読書日記

いろいろな本のレビュー

伽羅を焚く 竹西寛子 青土社

2022-11-17 10:03:50 | Weblog
 本書は竹西氏が雑誌ユリイカに連載した「耳目抄」の301回から338回までの文章を収めたもの。時期的には2011年から2015年で、世相としては東北大震災で東京電力福島第一原発事故があって、民主党政権から自民党安倍政権になって強権を発動していた頃である。著者によると、毎月「主題」も「形式」も決めず「事」や「物」や「人」について書くということだったらしい。よって内容は文学的なものから世相に対する批評まで多岐に渡っているが、原発事故に対する国の対応や安倍政権の多数を恃んだ強引な政権運営を、主に国会の討議での言葉の使い方に小説家の視点から批評している。「伽羅を焚く」という表題は、亡父の命日に自分の好きなお香を焚いたという2013年3月号の記事から取ったものである。


 竹西氏は1929年広島市生まれ。ということは今年93歳である。私の母と同い年でともに元気で何よりである。氏は戦争末期には学徒動員で軍需工場などで勤労奉仕に従事したとある。母も女学校時代勤労動員で明石の三菱重工業で働いていた。氏は1945年8月6日の原爆投下の際は、動員先の工場をたまたま体調を崩して休み、爆心地から2,5㎞の自宅にいて助かったが、多くの級友が被爆死し、この時の体験が後の文学活動の原点になっている。氏が福島原発事故にこだわるのも、安倍政権の再軍備を視野に入れた憲法改正の企みに批判的なのも自身の戦争体験にあることは確かだ。母は一市井の人間だが、戦後再び戦争がなく子育てできたことが何よりありがたいといつも言っていた。もし息子を戦場へ送らななければならない状況になったら目も当てられないと。昨今の国際状況は全体主義的な独裁者が戦争を仕掛けるという中で、平和の有難さを理解せず戦争もやむをえないというような言説がクローズアップされがちだが、もう一度、頭を冷やして竹西氏のような戦争体験者の言葉に耳を傾ける必要があるのではないか。77年間平和憲法を守ってきたその歴史は重いのだ。


 竹西氏の怒りは平成二十七年(2015)安倍政権によって、憲法九条の解釈が変えられ、集団的自衛権の行使を認める安全保障関連法案が強行採決された国会中継を見たときに爆発する。首相が「世界のリーダーに」「世界への貢献を」「国民の生命と財産を守るのが私の責任」と唱え続けて、質疑応答が一向に要領を得ない自己主張の繰り返しで、まともに野党の質問に答えないことが常態化していた。氏は俵万智氏の短歌、「天ぷらは和食ですよね」「繰り返し申し上げます。寿司が好きです」を例に挙げて、誰でもわかる易しい言葉にユーモアを漂わせた政権批判だと絶賛している。これはご飯論法と言われるもので、「朝ごはん(朝食)は食べましたか?」という質問に対して、実際はパンを食べたにもかかわらず「ご飯(米)は食べていない」と答えることを指す。首相やその側近がこのような語法を使って答弁していたことを昨日のことのように思い出す。内閣法制局長官まで首相を忖度してこの語法を使っていた。これが民主主義国家かと怒った国民は多かったはずだ。


 氏はこのような言葉の本質を認識しない為政者が作り出した「法」の中で生きざるを得ない苦しさを戦争体験者として危惧している。曰く、「法」の成立と運用に関する限られた為政者の、言葉の揺れについての気持ち悪さがある。国の内外に、政道の諫めを詩作にかねた為政者も少なくはないが、為政者は言葉の専門家であるべしなどとは思っていない。ただ、「法」の運用者である以上、できるだけいい加減でない言葉遣いをしてほしいのであると。言葉で世界を組み立てる小説家からしたら最近の政治家の言葉の貧困は見ちゃおれないのであろう。


 このように竹西氏は自己の戦争体験をもとに優れた作品を生み出してきた。戦争によって壊される市井人の生活をリアルに描いたものが多い。その中で、個人的には「蘭」という短編が、戦時の家族やその周辺の人間模様をひさしという少年の目を通して描いて読みごたえがある。庶民の戦時の生活の断面が鮮やかに切り取られている。是非一読を。今G20に出席中の岸田首相も広島出身だが、この際郷土の大先輩竹西氏に自分の弁舌についてコメントしてもらったらどうか。私の見解は、「言葉は一応すらすら流れているが、陳腐な言い回しが多く人に感銘を与えるレベルではない」である。どうだろうか。

嘉吉の乱 渡邊大門 ちくま新書

2022-11-07 13:00:02 | Weblog
 「嘉吉の乱」とは、室町時代の嘉吉元年(1441年)に播磨・備前・美作の守護・赤松満祐が室町幕府六代将軍足利義教を殺害し、領国の播磨で幕府の討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の争乱である。本書は乱前後の赤松氏の歴史を詳細に述べて、足利将軍との関係等の実相を描いているところが特徴である。P35に赤松氏の略系図があり、満祐をはじめとして主な人物が紹介されている。本書の腰巻に、「前例のない犬死」「自業自得」とまでいわれた暗殺の全貌。守護・赤松満祐はなぜ将軍・義教にキレたのか?とある。この義教という将軍は籤引きで選ばれたことで有名だ。つとに今谷明氏が『籤引き将軍足利義教』(講談社選書メチエ 2003)で述べておられるが、石清水八幡宮で籤が引かれて将軍職が決定された。籤の詳しい内容まで書かれており、大変興味をそそられた。籤引きの根底には、籤は神慮であるという思想があるということをここで知った次第。

 四代将軍足利義持は、応永35年(1428)に後継者を定めぬうちに死去した。(嫡男の五代将軍義量は早世していた)。義持が後継者を決めなかった理由はP82に書かれている。重臣たちは合議の結果、出家していた義持の四人の弟たちの中から「籤引き」で後継者が選ばれることになった。その結果天台座主の義円が還俗して義宣(のちに義教と改名)、六代将軍に就任した。当初は有力守護大名による衆議で政治を行っていたが、長老格の畠山満家、三宝院満済などが死ぬと政治力を発揮して守護大名の家督相続にまで干渉するようになり、意中の者を家督に据えさせた。以後自分の意に背くものをことごとく誅殺したので「万人恐怖」といわれるようになった。

 出家していたものが、還俗して権力を握り、かくまで恐怖政治を実行するとは驚きだが、逆に言うとこれが権力の恐ろしさともいえる。守護大名に対する牽制は赤松満祐にもおよぶ。最初二人の関係は良好で義教は満祐の屋敷を訪問して満祐主催の連歌会に出席などしていたが、その後風向きが変わって義教に疎まれるようになり、永享九年(1437)には播磨・美作の所領を没収されるという噂が流れた。義教は赤松氏庶流の赤松貞村を寵愛し、永享十二年(1440)3月に摂津の赤松義雅(満祐の弟)の所領を没収して貞村に与えてしまった。このため満祐は五月頃に病気と称して出仕しなくなった。いつ義教にやられるかと思って精神的に参っていた模様である。そんな中、六月二十四日に乱が起こった。やられる前にやってしまえということである。

 本書の記述を引用する。「四月に結城合戦の戦勝が報告され、諸家で招宴が催された。満祐の子・教康は自邸で義教を招き招宴を催した。招かれたのは管領の細川持之、山名持豊、大内持世、畠山持永、京極高数という面々だった。満祐の姿がなかったのは、心身を病んでいたからである。この招宴では、酒宴とともに赤松氏が贔屓にした観世流の能楽師により、猿楽が演じられていた。宴たけなわの頃、突如として甲冑に身を包んだ武者十数人が乱入し、あっという間に義教を斬殺した。居合わせた諸大名はすぐさま逃げ出し、反撃することはなかった。わずかに大内持世、京極高数が抜刀し、防戦したという。(中略)義教の首は赤松氏の手に渡った」。簡潔な描写だが、緊迫感が伝わってくる。「万人恐怖」の主体があっという間に消え去った瞬間である。暴力で弾圧するものは必ず暴力で倒される。我々が歴史に学ぶことはこれである。

 幕府の権力を高めるために守護大名を抑えることは室町幕府の将軍としては当然の責務だが、義教の場合は度が過ぎた。自分が押した分だけ押し返された。これを作用・反作用の法則という。義教が還俗せずそのまま天台座主でおれば、おそらく天寿を全うできただろう。死の瞬間義教の脳裏に浮かんだものは何だったか。いや、それを考える暇もなかったというのが実際だったかもしれない。宗教者が俗世で権力に就いたとき、人の道を説くというモットーは簡単に捨てられ、やすやすと恐怖政治の主体になるというのが不思議だ。さて現代に眼を移すと、噂の中国共産党の指導者も政敵を弾圧してプチ義教的だが、押した分だけ跳ね返ってくることを肝に銘じた方がよい。その時は案外近いかもしれない。隣国のミサイル打ちまくり指導者も同じだ。