読書日記

いろいろな本のレビュー

大人のための国語教室 小森陽一 角川新書

2009-10-29 17:14:26 | Weblog
 前掲の石原千秋氏の本は小中学校の国語の教材を批評したものだったが、本書は高校の国語教科書の定番となっている①「舞姫」②「こころ」③「羅生門」④「永訣の朝」⑤「山月記」の読み方の例を示したものだ。方法としては各教科書会社の教師用指導書を例にあげて批判するというものだ。日本近代文学研究者らしい細かい読みで、圧倒されるが、ホンマかいなという感じの論もあり、眉に唾して読まないといけない。何しろ著者は、ちくま文庫版「こころ」の解説で、大学生の「私」は「先生」の自殺後、「奥さん」と結婚するのだと一見信じられないことをのたもうた御仁である。本書の読みの方法も牽強付会なものが多く、賛成できないものが多い。副題に「あの名作のアブない読み方」とあるが、そのアブなさは教科書が文部省の検閲を経た一種の官製のモラルの押し売りであるということに対する反逆という意味のアブなさで、高校現場に立たない大学教授の気楽さが出ているとも言えよう。本書を通読して感じられることは著者の権力に対する批判精神である。東大教授といえば、権力側のメンタリティーが横溢していても不思議ではないが、③や⑤の批評を読むと、その感を深くする。
 ③では下人が時の天皇の権力に抗うべく、老婆の生きるためにする悪は許されるという論理に力を得て、刀で武装して京の町に飛び出して行く。いわば、天皇に物申すというわけだ。下人の右手・左手の動きに注目し、それが左京・右京の天皇の眼差し(善悪を区別する法そのもの)に対抗し、善悪の判断を私的暴力で正当化する行動をとるという、内包されている権力との関係を読み取るべしと言うのだが、果たしてこのテキストからそこまで読み取れるのか、どうも腑に落ちない。
 ⑤も監察御史の袁惨はこの時代に於いては、腐敗政権の官僚であり、その悪の権力者を徹底的に批判した李徴の漢詩にもっと目を向けて読まなければならないという説も面白いが、そこまで袁惨を悪人に仕立てなくともよいではないかと思う。私自身はこの七言律詩をそれほど良いとは思っていなかったので、氏の指摘は意外だった。措辞も修辞もそれほど大したことはないと思う。
 本書の腰巻の宣伝コピーは「教師用指導書の嘘を暴く、物語の奥の奥へ。他では聞けない東大式の読み方」だ。指導書を参考にして授業をする我々一介の教員が権力側で、東大教授が反権力側という図式は何ともケッタイな感じだ。まあ著者にすれば批判の対象は文部科学省にあるのだろう。
 

国語教科書の中の「日本」 石原千秋 ちくま新書

2009-10-23 21:44:08 | Weblog
 小中学校の国語教科書の教材を分析して、そこに「古きよき日本」がさりげなく忍び込まされて、自然と国家意識を植え付けられていると問題提起をしたもの。ベネディクト・アンダーソンが「想像の共同体」で、印刷物の普及が国民国家という想像の共同体の形成に大きな力を発揮したというのを引いて、検定教科書が国家意識の涵養に大きな働きをしている現実を指摘している。小中の国語の教材はあまり読んだことが無かったが、本書によって大方の傾向が把握できた。
 著者の文章批判は誠に鋭く、谷沢永一の批評を彷彿させる。教科書では喜劇より悲劇が好まれるということや、「平和教材」では、戦争が結局は一家離散の悲劇に環元され、社会的なレベルで考える視点を欠いているという指摘は同感できる。そして国語教育は道徳教育と同義であるというのも言われて見ればなるほどという感じだ。
 中学国語の最強の定番教材は「走れメロス」だ。この小説は「正直者が権力に勝つ」という読みをされるのが一般的だが、メロスの人間不信に共感し、より深く彼を疑うことが、このテクストをより深く読ませると言う。そして次のようにまとめる、なるほどこの小説を現実や人生につなげるなら「信頼」や「信実」が主となるだろう。しかし、この小説をゲームとして楽しむなら、メロスを深く疑うことが求められることになるのだ。さて、人生の問題として考えてみてもどちらが人間として豊かであるか、簡単に答えはでないように思うのだがどうだろうかと。
 たしかに読みの重層性は貴重で、それが小説を読む楽しみでもある。ただ、学校という所は基本的に正義・公正を実現すべき場所という暗黙の了解があるために悪を助長するようなものは排除していこうというメンタリティーが読みの多様性を奪い、勢い道徳的なものにならざるを得ない。ここがディレンマなのだ。教師は善なるものを実現させる役割を担っている。国語教師も例外ではない。善なる生き方を生徒に説きつつ、授業では人間の悪を味わうというこの落差を楽しむ余裕ができれば学校はもっと楽しくなるはずだ。うるさい教育委員会もクレーマーの保護者も無視できればこれに越したことはない。

東大合格高校盛衰史 小林哲夫 光文社新書

2009-10-20 21:44:55 | Weblog
 1949年から60年間の東大合格ランキングを分析したものである。50~60年代は日比谷を中心にした都立高校のナンバースクールの独壇場だったが、1967年の学校群制度の導入以後、国立大付属や私学に抜かれ現在に至っている。かつて私学は潤沢な経済状況の商家の子供が行く雰囲気が濃厚だったが、最近は学歴獲得のための機関になって、保護者からしたら教育をカネで買うという発想が第一義的だ。私学の中高一貫校に入るために、小学4年くらいからお受験と称して家族一丸となって塾での勉強に熱中するという風俗が蔓延している。夜遅くまで塾で勉強して、帰りの電車で夜食のハンバーガーなどをガツガツ食っているガキをみると複雑な思いに駆られる。電車内での傍若無人な振る舞いは、彼らが決してエリートにはなりえないことを予感させる。エリートは文化の厚みの中で育ってきた、一種の教養を身につけた人間をさしているわけで、お受験学徒をさしているわけではない。こいつらにはノブレスオブリージュの意味は理解できないだろう。
 都立高校の衰退と私学の隆盛は時代背景と密接に関わっている。経済のグローバリズムは公立高校の有り様を劇的に変えた。教育はサービス業だという位置付けが定着してきたのである。教師はかつてのように権威を持って生徒に対することができなくなってきた。ダメ教師を追放せよという声があちこちから上がってきて、現場はてんてこ舞いの状況だ。教師の授業を生徒が評価する。勉強やる気のないガキに授業がわからんなんて言われたくないわ。ホンマに。世の中、教師や公務員を叩けば愚かな民衆の受けがいいので、これを盛んにやる手合いが誠に多い。どこかの知事なんかその典型だ。こいつがまたわかりもせんのにエリート校10校作って東大や京大に多くの合格者を出そうとしている。都立高校でも学区を廃止して、日比谷など進学重点校を作ったが、時すでに遅しで劇的な成果は出ていない。よって大阪のこの計画も大した結果は期待できないと思う。
 こういう時代だから、私学は一人でも東大合格者を増やして経営の目玉にしようと必死だ。高校野球で甲子園を目指すのと同じ理屈である。しかし、勉強でも野球でも投資した労力と金を何倍にもして回収しようなどというスケベ根性を持つともうこれはダメである。利益・打算はご法度と願いたい。利己主義はエリートの要件には入らないのだ。



現代日本の転機 高原基彰 NHKブックス

2009-10-17 11:11:33 | Weblog
 本書は1970年代から現在にいたる現代史で、気鋭の社会学者が膨大な資料をもとにストーリーテリングしたもの。自民党支配下の安定社会のもとで、左翼・右翼、革新・保守等の対抗言説(カウンターディスコース)がいわば超安定社会におけるコップの中の嵐に過ぎないようなものであると喝破している。1973年の石油危機によるグローバル化は国内において、右と左の両バージョンの「反近代主義」を生み出した。
 以下著者の言をまとめると、右バージョンは「日本的経営」「日本型福祉社会」そして「自民党型分配システム」という、日本に特殊な諸制度を利用して、日本が労働争議も治安悪化も階級分化もない安寧秩序に満ちた「超安定社会」を形成したとする思考のことである。この立場によれば、アメリカやヨーロッパで生じた「福祉国家の危機」(フリーライダーや福祉依存の深刻化)も、それを批判して登場した新自由主義による社会流動化も日本はともに回避することができる。左バージョンは右の圧倒的な影響力のもとで、あくまで非主流の対抗運動の思想として現われた。この思想は1950~1960年代から存在する「自国のフアシズム化、軍国主義への反省」という問題関心が、国家や賃労働そのものを否定するまでに前衛化したものであり、政治・法・経済といった「近代的」な「大きな物語」に依拠することをやめ、少数者(マイナリティー)や女性(フエミニズム)などへとつながっていく。このようなラディカルな反近代主義は、現在まで存続しているが、ほぼ信頼を失墜している「自由」イメージの原型のなのではないだろうかと。
 誠に秀逸な分析だ。例えば、フエミニズムの退潮は最近はっきり体感できる。日本で最も著名なフエミニストの上野千鶴子は専業主婦を生産労働から疎外された存在と規定し、「女性の搾取」という問題を浮き上がらせようとしていたが、最近は専業主婦といえば、富裕層と結婚した女性のライフスタイル、一種の特権と見なされるようになったのはなんとも皮肉な話だ。婚活でもなかなか相手を見つけたられない女性の話題が最近のメディアを賑わせている。セレブになりたいという彼女たちの悲鳴を上野はどう感じているだろか。最近は「お一人さまの老後」などという本を書いて、これがベストセラーになっている。こういう形でかろうじて論壇に残留するしかないのは不本意に違いない。
 最後に今後の展望として、日本は成熟した民主主義の国を目指すべく、国家や政党の軽視、公共的な意志決定の軽視をなくし、韓国のような既存の政党政治の枠を離れた直接行動主義を止めて、これを政党政治システムの枠内における熟慮民主主義の中に整形しなおすことを韓国の政治学者、崔章集の言葉を引用して述べている。我々市井の庶民は学んで批判力をつけねばならない。このような人間が多くなれば社会は万全だ。逆は想像するだに恐ろしい。ぼんくらの指導者にノーを突きつけることが大事だ。

出星前夜 飯島和一 小学館

2009-10-10 11:54:43 | Weblog
 第35回 大仏次郎賞受賞作品。歴史物としては久々の硬派の作品で、江戸初期に起きた島原の乱を、松倉藩に弾圧される農民の側から克明に描いている。主役はもと有馬家の重臣で、下野して有家村の庄屋となった甚右衛門とイスパニア人の祖父を持つ青年寿安。天草四郎はジェロニモ四郎として出てくるが、脇役だ。この二人を軸にして島原の乱の実相が描かれるが、あくまで悪政に対する庶民の蜂起という視点で、宗教心による権力に対する反乱という描き方をしていないところがミソだ。2万7千人とも言われる蜂起勢がほぼ全員殺害されるプロセスが淡々と描かれる。農民に苛酷な年貢を強いる藩の理不尽とそれに20年間耐えてきた農民のぎりぎりの生活、キリストは農民にとっての救いだが、それでも蜂起せざるを得ない大義名分が読者に明かされる。歴史は思い出すことという小林英雄の言葉をそのまま作品にした感じで、具体的なイメージを喚起するその文章は簡潔だが非常に密度が濃い。乱後、医者として生き延びた寿安は空を見る。「再び土手を登り見上げた空には星が出ていた。天狼星(シリウス)は西空深くで頷くように瞬いていた。三つ星(オリオン)はすでに長崎湾を隔てた山影に沈もうとしていた。もう六つ半(午後七時)近くになる時刻だとわかった。陽暦では四月も二十八日を数えようとしていた。冬の夜空を彩った星星が、足早に去ろうとしていた。」
 農民の戦いは烏有に帰した感があるが、この最後の夜空の表現こそは「出星前夜」のタイトルと関わる重要なところだ。即ち、2万7千の犠牲が、新しい時代の希望につながって行く予感があるのだ。ここに救いがある。

倒壊する巨塔 ローレンス・ライト 白水社

2009-10-04 10:35:52 | Weblog

倒壊する巨塔 ローレンス・ライト 白水社



 副題は、アルカイダと「9,11」への道。ニユーヨークの同時多発テロはウサマ・ビンラディン率いるアルカイダの犯行ということで、その後アメリカはイラクに潜伏していると見られたオサマビンラディンを捉えるべく、攻撃を開始した。世界はこのテロに驚愕し、イスラム世界に対する反感と憎しみを募らせたのだ。本書はアルカイダの源流となるイスラム原理主義の歴史をエジプトのサイイド・クトウプから丁寧に辿り、最近のジハード団の指導者アイマン・ザワヒリとアルカイダの創設者ウサマ・ビンラディンの素顔に迫っている。狂信的イスラム主義というが、彼らは鬼でも蛇でもなくよき家庭人だが、アメリカの帝国主義的中東戦略に対する反感が、途方もないテロに駆り立てていったプロセスが丹念な取材によって描かれている。文明の衝突の悪しき結果と言えなくもないが、宗教・文化の対立の難しさを実感させる問題だ。宗教は本来攻撃的なもので、その対立が人命を犠牲にすることが多いが、この文明的な現代社会で多大の犠牲を強いられることは遺憾だ。人間の叡智でこれを救うことはできないものか。このレポートを読むと、人間の様々のつつましい営為がそれぞれの国や共同体を支えているが、それが為政者の判断の狂いによって大きく方向を転換し、互いに傷つけあうものになることが実証されている。中東出身の若者が、アメリカに渡りパイロットの資格を取り、それで旅客機を乗っ取り世界貿易センタービルに体当たし、多くの人命を奪う、という傍から見れば徒労の人生と思われることを実行する。彼らにとって人生とは何か、無宗教の私からは理解できないが、宗教的信念とはかくも強きものなのか。とにかく色んな思いをかきたてる書物ではある。

沖縄戦 強制された「集団自決」 林博史 吉川弘文館

2009-10-03 14:30:29 | Weblog
沖縄戦 強制された「集団自決」 林博史 吉川弘文館


 太平洋戦争末期の沖縄戦における住民の「集団自決」が日本軍の「強制」であったか否かをめぐり、文部省は教科書検定において、教科書の記述から「強制」を削るべしの方針を出し、実行した。検定に合格するためには「強制」の記述を削らなければならなくなった。2007年3月のことである。それに先立って2005年8月に大阪で一つの訴訟があった。それは、座間味島の元日本軍戦隊長と、渡嘉敷島の元戦隊長の弟が、軍命令が無かったのにあったと書いたのは名誉毀損だとして『沖縄ノート』の著者大江健三郎と発行元の岩波書店を相手取って「集団自決」に関する出版差し止めと損害賠償を求めて大阪地裁に提訴したというものである。この提訴の背景には安倍晋三を担ぐ「新しい歴史教科書をつくる会」や「自由主義史観研究会」のグループがあった。著者によると法廷の中で原告が、『沖縄ノート』を提訴前に読んでいなかったことが露呈し、元軍人の働きかけによって提訴するに至った経緯も明らかにされ、二人の原告の背後に政治的な仕掛けがあることが浮き彫りにされたとある。全くひどい話である。結局この裁判は2008年3月28日に大阪地裁判決で原告が敗訴。同年10月31日大阪高裁は控訴棄却の判決を下した。これによって「強制」は無かったという検定意見の重要な論拠は崩れたといえる。民主党政権になった今、このような過去の反動的な政治勢力が文部省に刻み付けた残滓を一つずつ取り除けていくことが文部大臣の重要な仕事である。
 この沖縄戦の「集団自決」の「強制」の問題を、日本軍のもつ組織的欠陥を視野に入れて論じたのが本書の特徴である。「強制」の濃淡は地域によって異なるが、いずれも「アメリカ軍に捕まったらなぶり殺しにされる」というようなデマが流され、それなら「自決」したほうがましだという心情が働いたのだ。国民総動員体制の中で「鬼畜米英」のスローガンで国民を集団催眠にかけていたが、米軍が「鬼畜」に等しいというのは、実は日本軍が「鬼畜」であることの裏返しで、沖縄戦に投入された兵士の多くが、中国戦線の経験者で「鬼畜」の所業をかの地で行ってきたのだ。日本軍でさえあのようなことをするのだからまして米軍はという論法なのだが、日本軍の人命軽視の思想は「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残す事勿れ」という1941年に東條英機陸軍大臣によって布達された戦陣訓によるところが大である。人命軽視の極め付けが「神風特攻隊」だ。
 そして沖縄は本土から永く差別されてきたゆえに「天皇のために死ぬ」事で模範的な皇民になろうとする傾向が強かった。さらに家父長的な風土と相俟って家長の下で自分の意見を表明することも無かった。家長がこうだと言えば、それに従わざるを得なかった。このような共同体の構造の中で、沖縄、特に慶良間諸島では軍隊長ばかりでなく一兵士の言葉であっても「陛下のために死ね」と言われれば「軍令」として意識され、家長によって実行される状況が作られていったのだ。したがってこの状況下ではわずかな示唆でも「集団自決」への「強制」として機能したという分析は誠に首肯すべきもので、目からウロコの見解だ。
 最近北朝鮮の核問題に端を発した国防問題で、憲法改正による自衛隊の国軍昇格問題が右派から盛んに提起されているが、今の我が国の民度からして憲法第九条の改正問題は非常に国を危くするものと言わざるを得ない。まずは先の大戦の総括をしっかりやるべきだろう。