読書日記

いろいろな本のレビュー

北朝鮮vsアメリカ 

2008-02-26 22:15:45 | Weblog


北朝鮮vsアメリカ  原田武夫  ちくま新書
 「ならずもの国家」北朝鮮に関する書物は膨大な数にのぼる。金正日の圧制に苦しむ国民の悲惨な生活が、脱北者によって語られるのが一つのパターンである。その内容が悲惨であればあるほどよく売れるらしい。こわいもの見たさの心理につけこんだものであろう。しかしこの本は非常に実証的で、六カ国協議の主役である北朝鮮とアメリカの関係を「偽米ドル」事件を手がかりにして鮮やかに分析している。
 筆者は、北朝鮮が偽米ドル=スーパーノートをつくっているというアメリカの主張は根拠がないと言う。その根拠を、銀行王国スイスの警察当局の「北朝鮮が偽米ドルをつくっている可能性は乏しい」という見解とドイツの最有力紙「フランクフルター・アルゲマイネ」紙に掲載された「偽米ドルはアメリカのCIAによる自作自演だ」という署名記事に求めている。スイスとドイツはアメリカの朝鮮半島をめぐるマーケット争奪戦(北朝鮮は鉱物の宝庫)を牽制する欧州の代表国である。
 アメリカ外交は戦略として他国への内政干渉を実行しているが、その資金調達として偽ドルが使われた。「アメリカによるアメリカのためのアメリカの偽米ドル」の登場である。このドルが相対的に安くなると、次の世界の基軸通貨の筆頭として登場するのがユーロである。従ってアメリカはドルの信用を守るために偽ドルの摘発に乗り出しているわけで、北朝鮮偽ドル事件はこの文脈で考えなければならない。まさに目から鱗で、最近の米朝接近の真相が手に取るようにわかる。北朝鮮を犯人扱いした見返りに経済制裁を解いて、ならず者国家の指定をはずすことはお互いの確認事項というわけだ。拉致問題が解決するまで経済制裁を続けるというナントカの一つ覚えでは六カ国協議のリーダーシップをとれるはずもない。素人目にも日本は行き詰っているという感じを持っていたが、その理由が理解できた。なんと言ってもお金がものを言うのだ。

 

カラオケ化する世界  

2008-02-23 17:02:49 | Weblog


カラオケ化する世界  ジュウ・シュン フランテスカ・タロッコ 青土社 
個人的に言うとカラオケは好きではない。素人の下手な歌をいくら宴会の二次会だからと言って強制的に聞かされるのはたまったものではない。この日本生まれのカラオケがいま世界中で流行しているらしい。本書は世界各地のカラオケ事情を調べたものだ。韓国、中国、東南アジアで人気だというのはなんとなくわかったが、北米、イギリス、ヨーロッパでも大人気というのは意外だった。カラオケルームの持つ閉鎖性や胡散臭さが西欧の雰囲気と合わない気がしたからだ。ところが、さにあらず。今のカラオケの機器は高性能、場所もオープンなステージで行われるらしい。キリスト教の伝道にも一役かっていると聞いて驚いた。
 カラオケの効用は人間関係をフレンドリーにするところにあるようだ。最初は嫌がっていた人が、しばらくするとまるで別人のようにカラオケファンになる。一種の宗教的陶酔とでも言うべきものか。しからばこのカラオケを世界で最も閉ざされた国、北朝鮮へ持って行って南北融和を図ればどうかという話しが最後に載っている(実際の援助物資の中に入れられたようだ)が、向こうの軍歌ばかり歌われたのでは効果はゼロだろう。もちろん、甘く切ない恋の歌がベストだ。

井伊直弼の首 幕末バトル・ロワイヤル  

2008-02-23 09:35:08 | Weblog

井伊直弼の首 幕末バトル・ロワイヤル  野口武彦 新潮新書

 タイトルはいかにもおどろおどろしいが、野口氏の最新刊である。腰巻に「週刊新潮」大好評連載待望の新書化とある。中味は、部屋住みの庶子から幕府権力の絶頂、大老にまで駆け上がった井伊掃部頭直弼が、桜田門外で水戸浪士に暗殺されるまでの幕末史である。週刊誌で好評というだけあって、読んでいて確かに面白い。まるで小説のようである。情景が具体的で、細部がきちんと書き込まれておりイメージがどんどん湧いてくる。吉村昭の歴史小説を読んでいるような錯覚を覚えた。野口氏は神戸大教授として主に近現代文学を担当される傍ら、小説も書いておられたと記憶する。並みの文章力ではない。所々挿入される警句めいたコメントも司馬遼太郎ほど厭味がなくて、気持ちが良い。それにしても第一次資料を読み込む力はすごい。国文学者の面目躍如たるものがある。
 幕末の歴史を見るとまさに現代日本とイメージがだぶってくる。権力の腐敗、拝金主義、治安の悪化等々。さらにグローバリスムという名の黒船の到来による格差社会の出現。内憂外患に身悶えする状況は幕末と同じだ。
 安政の大獄で井伊直弼が強権を発動して、次々と有為の人材を死罪にしてゆく状況は、太平洋戦争で若者が徴兵され死んで行ったのとダブってくる。本来なら近江のどこか大きな寺の住職になっていて不思議は無かった人物が偶然の積み重ねによって最高権力者になる。野口氏は「歴史がどんなに大きく偶然性で動かされたかの実例は山ほどある。幕末史への井伊直弼の登場は、その最大の見本である。」と言っている。
 権力者が一番行使したいのが人事権だ。これは最高権力者から末端の官僚にいたるまで共通している。人事を盾に部下を黙らせる。小権力を握った木っ端役人風情が踏ん反りかえり、それにお茶坊主か宦官のように擦り寄る手合いの姿は噴飯ものだが、
これはどの世界にも存在する普遍的現象だ。幕末史から学ぶことは多い。






 



モスラの精神史

2008-02-19 22:03:49 | Weblog

モスラの精神史  小野俊太郎   講談社現代新書

 モスラとは蛾の怪獣である。ゴジラやガメラなどの爬虫類の怪獣とは全く違う。モスラはカイコガから連想されたものらしい。そこから養蚕、桑の葉、そして桑の字を含む「扶桑」。これは日本の別称である。すなわち、日本的なイメージを体現させた怪獣なのだ。それが戦後のアメリカナイズされた時代に本拠地であるニューヨークをぶち壊しに行くというストーリー。これはどう見ても戦後の政治的状況のアナロジーだ。敗戦の屈辱を深層に秘めたこの怪獣映画の原作者は実は、中村真一郎、福永武彦、堀田善衛という仏文出身の作家、評論家たちであったことをはじめて知った。 モスラがはるばるインフアント島から日本にやってきたのは、あくまでザ・ピーナッツ演じる双子の小美人を救出するためだ。この美女と怪獣の取り合わせは、アメリカ映画「キングコング」に習ったものだが、モスラには男性的なイメージがないのでいささかインパクトに欠ける。
 その後「モスラ対ゴジラ」でモスラは再登場するが、時代の表象を捨て去った単体としての怪獣ではいかにも弱い。従ってその後、ガメラやギャオスに主役の座を奪われたのはいたしかたのないことだった。モスラはこのようにして我々の視界から消えていったのである。この時点から新しい戦後史が始まった。
 






サムライとヤクザ -「男」の来た道  

2008-02-17 21:08:54 | Weblog


サムライとヤクザ―「男」の来た道 氏家 幹人 ちくま新書  
江戸時代の初期は戦国時代の遺風で、武士は刀を取って真剣勝負という場面も多々あったらしい。どんな卑怯な手を使っても勝つことが大事で、これが武士道というものだった。新渡戸稲造の書いた「武士道」は武士の美意識を説いて有名になったが、現実とは違ったようだ。江戸も中期になると天下泰平の影響で、武士は実際刀を取ることはなくなり、旗本連中もすっかりサラリーマン化した。司馬遼太郎は「剣は哲学になった」と言っている。筆者は広汎な資料を使ってこのサムライの精神が町奴やヤクザものに継承されていったと説いている。サムライによる「無礼討ち」が日常的に行われていたと思われがちだが、それほどことは簡単ではなかったらしい。下手にやると逆にお上に訴えられて、切腹させられたこともあったようだ。旗本奴の水野十郎左衛門と侠客の幡随院長兵衛の争いを読んでみると、町人の粗暴さはサムライを越えており、刀を捨てたサムライに成り代わって暴れまわっていることがよくわかる。氏家氏の著作は類書の中では野口武彦のものと並んで面白い。次が楽しみだ。

「国家・個人・宗教 近現代日本の精神」

2008-02-15 11:33:24 | Weblog


「国家・個人・宗教 近現代日本の精神」 稲垣 久和 講談社現代新書
日本人における神概念の欠如が最近の規範意識のなさ、拝金主義の横行を助長しているということは誰しも思うことだ。西欧におけるキリスト教のような精神的バックボーンがいま必要で、それを筆者は公民宗教という名前をつけている。その具体例を示していないのは残念であるが、これからのお楽しみ。日本には八百万の神がましますわけで、神に対する信仰心も篤い。しかし明治維新以後それらの神々が国家権力の傘下に入り、国家神道となり、天皇崇拝への道を開いて結局太平洋戦争での破局へ繋がったのはご承知の通り。この民主主義の世で(最近民度が頓に落ちていると思われるが)天皇制にかわる宗教というのはありうるのだろうか。次回を期待したい。