読書日記

いろいろな本のレビュー

慟哭の谷 木村盛武 文春文庫

2023-04-29 09:15:02 | Weblog
 サブタイトルは「北海道三毛別・史上最悪のヒグマ襲撃事件」である。本書は木村氏の昭和40年(1965)刊行の「獣害史最大の惨劇・苫前羆事件」を文庫化したもの。今回新たに第二部として「ヒグマとの遭遇」と題して著者自身のヒグマ遭遇体験なども収録した特別編集版となっている。カバーのヒグマが牙をむいた写真が大迫力だ。事件が起こった時は、大正四年(1915)暮、場所は北海道苫前村三毛別の奥地の六線沢。ここは開拓農民が暮らす場所で、苫前村の中心地まで30キロもある辺地であった。この村を冬眠の時期を逸したヒグマがわずか二日で六人の男女(胎児一人を含めれば7人)を殺害したのである。

 12月9日の午前10時半頃、太田三郎宅にヒグマが侵入、内妻のマユと預かり子の幹夫が殺害された。太田は村の作業で留守にしていて難を逃れた。マユはその場で食害されたうえ連れ去られた様子で、捜索の結果近くのトドマツの根元に埋められていた。その様子は次のように描かれている「捜索隊ら数人が、先刻熊が飛び出てきたトドマツの辺りへ行くと、熊の姿はすでになく、血痕が白雪を染め、トドマツの小枝が重なったところがあった。その重なった小枝の間からマユの片足と黒髪がわずかに覗いている。くわえられてきたマユの体はこの場所で完膚なきまでに食い尽くされていた。残されていたのは、わずかに黒足袋と葡萄色の脚絆をまとった膝下の両足と、頭髪を剝がされた頭蓋骨だけであった。衣類は付近の灌木にまつわりつき、何とも言えぬ死臭が漂っていた。誰もがこの惨状に息を飲むばかりであった。夕刻五時ごろマユの遺体は太田家に戻った」。ヒグマの恐ろしさが身に染みて感じられる場面である。現代でも時々山菜取りに出かけた人が熊に襲われて食害されるという事件が起こっている。本州などから観光に来て一人で山に入り被害に遭うことが多い。ヒグマは雑食の猛獣でありその習性を理解しておかないと、いつ被害に遭うかわからない。

 吉村昭の名作『羆嵐』(新潮社・昭和52年刊 昭和57年文庫化)はこの木村氏の著作がもとになっている。木村氏によると、昭和49年1月、旭川営林署の勤務室に吉村氏から電話があり、木村氏の著作を小説化したいのでお会いしたうえで直接承諾を頂ければという申し出があったという。面会の席で木村氏は二つ返事で快諾した。その後吉村氏は350枚の小説として『羆嵐』を完成させた。事件がショッキングであるだけに、これを小説化することは案外難しかったようだ。『羆嵐』ではマユ発見の場面はどう描かれているかというと次の通りである。

 傾斜をおりてきたかれらを、区長たちがとりかこんだ。「少しだ」大鎌を手にした男が、眼を血走らせて言った。「少し?」区長がたずねた。「おっかあが、少しになっている」男が、口をゆがめた。区長たちは、雪の付着している布包みを見つめた。遺体にしては、布のふくらみに欠けていた。大鎌を雪の上に置いた男が、布の結び目をといた。区長たちの眼が、ひらかれた布の上に注がれた。かれらの間から呻きに似た声がもれた。顔をそむける者もいた。それは、遺体と呼ぶには余りにも無残な肉体の切れ端に過ぎなかった。頭蓋骨と一握りほどの頭髪、それに黒足袋と脚絆をつけた片足の膝下の部分のみであった。「これだけか」区長が、かすれた声でたずねた。男たちが、黙ったままうなずいた。

 「おっかあが、少しになっている」が吉村氏の真骨頂と言える。ヒグマの恐怖をたったこれだけで細大漏らさず表現している。一流の小説家であることの証だと思う。ヒグマは翌日の12月10日の午後8時40分に太田家から500メートル川下の明景家に窓から侵入し明景金蔵とここに避難していた斎藤タケと子供の巌(6歳)と春義(3歳)、さらにタケが身ごもっていた胎児まで食害した。結局このヒグマは12月14日午前10時に射殺された。身の丈2,7メートル、体重340キロ、推定7~8歳のオスであった。

 この事件から、熊の行動パターンとされる定説が確認された。それは次の通り、① 火煙や灯火に拒否反応を示さない。 ② 遺留物があるうちは熊はそこから遠ざからない。 ③ 遺留品を求めて何度でもそこに現れた。
④ 食い残しを隠蔽した。 ⑤ 最初に味を覚えた食物や物品に対する執着が強い。 ⑥ 行動の時間帯に一定の法則性がない。 ⑦ 攻撃が人数の多少に左右されない。 ⑧ 人を加害する場合、衣類と体毛を剥ぎ取る。 ⑨ 加害中であっても逃げるものに矛先を転ずる。 ⑩ 厳冬期でも、冬ごもりしない個体は食欲が旺盛。 ⑪ 手負い、穴持たず、飢餓熊は凶暴性をあらわにする。以上11項目、これだけ見ても手ごわい相手だということがわかる。

 木村氏はこれを踏まえて、動物写真家、星野道夫氏が1996年(平成八)8月8日、ロシア領カムチャッカのクリル湖畔でヒグマに襲われて亡くなった事件や、1970年(昭和四十五)7月、夏季合宿訓練で日高山系縦走中の福岡大ワンゲル部員五人のパーティー中三人が、カムイエクウチカウシ山のカールでビバーク中にヒグマの犠牲になった事件を分析しており、ヒグマとの向き合い方を提起されているのでぜひ参考にしてほしい。三毛産別事件から108年、ヒグマは虎やライオン同様、猛獣であることを改めて認識しなければならない。

完全ドキュメント 北九州監禁連続殺人事件 小野一光 文藝春秋

2023-04-07 15:41:30 | Weblog
 本書を読んで、孟子の性善説・荀子の性悪説の議論を思い出した。近代以降は、人間には善なるものと悪なるものが共存するという考え方が主流になり、「ジキル博士とハイド氏」はその嚆矢とされている。またスタインベックの『エデンの東』もこの問題を扱っていたように思う。アーロン(善人)とキャルの兄弟と母(悪人)の物語で、善人も悪人も滅びるが、その中道を行くキャルが生き延びるという話だ。善と悪の共存を体現したキャルが人間の本質というのがスタインベックの主張だ。ところがこの事件の主犯の松永太の行状を見ると、やはり人間の本質は悪なのではないかと思ってしまう。 

 本書の前書きで著者は「最も凶悪な、との例えを使うことに躊躇の生じない事件というものがある」とこの事件の衝撃の強さを述べる。以下この事件の概略について、「稀代の大量殺人は、2002年3月7日、福岡県北九州市で二人の中年男女が逮捕されたことにより発覚する。最初の逮捕容疑は17歳の少女に対する監禁・傷害というもの。だがやがて、この事件は想像以上の展開を迎える。まず少女の父親が殺害されていたことが明らかになり、さらには逮捕された女の親族6人も、子供2人を含む全員が殺されていたことがわかっていく。しかもその方法は、男の命じるままに肉親同士で1人ずつ手を下していくという、極めて残酷なものだった」と続く。

 本書は時系列に従って公判記録をもとに事件を具体的に再現していく。そこに主犯松永の人間性による具体的な行動が白日のもとに晒され、読む者の心胆を寒からしめる。これは戦時の残虐行為とは違い、平時の市民生活の中で行われたということがより衝撃的である。主犯松永は、詐欺師的性格を持ち弁舌が巧みで、金銭目当てに狙いをつけた女性に言葉巧みに近づき、相手に好感を持たせたうえで金をむしり取っていく。女に金がなくなると急に暴力をふるい支配下に置いたうえで親族にターゲットを広げていく。暴力には通電による方法を多用したとある。電気ショックを与えて恐怖を植え付ける方法はあまり聞いたことがないがこれで相手は反抗する意思をなくすようだ。これでマインドコントロールが完成する。共犯の緒方順子は松永にナンパされて夫婦関係になり、二人の子供を設けていたが、松永の命ずるままに自分の家族を殺すという信じられない行動をする。まさにマインドコントロールの結果と言えよう。しかも彼自身は殺人に手を染めず、遺体をバラバラに処理させて海に投棄したというもの。投棄するまでのプロセスは残虐すぎて、これ以上具体的に書くことはできないが、詳しくは本書を読んでいただきたい。松永のやり口を見ると、支配・被支配のメカニズムが非常によくわかる。言葉巧みに世間話を仕掛け、その過程で知りえた当人にとっての負の情報を使って、相手の弱みに付け込んで心理的に追い込み、暴力によって身体的苦痛を与えて、ぐうの音も出ないほどにしてしまう。悪魔の所業と言えよう。

 松永は結局2011年死刑が確定、緒方は反省の気持ちを表していたこともあって死刑から無期懲役に減刑された。松永は公判中も自己の責任を認めず、無罪を主張し、まったく反省の気持ちはない。最高裁の死刑判決から12年経つが、まだ刑は執行されていない。いまだ執行されないのは、何とかして反省の気持ちを表明させたいという検察の意思があるのではないか。このままでは殺された7人がうかばれないし、松永にとっても不幸なのではないか。親鸞聖人の「善人なほもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや」は彼に当てはめないほうが良いかもしれない。これで極楽往生できるなら、宗教って何なのかという疑義が呈される可能性がある。

 本書は575ページの大著で、小説家でも想像できないストーリーが、現実として我々の目の前に展開する。ディストピア小説を読んだような重苦しい感じは残るが、それも読書の営為として受け入れるしかない。最後にこの事件で亡くなられた人のご冥福をお祈りする。合掌。

習近平三期目の狙いと新チャイナ・セブン 遠藤誉 PHP新書

2023-04-05 13:35:58 | Weblog
 習近平の三期目続投について、その権力の集中について危惧を覚える人は多い。ではなぜそこまでして国家主席の地位に固執するのかについて明確に述べるのは困難だが、著者は次の二つの理由を挙げている。一つは父・習仲勲を陥れた鄧小平への復讐、もう一つは米中覇権競争で一歩も引けない。自分がやるしかないという強い意志だ。そのためにこの十年間でライバルの李克強の出身母体である共青団を無力化してきた。中国共産党のメインストリームである組織を弱体化するのは相当のリスクだが、逆に言えば組織としての腐敗が軍部同様深刻化していると習近平の目に映ったのかも知れない。

 父の習仲勲が鄧小平の策謀によって失脚し、16年間もの長きにわたって投獄・軟禁・監視を余儀なくされたことは、習近平自身や家族も含めて困難な人生を歩まされる原因となった。父は最後は名誉回復されて幹部に復帰したが、近平は父の遺志である改革・解放(これを鄧小平に横取りされたと近平は思っている)を継ぐべく自分が省長だった広東省エリアの経済発展とそのための台湾統一を視野に入れて三期目を実現した。この習近平の意思を説明した類書は他になかったと思う。近刊の『極権・習近平 中国全盛30年の終わり』(中澤克二 日本経済新聞社)もブログの記事を集めたような感じで総花的だった。この点遠藤氏の話題はもと中国プロパーだけあって豊富だ。

 新チャイナセブン(政治局常務委員)は習近平の側近で固められたが、それはこの14億人の巨大国家を動かすのにスピード感を求めたためともいえよう。この巨大国家を動かしているのは巨大な官僚組織であり、たった7人で動かせるわけでもない。であるから共産党に巣食う利権と腐敗を一応はたたかなければならない。そのための側近登用で執行部の意思統一を図りたいのだろう。でもこれは難しい課題である。長年利権団体として続いてきた共産党が利権を手放すことは党の瓦解に通じる危険性があるからだ。また巨大資本の民間企業を叩いて国家に資本を流させる傾向があるが、それは「共同富有」のスローガンのもとで行われている。しかしゾンビをした国営企業を助けるために民間企業のもうけを横流ししても長期的にはうまくいかない。でも国営企業の存続は共産党の幹部には金づるを維持するために必要なので続けざるを得ない。これが中国共産党のジレンマだ。地位利用による富の獲得は中国共産党の宿痾といえる。

 この腐敗に関して、第六章の「習近平が抱える国内問題」の「不動産価格高騰の原因は小学校の入学条件」の項で、びっくりするようなことが書かれていた。著者によると、最近義務教育である公立の小学校に入学する段階においてさえ、学校側が保護者に「不動産所持証明書」を提出させこれを入学の審査に使うという。中国では最近まで公立の小中学校に入学する際も入試があり、優秀な小学校に入るためには学校側に賄賂を渡す習慣が常態化していた。教育がビジネス化していたのだ。これを反腐敗運動に出ていた習近平は「義務教育入学時の試験廃止」と入学を「学区制」にした。ちなみに競争をあおる塾を廃止したことは日本のテレビでも報じられていた。そんな中で出たのが「不動産所持証明書」である。学校側はこれで金持ちの子供を選んで賄賂を要求するつもりなのだろう。教育の現場でもこれなのだから他の分野でも似たようなことが行われているだろうことは想像に難くない。

 「等しからざるを憂う」が共産主義の原点だが、今の中国は権力を持つものが栄えるという構図になっている。これを改めるのは基本的に無理である。ならばいま習近平がやるべきことは、彼自身が地位利用の蓄財をしていないことを国民に知らしめることだろう。本人あるいは親族がスイスやアメリカの銀行に大金を預けていないことが反腐敗運動を行うときのの基本である。もしこれをやれば四期目も夢ではない。