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魅惑する帝国 田野大輔 名古屋大学出版会

2010-03-13 08:15:25 | Weblog

魅惑する帝国 田野大輔 名古屋大学出版会



 副題は「政治の美学化とナチズム」。この言葉はヴァルター・ベンヤミンの「複製技術の時代における芸術作品」という論文で、フアシズムを「政治の美学化」と規定した部分の引用だ。ベンヤミン曰く、「所有関係を変革する権利のある大衆に対して、フアシズムはそれを温存させたまま、彼らに表現の機会を与えようとする。従って、フアシズムは政治生活の美学化に行き着く。大衆を征服して、彼らを指導者崇拝のなかでふみにじることと、機構を征服して、礼拝的価値を作り出すためにそれを利用することは、表裏一体をなしている。」と。これはナチズムの美的支配に対する説明として多くの研究者によって用いられてきたが、著者は「政治の美学化」をプロパガンダという言葉で一面的に理解し、大衆操作やイデオロギー統制の問題にナチズムの本質を還元してきた従来の研究に対して批判的な立場に立つ。それは「政治の美学化」を「政治=芸術」の位相で把握しようとするものである。第三帝国を一つの「芸術作品」として見ることで、新たな国家像が見えてくる仕組みである。
 まずはナチの党大会の分析から始まる。人民をブロック(石)と規定し、ヒトラーは石工だ。何十万という大衆が石のように並べられ、総統の演説を聞く。この党大会は厳しい縛りで強制された大衆が参加していたのかと思いきや、そうでは無いらしい。日当が支払われたが、退屈な思いで参加した者も多かったようだ。実際党大会が形骸化してきて大衆は退屈し、そのために娯楽化して行き遂には1939年で中止になったのである。プロパガンダの舞台裏はこのようなもので、大衆の意識をすべて統制できていなかったのだ。掲載された多くの写真がこれを物語っている。開催地のニュルンベルクはお祭り騒ぎで、蚤の市も開かれていた。いわば民衆の祭典だ。このような状況下で、1943年宣伝相のゲッペルスは近代の技術的成果の中に新しい帝国の威信の表現を見出す。それは「鋼鉄のロマン主義」と謳われた。ヒトラーの遺産と言われるアウトバーンにフォルクスワーゲンのようなモータリゼーションもこの流れに入るだろう。ゲッペルスによればナチ的な意味での政治家とは伝統的な芸術の枠組みを超えて、民族そのもの、国家そのものを「芸術作品」として造形する芸術家であった。
 近代的技術国家を推進させる労働を支える大衆に要求されるのは強力な肉体である。その肉体の鍛錬には何が必要かといえば、スポーツである。ヒトラーによるベルリンオリンピックの開催はスポーツ振興の流れで理解することが大切だ。またヒトラーは存命中に自分の彫像を作らせなかったが、これはスターリンと対照的である。それは平均的な市民道徳を身につけ、民心への配慮を怠らなかったヒトラーにとって、自分の彫像を建てるような行為は悪趣味で、政治的にも全く意味がなかった。こういう世俗的なカリスマによる支配をリチャード・セネットは「親密さの専制」と呼んでいる。そこではマスメディアを通じて演出される親密さが人々の注意を政治から政治家に向け、魅力的な個性に感情を注ぎ込むよう方向をそらす。それは安定した平和的な支配であるが、現実の問題を隠蔽している点で危機の原因になっていると彼は言う。これを受けて著者は「ヒトラーそのものに特別な意味はなく、彼に意味を付与したのは民衆だった。ヒトラーを取り巻いた親密さのイメージは笑顔に満ちた政治家が支配する社会に対して警鐘を鳴らしている」と現代政治の本質に言及している。鋭い分析だと思う。ナチスは極悪人ヒトラーの一人の責任で戦争を起こしたのではない。政治はすべての人間を含む総体として考えなければならないという視点をこの書は提供してくれている。力作である。なお最近「毎日出版文化賞」を受賞した田中純氏の『政治の美学』は「ナチズムと美学」からさらに「政治権力と表象」という広いテーマを扱っている。本書より少し読みにくいが、これも力作だ。
 
 

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