読書日記

いろいろな本のレビュー

フランクル回想録 V・E・フランクル 春秋社

2012-02-25 10:43:17 | Weblog
 フランクルはナチズムの対抗者としてアウシュビッツ強制収容所の稀有な生き残りの体験を『夜と霧』で発表し、世界的な反響を巻き起こした。精神科の医師の立場で書かれたその書は極限状況に置かれた人間の思惟のありようを提示し,哲学書のレベルに達している。ここで言う「対抗者」とは、彼が反ナチスの政治的な抵抗運動を行なったという意味ではない。なぜならその機会は、彼自身が強制収容所に入れられることによって奪われていたからである。もっとも強制収容所に入れられる前に、ナチスの安楽死政策に医師として抵抗したことはあった。ナチズムの抵抗によって形成された人間観とは「意味への意志」「自由」および「責任性」が人間の本質をなすと言うものだ。
 「意味への意志」とは父母・兄・妻を強制収容所で亡くし、自分一人が生還した後、友人に語った言葉を引くのがわかりやすい。それは「こんなにたくさんのことがいっぺんに起こって、これほどの試練を受けるのには、何か意味があるはずだよね。僕には感じられるんだ。あたかも何かが僕を待っている、何かが僕を期待している、何かが僕から求めている、僕は何かのために運命づけられているとしか言いようがないんだ。」というもので、一心に神の救いを求める宗教者の思考とは一線を画している。実存主義的思考といえる。「自由」はあえて説明する必要はないであろう。「責任性」については彼の「年をとることについて」という文章を参照するとわかりやすい。曰く、年をとることは、結局、人間存在のはかなさの一側面に他ならない。しかしこのはかなさは、根本的には、責任性への唯一の大きな励ましなのである。それは、人間存在の基本的かつ本質的特徴である責任存在の認識への励ましである。それは具体的に言うと、「あたかも、あなたが今なそうとしかけているように一度目の人生は過ちばかり犯してきたが、今や新たに二度目の人生を生きているかのように生きよ」ということである。自分の人生をそのように仮想的かつ自伝的に見ることによって、実際に、自分の責任性への感覚が高められるのであると。
 カントの「汝の意志の格率(道徳的実践の原則)がつねに同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」を彷彿させる言葉である。ナチズムの場合は、「自由」の否定が際立っており、そのために「意味への意志」や「責任性」も無視されたと言いうるだろう。それは人間の本質の否定であり、人間の尊厳性の否定である。
 現在、自分にとってナチズムのような人権を侵害する存在はない。しからば、これからの老年期を実存的に生きることはあの時代に比べて容易なはずだが、実際はどうか。
 

ヒトラーに愛された女  ハイケ・B・ゲルテマーカー 東京創元社

2012-02-22 10:31:29 | Weblog
 ヒトラーの23歳年下の愛人として国民に存在を秘匿された半生を送り、1945年の死の直前、その妻となったエヴァ・ブラウンの伝記。独裁者の日陰の愛人として過ごし、最後は夫婦心中の形で世を去った稀有な存在を生きた女性。本のコピーによると、「従来〝ヒトラーの愚かでつまらない愛人〟と歴史家に片付けられてきた彼女だが、実際は独裁者に対等な口を利くほどの、自分の意思を持つ、活発な一人の女性であった。」ということらしい。そりゃ男女の関係であれば、それぐらいの口は効くわなあ。いくら相手がパラノイアの独裁者であってもというのが率直な感想。二人が出会ったのは1928年10月。党の専属写真家のハインリッヒ・ホフマンのスタジオにヒトラーが来た時だ。そこで働いていたのがエヴァである。彼女はミュンヘンの職業学校教師の次女として1912年に生まれた。ベルリンの地下壕で服毒自殺した時は33歳であった。
 16年間ヒトラーのもとにいたわけだが、ヒトラーは反ユダヤ・反コミュニズムを唱えて世界戦争の野望に燃え第二次世界大戦を引き起こしたが、ドイツ国家と結婚したというようなフレーズでえ民衆を鼓吹したため、自分が妻をめとることは気が引けたようだ。そりゃ、世界を地獄に変えた男が、家庭的な幸福を追求するのは矛盾しているよなあ。したがってエヴァはそこらへんの事情をよくわきまえていたのであろう。しかし何千万という人間を殺戮した男のそばで、しかもオーバーザルツベルクの山荘という別世界で生きている分にはカオスに苦しむ人間の苦悩は理解できなかっただろう。ヒトラーとナチスの幹部たちが山荘で見せる人間的側面は戦争で民衆を虐殺する側面とは違う。その落差をどう考えるか。そこに権力というものの実態を考えるヒントがある。一人の若い女を支配し慈しむ人間が方やユダヤ人殲滅を実行したということは研究に値する。スターリンしかり毛沢東しかり、彼らの権力掌握のプロセスを検証することは今後の世界平和のためにも重要だ。

世界最悪の鉄道旅行 下川裕治 新潮文庫

2012-02-12 15:40:03 | Weblog
 下川氏はこの手の本の先駆者で彼のアジア旅行記の文庫本はずいぶん読んだ。辛口の現地コメントがスパイスのように効いていて面白い。今回はユーラシア大陸2万キロの鉄道旅行に挑戦というわけだ。ロシアのソヴィエツカヤ・ガヴァニ~ウラジオストク~ハルピン~北京~ウルムチ~アルマトイ~タシケント~アストラハン~バクー~トリビシ~ギュムリ~カルス~ハイダルパシャ~イスタンブール~ベオグラード~ザグレブ~ベネチア~ニース~マルセイユ~ボルドー~イルン~リスボンまでの旅行記だ。車中26泊、乗り継ぎ27回、15国境越え、シベリアからポルトガルもでのボロボロ旅と腰巻に謳っている。私が知っているのは北京駅だけ。その他は未知の世界だ。この本のいいところはユーラシア大陸の広大さを短期の時系列で俯瞰させたことにある。本の発行を目的とした旅行であるから、ただ車窓の景色をボーと見ているだけでは済まないところが苦しい。同情を禁じ得ない。
 鉄道は飛行機と違って現地の人間と触れ合う機会が格段に多い。したがって国情や民衆のありようが把握しやすい。ロシアはまだ混乱状態、中国は個人主義・利己主義の客が一杯。中央アジアは治安が悪い。これを読むと日本の鉄道がいかにパンクチュアルで安全かがわかる。車内放送がくどいのは玉に瑕だが。
 最近は海外旅行が盛んで、旅行経験者が多いのでこの手の本もただの旅行案内仕様では売れないのは容易に想像できる。勢い危険な場所とか未知の体験を読者に提供するものになる。でもその暗黒面を強調し過ぎるとその国の人々の本来のイメージをゆがめる危険性もある。いわば両刃の剣である。特に「中国は甘くない」「ダフ屋切符で中国横断」の部分でそれを感じた。下川氏は夙に中国に関しては厳しい。まあ、中国にもそう言われるのは当然というところがあるのは確かだが。どうか次は楽しい旅行記をお願いしたい。これだけ暗い世の中なのだから、せめて人間の善意を信じられるものが良いのではないでしょうか。

愚民社会 宮台真司・大塚英志  大田出版

2012-02-11 09:58:51 | Weblog
 愚民社会とは民度の落ちた現代日本のこと。この二人のインテリ(?)が日本の現状を斬りまくるという趣向の対談本である。「愚民」は「土人」「田吾作」とも言い換えられて登場する。これだけ唯我独尊の対談も珍しい。政治・憲法・天皇制問題とホットな話題が満載だ。
 大塚が司会で宮台が自己の教典をもったいぶってのたまうという感じ。宮台の言うことは、しばらく弟子入りして学んでからでないとすぐには理解不能だ。とにかくバカな民衆は捨ておいてインテリを煽って動員し、何とかこの閉塞した社会状況を打破しようという気持ちのようだ。そして動員の言説においては「実存の不合理」に言及することがもっとも効果的な戦略になりうると言う。具体的には「近代の仮象にコミットせよ」という動員の言葉と、「合理を支える不合理」「規範を支える事実性」といった「実存の不合理」を語る言葉がワンセットになるという具合。そこでは「実存」と「社会」をめぐるアイロニカルな矛盾が表現されるはずで、コミットメントするべき合理的な理由を語る「社会的」な言葉と、コミットメントを支える不合理な実存を語る〈脱社会的〉な言葉とが、せめぎ合うはずだ。そして具体的素材をパターン認識的に示しながら語るのだとのたまう。
 さらに曰く、自分はウルトラパターン化主義者である。パターン化した途端にすべては身も蓋もない〈内在〉になる。だからどんな〈超越〉も〈内在〉にに対応づけることができる。それこそが〈超越〉を志向せずにいられない者どもが永久に逃れられないアイロニーで、だからこそ免疫をつけるしかない。それなのに、それを矛盾だと捉える三島のようなオボコイ者たちが、矛盾を「暴力的飛躍」によってスキップしようとして、冒険主義的というより小児的に噴き上がってしまう。小児には免疫を施す以外になはないと。これは1970年に作家・三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯所に乱入し、割腹自殺を遂げた事件をさしているが、これだけ鮮やかに三島を一刀両断にした言葉を見たことがない。
 ただ、インテリの数は圧倒的に少ないので、彼らを動員してインテリ革命に持って行こうとするとかなり困難が伴う。その最大の障害が選挙制度だ。ここに民主主義のディレンマがあるのはかねて指摘してきた通り。インテリがよいと思う人間と、活字をよむ習慣の無い愚民が選ぶ人間は全然違ってくる。大阪のダブル選挙を見よ。橋下らは調子に乗って、国政に打って出て、日本国を乗っ取ろうとしている。今こそ宮台の言うようにインテリが動員されなければならない。