前掲の石原千秋氏の本は小中学校の国語の教材を批評したものだったが、本書は高校の国語教科書の定番となっている①「舞姫」②「こころ」③「羅生門」④「永訣の朝」⑤「山月記」の読み方の例を示したものだ。方法としては各教科書会社の教師用指導書を例にあげて批判するというものだ。日本近代文学研究者らしい細かい読みで、圧倒されるが、ホンマかいなという感じの論もあり、眉に唾して読まないといけない。何しろ著者は、ちくま文庫版「こころ」の解説で、大学生の「私」は「先生」の自殺後、「奥さん」と結婚するのだと一見信じられないことをのたもうた御仁である。本書の読みの方法も牽強付会なものが多く、賛成できないものが多い。副題に「あの名作のアブない読み方」とあるが、そのアブなさは教科書が文部省の検閲を経た一種の官製のモラルの押し売りであるということに対する反逆という意味のアブなさで、高校現場に立たない大学教授の気楽さが出ているとも言えよう。本書を通読して感じられることは著者の権力に対する批判精神である。東大教授といえば、権力側のメンタリティーが横溢していても不思議ではないが、③や⑤の批評を読むと、その感を深くする。
③では下人が時の天皇の権力に抗うべく、老婆の生きるためにする悪は許されるという論理に力を得て、刀で武装して京の町に飛び出して行く。いわば、天皇に物申すというわけだ。下人の右手・左手の動きに注目し、それが左京・右京の天皇の眼差し(善悪を区別する法そのもの)に対抗し、善悪の判断を私的暴力で正当化する行動をとるという、内包されている権力との関係を読み取るべしと言うのだが、果たしてこのテキストからそこまで読み取れるのか、どうも腑に落ちない。
⑤も監察御史の袁惨はこの時代に於いては、腐敗政権の官僚であり、その悪の権力者を徹底的に批判した李徴の漢詩にもっと目を向けて読まなければならないという説も面白いが、そこまで袁惨を悪人に仕立てなくともよいではないかと思う。私自身はこの七言律詩をそれほど良いとは思っていなかったので、氏の指摘は意外だった。措辞も修辞もそれほど大したことはないと思う。
本書の腰巻の宣伝コピーは「教師用指導書の嘘を暴く、物語の奥の奥へ。他では聞けない東大式の読み方」だ。指導書を参考にして授業をする我々一介の教員が権力側で、東大教授が反権力側という図式は何ともケッタイな感じだ。まあ著者にすれば批判の対象は文部科学省にあるのだろう。
③では下人が時の天皇の権力に抗うべく、老婆の生きるためにする悪は許されるという論理に力を得て、刀で武装して京の町に飛び出して行く。いわば、天皇に物申すというわけだ。下人の右手・左手の動きに注目し、それが左京・右京の天皇の眼差し(善悪を区別する法そのもの)に対抗し、善悪の判断を私的暴力で正当化する行動をとるという、内包されている権力との関係を読み取るべしと言うのだが、果たしてこのテキストからそこまで読み取れるのか、どうも腑に落ちない。
⑤も監察御史の袁惨はこの時代に於いては、腐敗政権の官僚であり、その悪の権力者を徹底的に批判した李徴の漢詩にもっと目を向けて読まなければならないという説も面白いが、そこまで袁惨を悪人に仕立てなくともよいではないかと思う。私自身はこの七言律詩をそれほど良いとは思っていなかったので、氏の指摘は意外だった。措辞も修辞もそれほど大したことはないと思う。
本書の腰巻の宣伝コピーは「教師用指導書の嘘を暴く、物語の奥の奥へ。他では聞けない東大式の読み方」だ。指導書を参考にして授業をする我々一介の教員が権力側で、東大教授が反権力側という図式は何ともケッタイな感じだ。まあ著者にすれば批判の対象は文部科学省にあるのだろう。