読書日記

いろいろな本のレビュー

映画 「銀河鉄道の父」を見て

2023-05-23 09:12:13 | Weblog
 『銀河鉄道の父』は門井慶喜が2018年に発表した作品(講談社)である。本のカバーの装丁が素晴らしかったので買った記憶がある。今回、成島出監督で映画化された。父・政次郎に役所広司、賢治に菅田将暉という配役である。タイトル通り政次郎が主役であるが、役所広司の演技が素晴らしく、賢治役の菅田将暉がかすんでしまった感じだ。映画の狙いとしてはそれで正解なのだが。私が役所広司を知ったのは、「うなぎ」という映画を見た時だ。1997年の作品で、監督は今村昌平。不倫した妻を殺害して以来人間不信に陥り、ペットであるうなぎにだけ心を開きながら静かに理髪店を営む男と、自らの境遇を嘆き自殺を図った女(清水美沙)との心の交流を描いた作品だ。役所はこれで最優秀主演男優賞を受賞した。

 原作をどうアレンジするのかというのが興味の中心であったが、賢治のストイックさと、妹トシの夭折する薄幸なイメージはそれなりに伝わってきた。ただ役所の容貌が結構バタ臭いので、悲劇になり切れないのが残念。トシの臨終の場面は『永訣の朝』に描かれているが、賢治がトシの願いを聞いて、松の枝から雪を茶碗に入れる場面はいいとして、後日この詩を読んだ政次郎が「嘘ばかり書くな」と詩集を放り投げたらしい。それは、トシの「今度生まれてくるときは病気で苦しむことなくみんなの役に立てるように元気な体で生まれてきたい」という文言が賢治の捏造であったからなのだ。実際は政次郎がトシに遺言があればこれに書けと巻紙を渡し、そばで賢治が「南無妙法蓮華経」を懸命に唱えていたということらしい。映画ではこれが省かれて、静かにトシの臨終を見守るという風になっていた。父と息子の宗教的対立を可視化することは映画の雰囲気を壊すと考えたのだろう。

 トシの葬儀は浄土真宗で行われたので賢治は参加せず、野辺の火葬の場に出てきて懸命に「何妙法蓮華経」を太鼓を叩きながら唱えるさまは鬼気迫るものがあった。ここが菅田将暉の腕の見せ所と言えるがトランス状態になった賢治を好演していた。その後賢治も肺の病で死ぬわけだが、賢治が手帳に認めた「雨にも負けず」の詩を看病する政次郎が見つけて読み上げる。そして賢治臨終の場で、それをソラで絶叫する。この場面こそ映画のハイライトだ。役所の演技はさすがにうまい。感涙にむせんだ観客が多かったのではないか(観客は私同様高齢者が多かった)。

 裕福な質屋(古着屋)の息子が悪徳商人にはならず、このようなストイックな人生を歩んだということが、人気の源泉であることは間違いない。堕落的・享楽的な昨今の世相を見るにつけ、賢治とトシの人生が清涼剤のように感じられるのであろう。実際の賢治は盛岡高等農林学校時代に寮の同級生に恋愛感情を抱いたとか、性欲を抑えるために一晩中歩き回ったとか、トシも女学校時代に音楽教師との恋愛問題に悩んだとか凡人並みのエピソードが伝えられている。でもだからと言って二人の人間としての評価が落ちるものではない。自分の意思を貫いて生き通したことが尊いのだ。賢治こそはまさに聖職者と言えるだろう。

 

コーヒーの科学 旦部幸博 ブルーバックス

2023-05-12 15:13:33 | Weblog
 著者は薬学者でコーヒーの科学的分析がメインだが、コーヒーにまつわる話題が豊富で、参考書として手元に置いておくとよい本だ。そんな中で私が興味を持ったのは、モカコーヒーのことを詩人高村光太郎が『智恵子抄』で歌っているという指摘だ。モカコーヒーあるいは単にモカとは、イエメンの首都サナアの外港であるモカからかつてコーヒー豆が多く積み出されたことに由来する、コーヒー豆の収穫産地を指すブランドである。その詩とは「冬の朝のめざめ」というもので、智恵子に対する愛情が西洋的・中東的フレイバーでまとめられた独特のもので、大変素晴らしい。指摘されるまでこの詩のことは知らなかった。恥ずかしいばかりである。紹介しよう。

                    冬の朝のめざめ

冬の朝なれば ヨルダンの川も薄く氷たる可し われは白き毛布に包まれて我が寝室の内にあり 基督に洗礼を施すヨハネの心を ヨハネの首を抱きたるサロオメの心を 我はわがこころの中に求めんとす 冬の朝なれば街より つつましく

からころと下駄の音も響くなり 大きなる自然こそはわが全身の所有なれ しづかに運る天行のごとく われも歩む可し するどきモッカの香りは よみがえりたる精霊の如く眼をみはり いづこよりか室の内にしのび入る われは此の時 

むしろ数理学者の冷静をもて 世人の形くる社会の波動にあやしき因律のめぐるを知る 起きよ我が愛人よ 冬の朝なれば 郊外の家にも鵯(ヒヨドリ)は夙に来鳴く可し わが愛人は今くろき眼を開きたらむ をさな児のごとく手を伸ばし

朝の光りを喜び 小鳥の声を笑ふならむ かく思ふとき 我は堪へがたき力のために動かされ 白き毛布を打ちて 愛の頌歌をうたふなり 冬の朝なれば こころいそいそと励み また高くさけび 清らかにしてつよき生活をおもふ 青き琥

珀の空に 見えざる金粉ぞただよふなる ポインタアの吠ゆる声とほく来れば ものを求むる我が習癖はふるひ立ち たちまちに又わが愛人を恋ふるなり 冬の朝なれば ヨルダンの川に氷を噛むまむ

 「するどきモッカの香り」は詩全編にあふれる愛の賛歌とマッチして心地よい。冬の朝の寝床は今一人きりでさみしいが、間もなくわが愛人がそばで一緒に朝を迎えるであろうという確信が読み取れる。愛の力をこれだけ恥ずかしげもなく歌えるというのは、やはり光太郎も若いという感じがする。後の「千鳥と遊ぶ智恵子」の「人間商売さらりとやめて、もう天然の向うへ行ってしまった智恵子の後ろ姿がぽつんと見える」の展開がうそのようである。逆に言うといくら光太郎でも人生の先は読めなかったということか。まあ『智恵子抄』に作為がなかったとは言えないので、「千鳥と遊ぶ智恵子」の現実から過去を潤色した可能性も否定できない。百歩譲ってそうだとしても、「冬の朝のめざめ」の愛の賛歌は感動的だ。

 この詩に見られる通り、コーヒーは生活に潤いを与えるもので、悲しい時も楽しい時も手放せない。喫茶店がなくならないゆえんである。