読書日記

いろいろな本のレビュー

ヒトラーのモデルはアメリカだった ジェイムズ・Q・ウイットマン みすず書房

2020-04-25 12:59:48 | Weblog
 著者は冒頭こう述べる、「本書の目的は、ナチスがニュルンベルク法を考案する際にアメリカの人種法に着想を求めたという、これまで見落とされていた歴史を紐解くことだ。それにより、この歴史がナチス・ドイツについて、人種主義の近代化について、そしてとりわけこのアメリカという国について私たちに何を語るのか、それを問いかけることにある」と。
 
 まず、ニュルンベルク法とは、1935年9月15日ナチス政権下のドイツにおいて制定された二つの法律「ドイツ人の血と名誉を守るための法」と「帝国市民法」の総称で、ユダヤ人から公民権を奪い取った法律として名高い。そして、「アメリカの人種法」とは、「ジム・クロウ法」のことで、これは1876年から1964年にかけて存在した人種差別的内容を含むアメリカ合衆国南部諸州の州法の総称である。主に黒人の一般公共施設の利用を禁止した法律を総称していう。しかし、この対象となる人種は「アフリカ系黒人」だけでなく「黒人の血が混じっているものはすべて黒人とみなす」という人種差別法の「一滴規定」(ワンドロップ・ルール)に基づいており、黒人との混血者に対してだけでなく、インディアン・ブラックインディアン・黄色人種などの白人以外の「有色人種」(カラード)をもふくんでいる。

 ナチス・ドイツとアメリカ合衆国は第二次世界大戦で敵国となったが、それ以前は無条件の敵意が明らかに暗い影を落とすことはなかった。それどころか、ナチスが東方に「生存圏」を獲得するにあたって範とした陸の帝国はアメリカであった。いわゆるニューフロンティア運動である。ナチスから見てアメリカとは、「人種的に血縁であり、大帝国を建設したので、敬意を払うべき」イギリスと同格のものだった。どちらも英雄的な征服計画を成し遂げた「北方人種」の政体であった。つまり同じ白人同士ということで親和性が強いということになる。そのナチスがユダヤ人を阻害するためにアメリカの人種法に着目したことはある種の必然と言えるだろう。しかしアメリカは有色人種を隔離するという発想で人種法を作ったが、ユダヤ人は一見して有色人種に見えないところが、ナチスの苦慮するところだった。ユダヤ人とは何かという定義は非常に難しい問題だ。特に「一滴規定」(ワンドロップ・ルール)という一滴でも白人以外の血が混じっていれば、有色人種というのは、これをユダヤ人に適用するのは物理的に困難だ。

 そこでナチスは1934年6月5日に刑法改正員会を開いて、後にニュルンベルク法となるものを立案しようとした。この会議の速記録は1989年に初めて出版されたが、本書はその内容を明らかにしている。ざっくりいうと、アメリカの人種法をそのまま取り入れればいいと主張するナチスの悪魔の裁判官と言われたローラント・フライスラーの一派とそれに反対する穏健派の司法大臣フランツ・ギュルトナー(翌年失脚)の激論が記録されている。
 結局、翌年1935年にこの会議を経てニュルンベルク法ができたわけだが、その成立の陰にアメリカの人種法の存在があったわけである。移民を受け入れて自由と民主主義を謳う国の陰の部分があぶりだされたということになる。そのアメリカはトランプ大統領の下で、再び先祖返りして、異人種に対する抑圧と差別を助長する政策を実行している。これはヒトラーの亡霊が世界を跋扈しているということで、大変恐ろしいことだ。
 

紫の火花 岡潔 朝日文庫

2020-04-19 13:24:21 | Weblog
 腰巻に、ベストセラー『春宵十話』に連なる著者思想の真髄 名著56年ぶり、待望の復刻とある。『春宵十話』(毎日新聞社)が刊行されたのは1963年(今は角川文庫)、本書が朝日新聞社から刊行されたのは1964年で、まさに56ぶりの復刻である。角川文庫では岡潔の一連の随筆が発刊されており、多くの読者を集めている。
 
 本書も『春宵十話』等の作品で述べられている話題と重なっているものが多いが、読むと改めて著者に先見の明があったことがはっきりする。特に教育に関する提言は、現代の混迷する義務教育の在り方の処方箋として傾聴すべきものがある。氏は数学は情緒が大切で、これは大脳前頭葉の働きと関係があるという、逆説的な表現で人々の意表を突いたが、論理を超えたところに人間の情緒の重要性があるという独創的な言葉である。その大脳前頭葉は子供に自由時間を与えて楽しんで物事をやらせることによって発育するという。だから学校は宿題その他でかれこれ口出しをしてはいけない、自由に遊ばせるべきだと。氏の考えを義務教育の実践につなげるには現場の創意工夫が求められるが、私学の一部ではそのような実践をしているところもある。

 そして戦後の義務教育の欠陥をいろいろ指摘されtている。まず自我というものについて、これを個性と考え伸ばすことが大事だと言っているが大きな間違いだという。真の自分は真我であって、自我(小我)ではない。自我を抑制することが真我に至ることになるので、自分のことは後にして、人のことを先にするという心構えを養うことが必要だ。私はそのように教育されてきたと。さらに三歳児の四割が問題児だという新聞記事について、悪い子が生まれるのは親が悪いからだ。悪い子は大きくなって一層悪い親になり、それが一層悪い子を産む。この悪循環が恐ろしいと嘆く。これは昭和30年代の発言で今では差別発言として活字にはならないだろうが、昨今の子供虐待や育児ネグレクトの問題を目の当たりにすると、格差問題を50年以上前に予言していたともいえる。

 また、戦後の日本の教育について、次のようにも言っている、教育改革は終戦後二年目ぐらいに行われたが、その世相は、それまで死なばもろともと言っていた同胞が、それをケロリと忘れ、食糧の奪い合いをやっている時であった。私が一番腑に落ちないのは、この時期に、それまで教育勅語や修身が受け持っていた戒律を守らせるということを、教育から全然抜いてしまったことで、どういう考えでこういうことをしたのか、どうしても想像できない。近頃になって、道徳教育のことが、だんだんやかましく言われてきたが、それは何々しましょうというのであって、何々してはいけないというのではない。それは駄目であると。これは、戦後のGHQによる急激な日本民主化のほころびを指摘したもので、貴重なものだ。純粋に数学を極めた氏でなければ言えなかったであろう。このような無私無欲な立場から日本をよくしたいという熱意があるから今でも多くのフアンがいるのであろう。

 巻末に息子の岡煕也氏が「親父・岡潔の思い出」と題して文章を綴っている。それによると、父親の潔は広島文理大を退職して、和歌山県の紀見村で、荒れ地を借りて農業をしながら数学研究に没頭していた。そして終戦前後は生活が苦しくて満足な食事も摂れていなかった。岡家の鍋の蓋を取り、当時の農家の主婦が「うちの牛の方がもうちっとましなものを食うとらよ」というくらいひどかった。その貧しさを意に介さず岡潔は数学研究に没頭し、1949年に友人の紹介で奈良女子大の教授に就任し、1960年に文化勲章を受章。1962年に最後の論文を発表後、関心が数学から日本を世界をどうすれば滅亡から救うことができるかに移っていったという。偉大な数学者を父に持った煕也氏の思いが率直に表れた良い文章である。

顔氏家訓 顔之推 林田慎之介訳 講談社学術文庫

2020-04-07 09:22:13 | Weblog
 『顔氏家訓』はかつて平凡社の東洋文庫に(宇都宮清吉氏訳注で全訳)納められていたが、現在絶版になっている。今回は林田慎之介氏の抄訳である。顔之推(531~591?)は王朝の興亡が繰り広げられた中国六朝時代末の人で、北朝を代表する文人の一人である。梁・北斉・北周・隋に仕えた。若い頃より文章を作ることを好み、『修文殿御覧』『統文章流別』の編纂に携わり、『切韻』の成立に関わるなど多方面に才能をあらわした。

 『顔氏家訓』は彼が子孫のために書き残したもので、家族のあり方から子供の教育法、文章論、養生の心得、仕事に臨む姿勢、死をめぐる態度まで、人生のさまざまの局面で役立つ知恵が満載の書物である。これは彼が激動の時代を生き抜いたがゆえの知恵であり、普遍的な価値を持つ。
 林田氏が使ったテキストは王利器氏の『顔氏家訓集解』(上海古籍出版社)で註が詳しく読みやすい。項目は多岐に渡っているが、第三巻の「勉学篇」と第六巻の「書証篇」から興味深い内容を紹介しよう。

 「勉学篇」でこう言っている、「士大夫(知識人)の子弟は、六、七歳以上になると、誰しも教育を受けないではすまされない。中には大部な礼の経典や『春秋左氏伝』などまで教わる人もあるが、そこまでいかなくても、『詩経』や『論語』ぐらいは必ず教わる。成長して結婚する年頃になると、精神的にも肉体的にもようやく安定してくるので、この時期をのがさず、勉学の訓練と指導がいっそう必要となってくる。向上心のあるものはよく志を磨いて努力し、学業を成し遂げるが、そうでない者は、この時期から怠惰がひどくなり、そのまま凡人になってしまう」と。『春秋左氏伝』が出てくるのはこれが顔家の家学であったからで、『詩経』や『論語』も当時よく読まれていたことがわかる。

 そして「わずか数年の勉強を怠ったために、長い一生の屈辱を受けねばならないということが、あってよいはずはあるまい」と警鐘を鳴らす。さらに「学業を身につけている者は、たとえどこに行っても安定している。戦乱以来、俘虜の憂き目にあった人は数々あったが、代々の平民でも、『論語』『孝経』ぐらいの書物を読めるというだけで、人の師匠となったものである。昔からの家柄でも、書籍を読みこなせない連中は、耕作か牧童でもやるほかはなかった。こうした実例をみれば、どうして学問に勉めはげまないでおられようか。もしも数百巻の書物を家蔵できていれば、永久に平民に落ちぶれることはない」と言っている。本が好きで、日ごろから読書してなんの利益があるの?と馬鹿にされている人間にとってはまさに救いの神的発言である。

 「書証篇」では『史記』の鶏口と牛後についてが面白い。之推は言う、『史記』の蘇秦列伝に「寧ろ鶏口たらんよりも、牛後となるなかれ」とあるが、これはもともと『戦国策』の文章であったものを省略して、司馬遷が引用したものである。そこで後漢の延篤という人が著した『戦国策音義』を開くと「尸とは鶏群中の王者であり、従とは、牛の子供のことである」という注釈文に出会った。だとすれば、「鶏口」の口は、もともと「尸」という字で、「鶏尸」(鶏の王者)と書くのが正しく、「牛後」は当然、「牛従」(牛の従者)と書くべきである。世俗で行われている、『史記』の文章は、伝写の間にできた誤りだとすべきであると。
 
 普通「牛後」は「牛のお尻」と訳されている。また「牛の肛門」と訳すべきだというのも見た覚えがあるが、之推の説はすっきりしていて合点がいく。この他、古典の字句の解釈についても蘊蓄を披露している。激動の時代に明日の命も知れない状況で、学問に打ち込んだ顔之推は真の知識人と言えるだろう。