読書日記

いろいろな本のレビュー

ミシンと金魚 永井みみ 集英社

2022-03-30 10:00:25 | Weblog
 本作は昨年文芸誌『すばる』11月号に掲載され、「すばる文学賞」を受賞した。一読して、最近の若い人の小説にはない古風な感じのテイストで、大いに感銘を受けた。主人公の安田カケイは80~90歳と思われる老婆だが、現在介護施設「あすなろ」でデイサービスを受けている。彼女が自分の人生を語るという内容で、昭和・平成・令和を社会の底辺で生き抜いてきた女性の姿が描かれている。冒頭、「あの女医は、外国で泣いたおんなだ。とおしえてやる」という主人公の言葉が出てくる。同じ女性であるがこちらは無学な苦労人、女医はエリートという対比が鮮明にされる。そして施設で女医の診断を受ける中でのやり取りで、「女医のもの言いは、なんだか恩着せがましいうえに、紋切り型で、じいさんみたくえらそうだ」と不満をぶちまける。そして介護士のみっちゃんが女医に「先生は、外国にいたことがおありですか。それで、泣いたことが」と主人公の言葉を受けて言い放つところが面白い。みっちゃんも苦労人で現在離婚調停中。廃品回収業の夫がケチでお金を家に入れないので、こうして介護士として生活費を稼いでいるのだ。

 みっちゃんも日ごろからこの女医をこころよく思っていないことがわかる。彼女も主人公の側の人間なのだ。みっちゃん曰く「ケチな人間のほとんどは結婚に向いていないと思います。でも、ケチな人間にもそれなりに世間体があるのと、タダでセックスしたいのと、そんな理由で結婚してしまうのです。当然、避妊もケチるので子どもができ、堕胎費用もケチるので息子と娘が生まれました。子どもたちにはかわいそうなことをしました。ろくなおもちゃも買ってやれず、家族旅行など一度も行ったことがありません。云々」と。まさにインテリ女医の生活環境とは、天と地の差がある。世間を這いずり回って生きている人間の原質が吐露される。よって冒頭の「あの女医は、外国で泣いたおんなだ」という主人公の言葉は、階層格差を呪うものであろう。さらに見世物小屋で働く「キンタマ娘」のエピソードも底辺で生きる女性のアナロジーであろう。そして語られる主人公の人生は「みっちゃん」や「キンタマ娘」よりも過酷である。

 主人公の父は箱職人で母は彼女を生んですぐ死んで、継母が来たが、継母はもと女郎で、兄と主人公を薪で叩いて折檻することが常であった。食べ物も満足に与えられず、彼女は犬の「だいちゃん」に乳をもらって育てられる。長じて兄貴はヤクザ崩れでパチンコ屋を経営して地元では知られたワルである。そのパチンコ屋に出入りして大負けして負債を抱えていたのが主人公の夫である。彼は公務員で借金のカタに妹である主人公を妻として押し付けられたのだ。「夫はもともと無口で、大人しかった。兄貴が来て、『ちゃんと可愛がってやれ』と言いつけて帰ると、そのあと律儀に、言われたとおり、兄貴の指図に従った。まぐわいは、亭主の肩越しに柱時計を見てっと、だいたい五分で、ぜんぶ終わった。けど。たった五分のまぐわいでも、子どもはできる。そんで。健一郎が生まれた。それから。健一郎がうまれてすぐ、亭主はふらりと出て行った。それっきり。二度と帰って来なかった」昭和の臭いがプンプンする見事な表現である。これから主人公の苦難が始まるのだが、それは読んでのお楽しみ。路地のような隘路でうごめき、そこから抜け出る手段を持たない人間たち。複雑な人間関係を確認するだけでも一苦労だが、娘の道子を巡る話題は本当に悲しい。ここでタイトルの「ミシンと金魚」の意味が分かる仕掛けになっている。作者の永井みみ氏は1965年生まれで、ケアマネージャーとしての体験を小説化したとのこと。久しぶりに大人の小説を読んだという感じだ。個人的に女流小説家第一位と思う村田喜代子の味わいがある。

 

小説 私の東京教育大学 真木和泉 本の泉社

2022-03-20 15:49:20 | Weblog
 昨年8月,私の大学時代からの50年来の親友であるH君が亡くなった。奥様の話によれば、家族との食事の最中の突然のことであったらしい。最初は心筋梗塞かと思われたが、ある人からは大動脈解離の可能性も否定できないということであった。彼は東京の某私立大学の教授を定年退職して、これから好きなことをしてお互い楽しもうと話し合っていた矢先のことだった。突然のことで最初は信じられなかったが、コロナ禍の最中のことでもあり、家族葬ということで、関西在住の私は東京へ弔問にうかがうことはできず、この状態が今も続いている。

 その一月後に出たのがこの本である。書店でこれを見つけたとき、懐かしさで胸がいっぱいになった。この東京教育大学は私とH君が青春時代を過ごした大学で、私たちの母校である。惜しくも廃学になったが、筑波大学の母体になって、茗渓会という同窓会は引き継がれている。でも筑波大は紛争が起きないような管理体制を最初から敷いていたので、教育大とは全く別物というのが私の見解である。この本は教育大が筑波移転を巡って反対運動が激化した頃の学園生活を描いた三篇の作品からなっている。著者の真木氏は本名・巻和泉と言い、私より5歳上の75歳で、団塊の世代である。しかも文学部漢文学科の先輩で、実際お目にかかったこともある。さらに解説を書いておられる安藤信廣氏は真木氏の同級生で、私が付属高校での教育実習でお世話になった先輩である。中国六朝文学の専門家で最近まで東京女子大の教授をされていた。

 H君の死と本書の刊行、なんとなく不思議な縁とタイミングを感じる。収められている三篇はいずれも著者が宮崎県から上京して入学してからの生活を時系列で書いたもので、人物の固有名詞をそのまま書いているので、ノンフイクションの要素も大きい。大学の寮に入って学生生活を始めた著者は否応なく政治セクトの洗礼を受ける。この寮は桐花寮と言い、当時格安の値段(月200円)で入ることができた。当時は民生の活動家の拠点で、真木氏もその影響を受けて活動家になってゆく。その政治的活動の一端をうかがい知ることができる。現在、共産党の衆議院議員の赤嶺政賢も実名で登場する。彼は沖縄返還前に入学したので、沖縄からの留学生と書かれているのが面白い。因みに大阪で活動している漫才コンビの酒井くにお・とおるのとおる(兄)は岩手県水沢高校から東京教育大学理学部に入学して学生運動に加わって日々機動隊と戦っていたが、フラッと立ち寄った浅草松竹演芸場で見た社会派コントに魅せられ、リーダーのみなみ良雄に弟子入りして退学、後に弟のくにおとコンビを組んで、大阪に移り人気を博している。酒井とおるも桐花寮にいた可能性がある。先生方も共産党のシンパの人が多かったと思う。でも文学部の先生方は業績のある素晴らしい方々だった。

 当時の学生は自治と自由と民主の実現を目指して戦っていた。私が入学した1972年は学生運動の波がおさまってしまった感があったが、それでも大学の反権力の気風は随所で感得できた。時代は変わり、大学は就職するための場であり、娯楽の場という意識が支配的だ。クイズ番組に出て、騒いでいるのを見ると覚醒の感を強くする。でもあの時代権力に必死に抗って戦った人間が多くいたことを本書で確認するのもあながち無意味なことでもない。まして私とH君が過ごした大学であれば猶更だ。

あちらにいる鬼 井上荒野 朝日新聞出版

2022-03-07 11:24:59 | Weblog
 この小説は、作家の井上光晴と瀬戸内寂聴(晴美)の不倫を、井上の娘の荒野が描いたもの。瀬戸内と荒野は父親の不倫後も交流があったらしく、この小説を書くことを瀬戸内に相談したところ、ぜひにと賛成されたのみならず知っていることは話すからということであったらしい。なんともあっけらかんとした感じだ。この作品は、作家・白木篤郎の妻笙子と篤郎と恋仲になる作家の長内みはるという二人の女性の視点で交互に語られていく。

 中身はごく平凡で、この三人の日々の愛欲生活ぶりと家庭生活ぶりが描かれる。読者はこういうゴシップネタが好きなようで、2019年2月の発刊だが、図書館では予約が殺到してなかなか読めないという事態になった。最近文庫化されたが、これも予約でいっぱいだ。これは人気の瀬戸内ならばこその現象だと言える。最近彼女は99歳で他界したが、51歳で出家してから48年、仏門に入ってからの方が脚光を浴びて、小説家としては成功したのではないか。この出家は井上光晴との関係を断つためのもので、この時井上は自宅を新築していた。瀬戸内にすれば井上が家庭を取る意思表示と考えたのであろう。

 この出家事件(1972年)はマスコミで大きく取り上げられたので覚えている。今春聴(東光)大僧正を師僧として中尊寺において天台宗で得度し法名を寂聴としたのだ。私はテレビでその様子を見たが、なぜ今東光が大僧正なのかよくわからなかった。八尾市の天台宗の寺院の住職をしながら「河内物」と呼ばれる作品を発表していた生臭坊主がいつの間に中尊寺の大僧正なんだという疑念が二十歳の自分には晴れなかったのだ。例えば、『こつまなんきん』という小説なんか読んだら実感できると思う。色と欲の河内の人間を描いたもので、後に映画にもなって主演は嵯峨みちこだった。要するに聖と俗は紙一重ということか。瀬戸内は1948年、26歳で夫と娘を棄て出奔した。その後男遍歴を重ねて、作家として独り立ちし、1966年井上と高松へ講演旅行して、恋愛関係になる。この時井上40歳、瀬戸内44歳。ともに成熟した年齢だ。

 小説はこの講演旅行の描写から始まる。初対面からお互いビビッツとくるものがあったのだろう。荒野もその辺を巧みに描いている。どちらも身近な人間だったからかもしれない。井上光晴は貧窮の中で育ち、作品も社会の底辺にある差別と矛盾を被差別者への共感とともに描いている。その井上は艶福家で、いいなと思う女性がいると、全身全霊でサービスするらしい。荒野は言う、「父も根源的な孤独を抱えていました。それを女の人で埋めていたことがあった」と。因みに井上と瀬戸内の不倫が始まった時、荒野は5歳だった。(現在61歳)

 妻の笙子はこの浮気ばかりする夫に愛想をつかして離婚することはせず、最期まで添い遂げている。夫の短編小説を代作するほどの腕前で、娘の荒野は両親の血を受け継いでいるのだろう。結局瀬戸内があきらめて出家しようとしたのも井上を妻から奪うことは困難と判断したからだろう。強い妻である。しかもしなやかである。荒野は母のことを淡々としかも愛情をこめて書いている。この作品の成功の理由もこの母子愛のゆえであろう。

 全体として、不倫という言葉の属性として露わになる、嫉妬・憎しみ・悲しみ等々が前面に出て来ず、それぞれの登場人物をさわやかな感じで描いていることは、すでに故人となった三人のレクイエムとして読めた。