読書日記

いろいろな本のレビュー

スターリン 独裁者の新たなる伝記 オレーク・V・フレヴニューク 白水社

2021-08-31 09:39:07 | Weblog
 著者は1930年代のソヴィエト・ロシア史を研究するロシア連邦の第一人者。ロシア連邦国立文書館に長く勤務し、現在モスクワ大学歴史学部教授。スターリンの伝記はたくさん出ているが、本書を読むと今まではっきりしなかったことが明確に書かれている。

 一つ目はスターリンの最期の様子だ。彼は1953年3月2日に脳卒中で倒れたが、側近の幹部は部屋に入ることをためらい、スターリンの病状を把握できなかった。なぜスターリンの部屋に入らなかったかというと無断で入ってスターリンの怒りを買うことを恐れたためであった。それほどスターリンは恐怖政治を敷いていたのだ。やっと医者を呼んだがすでに手遅れだった。幹部連中が臨終に立ち会ったが、「死の苦悶は恐ろしいものだった。まさに最後の一瞬のように思えたときに、彼は突然目を開き、部屋にいる全ての者たちを一瞥した。その一瞬の眼差しは恐ろしく、狂ったものなのか、あるいは怒った者なのか、いずれにせよ死への恐怖で満ち満ちていた。彼は突然左腕を上げて、何か上にあるものを指さしながらわれわれ全員に呪いをもたらしているかの楊だった。その動きは理解しがたく、脅迫に満ち溢れていた。(後略)」と娘のスヴェトラーナが回想している。彼女は最後の数日間を父の傍らで過ごしていた。事程左様にスターリンはデモーニッシュな存在なのであった。

 二つ目は農民に対する弾圧の模様だ。彼は集団農場コルホーズに農民を囲い込むために、クラーク(富農)を攻撃し、財産と農具を剥奪した。コルホーズは、農産物や他の資源を急速かつ効率的に農村から汲み上げ、工業へ送り込むための導管として役立つと考えた。農民は国の最大部分であるが、国家への重大な脅威にならないという考えで、彼らを弾圧して大飢饉へと導くことになった。これで500万人以上の餓死者が出た。毛沢東の大躍進運動と同じ構図である。このことは第3章「彼の革命」に詳しい。

 三つ目は「独ソ戦」開始前のスターリンの動揺の様子である。最初彼は、ナチスが攻め込んでくることは想定外であって、スパイのデマだと考えていた。この当時彼は共産党内の粛清を実行している矢先で、疑心暗鬼に陥っていたからである。しかし、ナチスの侵攻が現実のものとわかってからも、その対応が稚拙で赤軍と市民に大きな犠牲を強いることになった。

 四つ目は権力者としての在り方について、著者は言う、「彼はソ連の人々がどのような条件下で生活しているのか、彼らは何をどこで買い、どのような医療や教育を受けているのかとする関心を、一度も抱かなかった。彼のもとに届く普通の市民からの手紙や苦情をjほとんど読まなかった」と。自分の敵を粛清しそれが高じて国民を大虐殺する結果を招く。全体主義の通弊である。

 レーニンの陰に隠れながらトロッキーのような弁舌の才能もない元神学生が権力を奪取していく様は、どこかの小宰相と似ている。権力の乱用は本当に怖い。

チャリティの帝国 金澤周作 岩波新書

2021-08-22 14:09:23 | Weblog
 イギリスにおけるチャリティ(慈善事業)の歴史を綴ったもの。キリスト教国家として弱者(範囲は広い)への救済事業があった中で、本書は主に十七世紀以降のチャリティの変遷を俯瞰して述べる。慈善事業は少なくとも国家を標榜する上は大なり小なり存在するものだが、本書を読むとイギリスのそれは非常に伝統のあるものだということがわかる。これはキリスト教国家というだけでなく、大英帝国を築き上げたメンタリティーが関係していると思われる。

 著者はチャリティーを三つ心情の心情で説明しており、これが面白い。それは ① 困っている人に対して何かしたい。 ② 困っている時に何かしてもらえたらうれしい。 ③ 自分のことではなくても困っている人が助けられている光景には心が和む。というものだ。

 1 十八世紀までのイギリスにおいて、①は、文明国の頂点に君臨するイギリス帝国の国民としての優越感や誇りや責任が異国の民への保護者的な同情を掻き立てる。 ②は、苛烈な政治的・経済的な支配の支配や戦争の論理はあるが、宣教師や慈善家がもたらす医療や教育、食糧支援はイギリス帝国の「健全」な側面を示しており、受け入れられるのではないか。③は、さまざまな国の先住民が「保護」され、異教徒がキリスト教を信仰するようになり、いろんな面で外国人が病気や飢えから救われるのはいいことだ。

 2 十九~二十世紀において、①は、敵と戦う兵士や敵に蹂躙された味方の人々を救い、イギリスの道徳的優位を示し、同時に戦争の最終的勝利に向けてチャリティという形で貢献したい。②は、兵士にとっても、戦死者の孤児や未亡人にとっても、母国が自分を忘れないことを実感できる。③は、国外の連合国の人々への支援は、イギリスのリーダ-シップをイメージさせて満足感があり、自国民への支援は同胞を見捨てないやさしさが感じられる。(しかし第二次大戦中はチャリティーの環境はなかった)

 3 二十~二十一世紀において、①は、国家が問題を解決できないなら、ときに国境を越えて連帯する市民の手で対処するのが正義だ。②は、国家も国連も無力な時、チャリティによる救済は、短期的な生活を成り立たせてくれるだけでなく、命の危機を救い、教育の機会を与えてくれる。これは自分は見捨てられないのだという希望を与えてくれる。③は、地元のボランティア活動であれ、内戦で疲弊した外国の医療活動であれ、それらは人間の連帯が、どこまでも柔軟に、可能であることを思い出させてくれる。

 以上1~3のようにまとめてくれているわけだが、特に3はタリバンに侵攻されたアフガニスタンに当てはまるのではないか。脱出したい人々を西側は何とか協力して支援する必要がある。まさにチャリティの力の見せ所だ。それにしてもアメリカはなんと拙速に撤退してしまったのか。その責任は重いと言わざるを得ない。

 また十八~十九世紀において、支援する人々がその対象者を投票で選ぶという制度があったことが報告されているが、非常に面白い。一見不合理のように見えるが、実は国政選挙で選挙権が与えられなかった時代から、中産階級の男性と女性は、一種の模擬国政選挙を楽しんだということらしい。当選するために不断の工夫を要請される姿は営利企業の姿を髣髴とさせるもので、篤志協会型チャリティは株式会社と強い類似性を持つという指摘は興味深い。資本主義社会を生き抜く一つの知恵として位置づけられるので、ギブだけでなくテイクも期待できるのだ。

 いまアフガン情勢を見るにつけ混迷する世界状況を救うキイワードは「チャリティ」だという気がする。その矢先、日本ではあるユーチューバーが、生活保護者を助けるならうちの猫を助けてくれという発言をして問題になっている。人間を猫以下と断定しているわけだ。この御仁はメンタリストの肩書で発信して巨額の収入を得ているらしい(メンタリストという言葉はこの件で初めて知った)。最近は汗水たらして働かずブログで金もうけをするのがはやりらしい。「悪銭身に付かず」という格言はこの御仁には当てはまらないのか。これをちやほやして取り上げるマスコミも問題がある。本当に今の日本のテレビのレベルは低すぎて唖然とする。世界で何が起こっているかも知らず能天気にバラエティーとクイズと大食い・食レポ番組でゲラゲラ笑っているその姿を見るにつけ「日本は滅びるよ」という漱石の『三四郎』に出てくる先生の言葉が浮かんでくる。

 弱者を助ける、これは国家の基本だがそれが十分実行されないことが現実としてある。この時必要なのが、チャリティである。先述のメンタリストはこの発想がない。このような輩がはびこると国は亡ぶ。今の日本はこのような人間を成功者として英雄視する風潮があって、ひどい人権侵害を見過ごしてしまっている。今コメンテーターとして出ずっぱりの元首長もその流れの中にある。どうしてマスコミはこの人物を起用するのか。良識を持った人間がもっと表に出てきてほしい。


レストラン「ドイツ亭」 アネッテ・ヘス 河出書房新社

2021-08-10 07:21:54 | Weblog
 この小説は「アウシュヴィッツ裁判」と「恋愛問題」を融合させたもので、今結構読者を獲得している。この二つの要素はアンビバレントなもので、一つにまとめるのは難しいが、本編はそれに成功している。でも本流は恋愛小説で「アウシュビッツ裁判」は香辛料的要素が強い。

 「アウシュヴィッツ裁判」とはニュルンベルク国際軍事裁判以降、ドイツ人自身によるナチス関係者の裁判で、ヘッセン州の検事長のフリッツ・バウアーを中心に行われた。本書には「検事長」として登場する。彼は他州の検事とともに1958年にナチス犯罪追及センターを設立し、ユダヤ人移送の責任者アドルフ・アイヒマンの居場所を突き止め、イスラエルの諜報機関と連携して1961年、アイヒマンをエルサレムの法廷に立たせるのに成功する(アイヒマンは絞首刑)。この裁判を傍聴した哲学者ハンナ・アーレントの『イスラエルのアイヒマン』は有名だ。そしてこの二年後に実現したのが、フランクフルト・アウシュヴィッツ裁判(正式名称 ムルカ等に対する裁判)だった。300人を超える証人が集められ、ガス室におけるチクロンBによる大量虐殺や、親衛隊員による拷問や虐待を詳細に語ったことで、ドイツ人は初めて強制収容所の実態を知った。数年後に迫っていた時効は撤廃された。今でも時々高齢の元看守が起訴されたりする。

 一方「ドイツ亭」とは主人公の女性エーフアの父親が自宅兼用で営むレストランだ。エーフアはフランクフルトに住む24歳の女性で父母と弟の四人暮らし。目下の関心は恋人ユルゲンとの結婚というごく平凡な女性だ。ドイツ語とポーランド語の通訳を仕事としていたが、たまたまホロコーストの被害者(ポーランドのユダヤ人)の証言の通訳を依頼されて裁判を目の当たりにするうちに、その世界に徐々に引き込まれ運命が変わっていくというストーリーだ。

 この一家が裁判に引き込まれる原因となるのは父親の経歴なのだが、ここでは書かないことにする。平和な家庭が歴史の大きな流れの中に巻き込まれていく様が象徴的に描かれている。結局エーフアの縁談はなしになるが、裁判を経ていろんな世間の問題に触れるようになって新しい視野を獲得する。これを成長と言っていいのかどうかわからないが、とにかくエーフアは前とは変わったのだ。その時点で一旦わかれたユルゲンとよりを戻す可能性を暗示して小説は終わる。

 個人の恋愛問題と人間抹殺のホロコースト問題、この落差を埋めることは非常に難しいが、登場人物のありふれた日常生活と、証人たちの過酷な経験を丹念に描くことによって一人の女性の人間的成長が浮かびあがる仕組みはなかなかうまい。