読書日記

いろいろな本のレビュー

最終講義  内田 樹  技術評論社

2011-07-31 05:14:39 | Weblog
 神戸女学院の看板教授・内田樹氏の最終講義を含む講演集6題。普通、講演会で稼ぐ有名人は題1本でやっている場合がほとんどだが、氏の場合内容が多岐に渡っており、そのどれもが中身が濃い。従来、大学の教養主義の堅持、教育に等価交換は不要等、教育問題に愛する発言は至極まっとうで、大阪の橋下知事の教育施策に批判を続けてきたことは周知の通り。しかも氏が橋下氏の不倶戴天の敵である平松大阪市長の特別顧問ということで、反橋下の気分を持つ人々は彼の言説に大いなる期待を抱いている。とりわけ橋下知事が率いる地域政党大阪維新の会が断行した公立学校における日の丸常時掲揚は、近年まれにみる愚策だが、それについても苦言を呈していたのは立派だ。マスコミは腰が引けてまともな反論をしていないのに比べるとその存在感は抜きんでている。氏は日頃からマスコミのいい加減さを批判しているが、日の丸問題についても言えることだ。
 氏は大学を辞めて、今後は自由な立場で発言されると思うが、政治的な発言も大いにやってもらって、為政者の愚を正してもらいたい。今回、氏の政治的センスを感じたのは、北方領土問題で、これが進展しない理由はひとえにアメリカにあるとしている発言だ。氏曰く、ロシアにこの問題の周旋役として立ちまわれるのはアメリカしかいないが、もし「北方領土を日本に返還しろ」という正論をアメリカがロシアに告げた場合、当然ロシアは「だったらアメリカも沖縄を返せよ」と言いだす。(中略)アメリカとしては絶対に北方領土問題が解決されては困るんです。だから、アメリカは全力を尽くして、「北方領土問題が解決しない」ように日本国内での世論形成を行なっていると。この分析は非常に鋭いと思う。政治家になっても大成されたのではないか。内田氏の今後一層の活躍を期待する。秋の大阪市長選でどのようなコメントを出すのか、今から楽しみだ。

戦国誕生  渡邉大門  講談社現代新書

2011-07-30 16:37:12 | Weblog
 室町幕府の権力関係については最近発刊される書物が多い。将軍の権力が守護大名に邪魔されて行使出来ない状況は教科書で縷々説明されているが、本書は八代将軍足利義政に焦点を当てて、将軍権力の衰退と戦国時代への突入という流れを、応仁・文明の乱の分析をもとに活写している。室町幕府が権威の拠り所として公式の文書を乱発し、有職故実による行事を復活させたことは『将軍権力の発見』(本郷恵子 講談社選書メチエ)に詳しいが、ここでは、天皇、将軍、守護の相互連関を多くのエピソードをちりばめ、俯瞰して述べているので、読んでいて大変面白い。義政はくじ引きで青蓮院門跡から将軍になり、恐怖政治を行なって赤松満祐に謀殺された六代将軍義教の子で、最初から将軍の資質に欠けると言われた人物である。彼が管領の畠山家の家督相続に容喙して、結果、守護の山名宗全、細川勝元を巻き込んだ戦乱に発展するのだが、その過程で極めて無責任な調停のをし、最後は問題を放擲してしまった。その結果、畠山義就と畠山政長が上御霊神社で合戦の火ぶたを切った。これから長く続く応仁・文明の乱の始まりであった。
 守護の家督相続に関わって調停能力をうまく発揮できれば、弱小な将軍権力と言えども、その存続は可能だ。室町幕府はそれしか生き残る道はなかったと言っても過言ではない。義政は義満や義教が専制的な将軍権力を確立したのに比べるとその非力は明らかである。したがって守護との駆け引きの能力や責任感が問われることになるが、本書を読むとそれが全く欠如していたことが分かる。自分の信念がなく、優柔不断でのらりくらりという感じだ。この将軍のお陰で京都を荒廃させる泥沼の戦いが引き起こされ、殺伐たる戦国時代の幕が開いたのである。為政者の無能はかくも無残な結末を生む。平成の世にそれが再現されないことを祈るばかりだ。
 応仁・文明の乱の錯綜した実態が物語のように書かれており、天皇も将軍も守護もリアルな存在感を示している。歴史家の基本を押さえた記述方法で、室町時代の実相がよくわかった。

失敗の効用  外山滋比古  みすず書房

2011-07-23 09:56:47 | Weblog
 外山氏は1923年生まれの英文学者・評論家で今年89歳である。1970年代、私が大学生の頃は人気評論家として活躍されていたが、最近『思考の整理学』という旧著がバカ売れして、リバイバルを果たしている。長生きするというのは日頃の摂生がよいことを証明するものだが、この年で健筆を揮えるというのは本当にうらやましい。本書はゆかりの「みすず書房」からの随筆集である。中身は人生経験の豊富さがにじみ出たものが多く、非常に説得力がある。それに英文学者として「効成り名遂げた」ことを自慢するのではなく、非常に謙虚に語っていることは、余人にはまねのできないことであろう。巻末の略歴によると、外山氏は1947年(昭和22年)に東京文理科大学特別研究生修了とある。太平洋戦争末期、文化系の学生で学徒動員を免除され大学に残れたことはよほど優秀であったことが窺われる。国文の小西甚一氏もそうだった。この外山氏にしてこの謙虚さ。ここに外山氏の真骨頂がある。
 「お蚕さん」という文章で次のように言っている、「一生、学問をしてきたと言っても、自分の糸でライフワークを成し遂げるなどというのは夢のまた夢。ひとの仕事から借りてきたり盗んだりした知識で自分の世界をこしらえたつもりになるが、繭のようにはならない。木の葉を集めて作る蓑虫の蓑にも及ばないのだから哀れである。われわれはもっと真剣に精神の繭づくりを考えないといけない。人間、年をとるにつれ、気力、知力が衰えていくのも、生成の意思と努力が足りないからではないか。無心の蚕は身をもってそのモラルを示しながら問いかけているようである。(中略)人間は自分の世界を、たとえ殻であっても、まず作らなくてはならないが、それに安住していてはいけない。その外に宇宙があることを発見する必要がある。これまで、それに思い及ばずして悟ったような顔をしていたのは少しばかり滑稽である。お蚕さんはやはりすばらしい」と。滋味のあふれる内容である。世の中、外に宇宙があることを知らない、知ろうとしない人間がどれほど多いことか。
 また「自由・不自由」のタイトルで、幼稚園の母親が子供をもっと自由にさせろと園長に談判した話を引いて、「戦争に負けて、わけもわからぬ自由を与えられ、面白がって、何でも自由が一番よいという人間が多くなった。空気みたいになった自由をじっくり考えるような酔狂なことをするのは良識にもとる。はじめに自由ありき、を信ずる。規則、規律、規範などは自由を侵すために〝悪〟であるとなり、規則撤廃、規制緩和は進歩的だという誤解が一般的になって、人間社会も活力を失う。こどもはしつけという規制によって能力をのばすのだが、家庭がわが子の教育学を心得ているのは例外的で、放任を自由保育と勘違いする中で育つのだから、こどもも楽ではない。(中略)自由にとっての危機は、不自由がなくなることである。悩み多き人間にとって、不自由のなくなることはあり得ないが、少なくすることは可能である。不自由という敵を失った自由はその破壊力を自らに向けて働かせるようになり、自滅することになりかねない。忙しい人は忙中の閑に恵まれるが、することがなくて時間がありすぎると活力を失ってしまう。不自由なひとほど自由になりやすく、自由な社会ほど不自由な人間が多くなる。不自由は自由への近道」と述べる。逆説的な言い回しで、昨今の世情をチクリと批判したうえで、生き方の指針まで示してくれている。私はこれを老後の生き方として読んだが、すべての桎梏から逃れることが自由ではないことを改めて自覚した。

原発のウソ  小出裕章  扶桑社新書

2011-07-16 21:38:18 | Weblog
 福島原発事故は一向に収束の気配はない。国家的危機の中で総力を挙げてこれに取り組むべきなのに、為政者の無能もあり、もたもたしている印象しか受けない。今回の事故で原発がいかに厄介なものであるかが、はっきりと認識された。事故当時テレビに現れた東大教授たちは楽観論を述べていたが、今はさすがにコメントすることはなくなった。全く信用できないことがわかったからだ。原子力の推進という国策に対して翼賛意見を述べないものは、大学でも東京電力でも出世できないという構造が素人目にも分かったことが今回の最大の収穫であったとは誠に残念至極である。
 本書の著者の小出氏は原発の危険性を訴え続けて40年、60歳を越えて未だに京大原子炉実験所の助教(助手)である。国策の原子力推進に反対する者はこうなるのだという見せしめのようなもので、珍しいことではない。嘗て公害問題でアカデミズムから反対運動を実践した東大の宇井純氏が50代の半ばまで助手のまま昇進を据え置かれたという例があった。彼は最後は沖縄県の私学に招かれやっと教授になれたのだった。小出氏も自己の信念を曲げず「不屈の研究者」としてのスタンスを維持している点は誠に偉大というべきである。原子力のメリットは電気を起こすこと。しかし、メリットよりもリスクのほうがずっと大きいことが説かれている。チェルノブイリに続く新たな「地球被曝」の危険性を改めて認識した。放射能の危険性は世代を越えて継続するので、地球の汚染が科学の発展の末路という古典的なテーマに収斂されて行く。あまりに象徴的と言えばあまりに象徴的だ。SF映画を見ているような感じだが、これが現実なんだよ。その恐怖を背景に巨人・阪神戦に一喜一憂する精神のありようはどう考えればいいのだろう。こんなに極楽トンボでいいのかな。

「大相撲八百長批判」を嗤う  玉木正之  飛鳥新社

2011-07-16 09:22:39 | Weblog
 副題は「幼稚な正義が伝統を破壊する」だ。大相撲は八百長問題で存亡の危機に立たされたが、若乃花・栃錦、大鵬・柏戸時代にNHKの相撲放送に熱狂した世代としては誠にさびしい限りである。今、名古屋場所の中継が行なわれているが、客席に空きが目立ち盛り上がりに欠けている。話題は魁皇の勝ち数の記録更新だけで、盛りを過ぎた万年大関の無残な姿を見せられているだけだ。副題にもある通り、著者のスタンスは相撲を近代スポーツの範疇に入れて議論することの愚を説いたもので、私も同感だ。相撲で真っ向勝負のことを「ガチンコ」、それ以外を「出来山・盆中・気負け・人情相撲・拵え相撲」と言うらしいが、本気でガチンコをやれば、ケガは言うに及ばず死に至る危険性もあるので、プロレスの試合とまでは行かないが、その流れで見ることが大切だと指摘する。また力士に正義を求めるのは間違いで、もともとやくざな連中が集まる世界であるので、ヤクザと同じ闇世界の住人であるということを肝に銘ずべきであると言っている。正しい意見だ。相撲はもとも神事である。近代人の合理主義では裁断できないものがあるはずで、最近のテレビのコメンテーターは相撲を見たこともないのにワーワーと鬼の首をとったように騒いでいる。笑止千万である。
 本書は玉木氏と相撲に関わる週刊誌の記者や作家との対談で構成されている。第四章の週刊ポスト記者・鵜飼克郎氏との対談で、正木氏はこう述べる「私は基本的には、もちろん八百長はいけないという立場なんです。もっと言うなら、八百長は大相撲には存在しないものだと思っている。その代わりに出来山はあるだろうと。要するに非難されるべき八百長と言うのは、競馬や競輪のように見ている人に対しても実質的な損害が発生するものだという考えです。第三者に実害がないものを八百長と非難しても意味ないだろうというのが私のスタンスです。面白くなきゃ、見なきゃいいわけですから。それに、少々出来過ぎたストーリーで勝負が決しても、それが国民の大半のニーズであって皆が歓迎すればそれでいいだろうと」ガチンコ相撲に見えるほどうまくやれば問題ないわけだが、今回の十両力士のそれはあまりにレベルが低すぎ、証拠もケイタイに残すという有様。これでは非難はまぬかれない。鵜飼氏によれば、千代の富士や朝青竜は連勝の記録を伸ばすため、下位の者から星を買っていたとぴう指摘があるが、連勝中は出来山だとは分からない内容だった。勝つことがすべてになると、近代スポーツの悪い側面がでてくる。外国人力士も十分な相撲の歴史・礼儀を叩きこまれない未熟なまま、勝てば本人も部屋も潤うという短絡的な思考様式で邁進する。その典型が朝青竜だ。今後の相撲界の課題はこれだ。誰も見に来なくなれば、それで一貫の終わりだ。再生のため頑張って欲しい。

中国共産党  リチャード・マグレガー  草思社

2011-07-02 15:03:12 | Weblog
 7月1日に中国共産党は創立90周年を迎え、胡錦濤主席は一時間に渡る演説を行った。その骨子は*和諧社会(調和のとれた社会)の実現を目指す*科学的発展観をさらに進め、小康社会(ややゆとりのある社会)を建設する*反腐敗闘争は厳しい情勢だ。きちんとできなければ党は責任と支持を失う*経済改革に加えて政治体制改革を推進し、人民の政治参加を拡大する*党と国家機関の法にのっとった権力行使を保証する社会管理を打ち出し、強化する*強大な軍隊は国家の主権と安全、領土の強固な後ろ盾。軍の強化を進める。(朝日新聞による)というものだが、本書を読んだあとの感想としては、最後の軍備拡大以外は到底できそうもないことばかりである。最大の課題は格差問題であるが、これは権力を握る人間が特権を行使して経済活動の主導権をにぎることから生まれるもので、役人の腐敗も当然それについてくる。13億の人間をトップの9人の常務委員が支配する共産党の構造はそれぞれの地方においても強固な官僚主義によって支えられている。党はいわば権力闘争の戦場で、そこを勝ち抜いたものが大きな利権にありつけるのである。したがって党自体には自浄能力は無いので、党を解体しない限り解決は不可能だ。
 本書の副題は「支配者たちの秘密の世界」で、知られざる党の秘密を綿密な取材によって白日のもとに曝したものだ。党は企業内にも政治委員を送り込んで影響力を持つ。西側の企業とは似て非なるものだ。中国での企業活動が困難を極めるのはここに原因がある。参入にはコネとカネが必要で人間関係ができるまで時間がかかる。人知主義と言われる所以である。その党の人事管理をしているのが「中央組織部」で、国中のすべての国家機関および名目上民営とされている組織の中にまで入り込んで行く権限を与えられている。私はこの組織のことは今回初めて知ったが、著者は次のように説明している、「その仕事の規模を理解するには、仮にワシントンにも同じような部門があると想像してみるとよい。その部署がもつ人事権は,アメリカの全官僚をはじめ、各州知事と副知事、主要都市の市長、連邦政府の監督官庁、国内五十あまりの大企業の経営者、最高裁判所判事、『ニューヨーク・タイムス』『ウオールストリート・ジャーナル』『ワシントン・ポスト』の編集長、各テレビ局のトップ、エールやハーバードなど主要大学の学長、ブルッキングズ研究所やヘリテージ財団などシンクタンクの所長まで及ぶ。そればかりか、人事に関する審査は秘密裏に行なわれ、任命理由についての説明は一切ない。昇進の候補者を不適格とみなすときも非公式に行なわれる」と。党がアメーバのようにすべての組織に入り込んでいるのだ。究極の一枚岩と言わなければならない。それに比べて日本はどうだ。本当に危うい。
 今この国に共産党員は人口の5%、6500万いるが彼らがこの国の権力を握っている。けたはずれの富を握った人物がマスコミで報道され、羨望のまとになっているが、多くはいわば国家に寄生して養分を吸う蛭みたいなものである。公正な競争で勝ち取ったものではない。市民社会を形成して個人として成熟していないので、行きすぎた拝金主義がはびこるのだ。本書で、すべては党の指令に依ることがわかった。あの反日運動も党の指示であったことが、明らかにされている。また、党とともに肥大する人民解放軍の問題も悩ましい。胡錦濤は軍の強化を歌っているが、これは軍部に圧力をかけられたのであろう。最近の南沙諸島でのベトナムとの領海問題の軋轢をはじめととする近隣諸国との関係悪化は、軍の自己主張に他ならない。まさに異形の帝国の出現である。