているから、決して誓いを破らない」と記され、左の図のように署名がなされたとあり、傘(からかさ)連判状の写真が載せられている。
 これに対する設問は、A 図のような署名形式は、署名者相互のどのような関係を表明しているか。三十字以内で答えよ。B 一揆が結成されることにより、参加者相互の関係は結成以前と比べてどのように変化したか。六十字以内で答えよ。C 中世の人々は「神」と「人」との関係をどのようなものと考えていたか。六十字以内で答えよ。
 解答例を示すと、A ある特定の目的の下で署名者全員が対等な関係で団結している。B血縁関係よりも地縁的な結束が優先され、参加者全員で行なう合議による決定と互いに交わした誓約が強く拘束するようになった。C 人々は神前で一味同心であることを誓い、決定事項に従うことを誓い合うなど、神の存在が集団における結束の核となっていた。となっている。
 連判状はこの後伝統となり、現在に至っている。忠臣蔵のそれも有名だが、血判で不退転の決意を示すことが多くなった。血縁よりも地縁的なものが、優先される日本社会の原型が作られたと言える。またその結束を強固にしたのが神の存在である。やおよろずの神に誓いを立てる、この点から見ても日本は神の国といえる。資料2の足利義教はくじで将軍になったが、くじは神の意志ということで、誰も文句を言わなかった。その義教が恐怖政治をやって後に赤松満祐に暗殺される話も面白いがここでは控えておく。ちなみに、『籤引き将軍足利義教』(今谷明 講談社選書メチエ)は石清水八幡宮での籤引きの様子を細かく書いていて大変面白い。
 この東大の問題を見たら、高校の日本史の教員もうかうかしていられないのではないか。