読書日記

いろいろな本のレビュー

伊藤博文  瀧井一博  中公新書

2011-10-30 09:06:43 | Weblog
 本書は伊藤博文を「知の政治家」と捉え、従来の伊藤像を覆している。サントリー学芸賞を受賞した力作である。新書として読みずらいのは、第一次資料を提示して読みこなす作業をしているためだ。伊藤は若い頃から醜聞の多い人間で、政治家になってもそのイメージで捉えられることが多かった。司馬遼太郎の小説を読んでも、女好きの軽い人物という印象しかない。しかし明治政府の元勲として、近代化を推進する中での彼を見ると「知」への憧憬が人一倍深い政治家であったことがわかる。
 幕末の時代、彼は新しい文明の知識を求めて海外に密航し、世界的視野を身につけて帰国した。その知識は身分制度のしがらみを越えて世に出ていくことを可能にした。伊藤はこの体験をもとに教育を国家の基と考え、教育を受けた国民が身分の枠にとらわれずに自由に職業に就いて自己の才能を発揮させることを国づくりの基本に据えた。維新後、彼はその制度作りに邁進した。そうして作りだされたのが、憲法、帝国大学、帝国議会、立憲政友会、責任内閣、帝室制度調査局、韓国統監府といった諸制度である。著者はこれらについて伊藤の貢献ぶりを詳細に描いている。
 これらの制度は究極的には「国民政治」を実現するために構想されたもので、伊藤は近代日本を代表するデモクラシーの政治家だった。本書に、伊藤がトクヴィルの『アメリカのデモクラシー』を愛読していたという津田梅子の証言を紹介しているが、その証左であろう。彼は貧しい農民の出であるがゆえに、平等社会のもとでのデモクラシーの進展を好意的に捉え、それに積極的にコミットし、それに即した政治体制を樹立しようとした。その方法はゆっくりと無理をしない漸進主義というべきものであった。そして「知」の在り方は実学を基本として、官民がそれを媒介にして繋がり一つの公共圏が形成されることを追求した。福沢諭吉が官と民の峻別に固執し、官を排した民間の自由な経済活動を自らの足場としたのとは一線を画している。
 しかしこのような伊藤の主知主義が逆に政治家としての限界を示すことになったのは皮肉である。その一例として著者は彼のナショナリズムに対する認識不足を挙げる。伊藤にとって、ナショナリズムのような非合理的な感情は、文明化が進めば自然と解消していく問題と捉えられており、韓国統監察として韓国に渡ってからもついに韓国人の反日ナショナリズムの何たるかを理解できずに、結果、それが彼の韓国統治の躓きとなった。1909年10月26日、ハルピン駅頭において韓国独立運動の義士安重根によって暗殺された。以後、伊藤は日本による韓国植民地化の元凶としてシンボライズされていることは周知の通り。その伊藤像はこの書によって描き変えられた。歴史研究の醍醐味を味わえる一冊である。

新・堕落論  石原慎太郎  新潮新書

2011-10-23 20:29:22 | Weblog
 新とあるのは坂口安吾の『堕落論』に対しての意である。坂口のは、戦争下の無我の美しさをうたいしかしそれは死の美学であり、生きるためには人間は堕落せねばならぬ、落ちきることにより真実の救いを発見せよという訴えは、当時の若者たちにとって、戦前・戦中の倫理観を一切否定し、戦後への主体的な生き方を考える革命的宣言として広く深い影響を与えた。石原氏のは「我欲と天罰」という副題が付いており、東北大震災の国難の超克には何が必要かを説いたもの。要はアメリカという間接的な支配者の元に甘んじ培われてきた安易な他力本願が培養した平和の毒ともいえる、いたずらな繁栄に隠された日本民族の無気力化による衰退、価値観の堕落を批判している。
 かつてはあり得なかった現代社会のおぞましい出来事が、国民を含めた国家全体の衰退・堕落を証しているとして次のような例をあげている。一つは死亡した親を弔いもせず食い物にして暮らす家族。一つは新しい愛人のために自分が産んだ子供を虐待して殺す稚拙な母親、一つはただ衝動的に親を殺してしまう若者である。石原氏は言う、家族の中においても失われつつある「人間の連帯」の惨状の根底にある歪んで下劣な価値観、果てしない欲望、金銭欲、性欲の抑制のために今努めなければ我われはこの堕落のままに推移してその内どこかの属国と化し、歴史の中から国家民族として消滅しかねないと。そのためにはアメリカの頸木から脱して自立することが必要で、今の人心の荒廃は一にかかってアメリカの属国であるがゆえの平和ボケの結果であり、憲法九条の改正、核兵器の保持等によって国家の威信を回復するための努力をすべきだと説く。
 これは藤原正彦氏の近著、『日本人の誇り』(文春新書)とよく似たメンタリティーだ。「人間の連帯」の惨状は確かに日々のニュースを見れば明らかだが、それは文化(たとえ属国としてではあっても)の成熟ということではなかろうか。柿が熟柿になって地面に落ちる、あの感じである。成熟するものは元に帰らない。時間の流れは止められないのだ。石原氏の文章はさすが文学者だけのことはあって、格調が高い。氏が強調するアメリカの属国からの離脱、日本国のアイデンティティーの形成、これが具体的に試されるのは来るべきTPPの参加問題である。野田首相はこの国をどの方向に持って行くのだろうか。目が離せない。

中華人民共和国誕生の社会史  笹川祐史  講談社選書メチエ

2011-10-23 11:44:36 | Weblog
 中華人民共和国の誕生は1949年だが、日本の敗戦が1945年であるから、共産党は4年間蒋介石の国民党と主導権争いをしていたことになる。その内情を四川省の例をあげて、戦時徴発のシステム、末端行政の実態、帰郷兵士の現実など、さまざまな分野について言及している。今までは対日戦争勝利から共産党による中華人民共和国の成立まではスムーズに進行したと思われていたが、本書を読むとそうではないことが分かる。著者によれば、戦時徴発にさらされた当時の中国の人々が、戦時下の日本のように、総力戦を遂行する国家との過剰な一体感を持った、いわば戦時統制に馴致された国民ではなかった。彼らは、国家や地域の規範に強く縛られない、もっとしたたかで、国家の側からすれば、より扱いにくい「自由」な民であった。そのために、総力戦のもとであっても社会階層間の標準化(「強制的均質化」)が軌道に乗らず、むしろ、露骨な違法行為も含めて、戦時負担の不公平が広く蔓延した。こうして、脆弱な戦時統制下で甘い汁を吸って成りあがる有力者の台頭や、官僚たちの利己的な蓄財を有効に制御できないまま、社会の全般的な窮乏化が進展し、空前の規模と速度で貧富の格差が拡大していったのである。
 このような社会情勢の形成が中国共産党の階級闘争論に生命を与えた。地主の土地を小作人に分け与えることが毛沢東の政策だったが、ちょうどいいチャンスが生まれたのである。当時の土地改革を指導する幹部だけに配布された内部文書によれば、大衆集会を成功させるためには「訴苦」(地主に虐げられた農民が被害体験をその場で感情を爆発させながら自ら訴える行為)を入念に準備することが必要という主張が繰り返し登場する。これによって、聴衆である農民は地主への憎悪を集団的にかきたてられ、集会は異様な盛り上がりを見せて、農民たちへの劇的な効果を発揮する。しかもこのような効果を引き出すために、「訴苦」を行なう農民は事前に注意深く選定され、さらに、その物的証拠や内容を図解した漫画の類も会場に陳列された。さすがにプロパガンダを命とする中国共産党のやり口ではある。これはまさに文革時の紅衛兵によるつるしあげの祖形である。
 国民党から共産党が接収したものは、旧来の社会秩序が崩壊に瀕して、大小さまざまな暴力的な私的権力が跋扈する社会であった。この負の遺産を解消するためには強権的な政治にならざるを得ない。その残滓はいまも共産党のなかに脈々と受け継がれている。馴致されざる民を統制しなければならない中国共産党の苦悩は昨今の事件のありようを見ればよくわかる。

米国製エリートは本当にすごいのか? 佐々木紀彦  東洋経済新聞社

2011-10-16 09:06:37 | Weblog
 著者は慶應義塾大学総合政策学部卒業後、東洋経済新報社で自動車、IT業界などを担当。2007年より休職し、スタンフオード大学大学院で修士号(国際政治経済専攻)取得。本書はその経験をもとに書かれている。所謂企業派遣というやつである。スタンフオードとは高校時代に夏季セミナーに参加したのが縁で、その素晴らしい環境に魅せられたとのこと。高校生の頃から、外に目が向いていたのだ。
 一読、特に目新しい指摘はなかったが、最近増えている中国・韓国の留学生の様子はそれぞれの国情を反映して面白い。中国人は飽くまで個人のキャリアアップが中心で、国家の政治システム(共産主義)とは関係ないというスタンス。韓国人は群れを作り他国の留学生とあまり交流せず、必死に勉強する。これは嘗ての日本人留学生の姿だと著者は指摘する。自国の政治・経済状況の厳しさがアメリカの有名大学に留学してこちらで就職という道を誘導しているらしい。今日本ではアメリカの大学に留学する学生が中国・韓国に大きく水をあけられていることに危機感を募らせているが、この件に関して著者は杞憂だと言っている。
 原因として、まず第一に少子化の影響、次に経済不況。確かにアメリカの大学に留学すると多額の費用がかかる。そして大きいのが若者が米国的なものに憧れや魅力を感じ亡くなったこと。言い換えれば、日本が成熟国家になったからだと言う。したがって「若者の内向さこそ留学生現象の元凶だ」というのは短絡的だと一蹴している。これには私も同感だ。日本はヨーロッパ並みの成熟した文化国家になってきたのだ。嬉しいことではないか。「売り家と唐風で書く三代目」という川柳がある。商家の三代目で身上をつぶすという内容だが、成熟とはこのようなことを言うのである。中国・韓国の留学生が多いのは両国が発展途上国であるということで、若者の内向き・外向きの問題ではない。特に中国の詰め込み教育などは市民社会の成熟と程遠いことを逆照射している。
 ところが最近日本の一部には、これではグローバル化に抗せないと公立高校のエリート教育を断行すべしと数を恃んで条例まで作り、現場を締め付けようとしている者がいる。大体今頃、公立高校にエリート教育を担わせるという発想そのものが理解できない。40年前からそれは私学の役割になっている(東大合格者のこの40年間のランキングを見よ)。この条例の原案を作った某市の市会議員は「手本にしたのはイギリスのサッチャー元首相の教育改革だ」と新聞のインタビューで言っていたが、階級社会イギリスのまねをしてどうするんだいと言いたい。教育問題は選挙の争点にされることが多いが、それは結果がすぐに目に見える形で現れないからだ。だからいい加減なことが言えるのだ。逆に教員にとってもそこがつけ込まれる要因になっていることは遺憾なことだ。公務員や教員を叩いて喜んでいたら将来日本のありように悪影響を及ぼしますよ。もちろん自分の子や孫にもね。

中国社会の見えない掟  加藤隆則  講談社現代新書

2011-10-08 14:53:28 | Weblog
 副題は「潜規則とは何か」で、この言葉は2001年にジャーナリストの呉思が使ったもの。彼は「明文化されてはいないが、ある集団で広範に認知され、明文規定以上に実生活を支配するルール」と定義した。中国の社会には、長い年月を経て根付いた潜規則があらゆる領域に存在しているということでその具体例を述べる。その中で潜規則と並んで「面子」が大きな重要な意味を持っていることも述べられる。これがはびこると公徳は失われ、私欲のぶつかり合いとなり、利己主義・拝金主義が助長される。こうなるとお上が皇帝であろうが共産党の書記であろうが、関係ないということになる。先頃の温州での新幹線事故は鉄道局の論理がまかり通り、被害者の遺族が軽視されたことは記憶に新しい。共産党指導部の面子、鉄道局の面子、それを順に立てていくと人民にしわ寄せが行くのである。すべて当局の都合で物事が運ばれることを如実に物語っている。この件については『中国大暴走』(宮崎正弘 文芸社)が詳しくレポートしている。宮崎氏は中国新幹線を全線乗り継いだ経験をもとに、その危険性を予見していたようだ。
 暗黙のルールが支配する中国の裏側を司法・地方自治・言論界等についてレポートするが、中国の思想史の教養で分析しているのが類書にはないパターンで面白い。立ち遅れた民衆の意識を啓蒙するために医学の道を捨てて、文学者になった魯迅をはじめ、林語堂、明末から清初にかけて活躍した学者・黄宗羲、民国の陳独秀などの言葉、唐代の詩人杜甫の詩句を引いて人民の奴隷根性とそれを生みだす非情の抑圧権力の問題点を歴史的視野で分析している。さらに儒家と法家の思想がそれぞれ人治主義と厳罰主義の源流になっていることを指摘し、中国の現状が共産党の崩壊があったとしても容易に改善されないだろうという予測を強烈に印象づける。この点だけでも本書の存在価値は十分あると言える。この歴史的パースペクティブが今までの中国批判本にはなかったのだ。一読の価値がある本だ。
 それにしても、抵抗することも批判することもできず、服従するしかない愚民を描き個人の覚醒を求めた魯迅の『阿Q正伝』の世界が未だに現代中国にはびこっているのはどういうことなのか。 

ムッソリーニ(上・下)  ニコラス・フアレル  白水社

2011-10-02 08:20:26 | Weblog
 ヒトラーやスターリンの伝記は数あるが、ムッソリーニのは少ない。それを見込んでの出版だろう。上下合わせて800ページの作品である。ムッソリーニと言えばフアシズムが合言葉だが、本書はフアシズムが悪い政治体制ではないという評価を下している。このような立場は、訳者の柴野均氏によると、歴史修正主義と呼ばれイタリアでは有力らしい。訳者曰く、基本的にイタリアでの歴史修正主義は、フアシズムと反フアシズムの対立が持っていた歴史的な意味を可能な限り小さくして、歴史相対主義に置き換える傾向が強い。したがって、フアシズムのプラス面を持ち上げるとともにマイナス面を小さく評価する。その一方で反フアシズムとレジスタンスの運動を少数者の運動と見なして、その歴史的な意義を取るに足りないものとすると。
 本書もこのラインに沿って書かれている。例えば「フアシズムとはブルジョワジーとプロレタリアートの間の闘争ではなく、生産者と寄生者の間の闘争だった。彼等が求めたのは労働者階級の勝利ではなく、どの階級であれ、生産的な人々の勝利だった。これが意味したのは、一例をあげれば、生産的ホワイトカラー層と生産的ブルーカラー層の協力であり、対立ではなかった。資本主義(第一の道)と社会主義(第二の道)の間の『第三の道』という言い方を、階級間も協力と階級闘争の終焉をもたらす協同体国家の説明としてとして流布させたのはフアシストたちだった。ムッソリ-ニは書いた。『フアシズムの力はこの点にある。つまり、フアシズムはあらゆるプログラムから力を持つ部分を抜き取り、それを実現する力を持つ点である』。したがって、75年後に東欧の共産主義が崩壊したのち、フアシストの『第三の道』が紀元2000年後の左翼の繰り返し主張するテーマとなったのは皮肉なことだ。左翼にとって『フアシスト』は最悪の侮辱の言葉であり続けているのに」(上巻232ページ)と左翼を冷笑している。
 したがってムッソリーニに対する描き方も好意的で、ヒトラーのような悪逆非道な人間ではなかったことを強調している。ナチスとの同盟は、侵略回避の緊急措置だったとか、独裁強権的な弾圧はあったが、ユダヤ人虐殺はなかった等々。派手な女性関係の記述も人間的には善良だったという間接表現のような気がする。最後にパルチザンに捕まり処刑され、愛人のペタッチとともにミラノのロレート広場で逆さ吊りにされるまでの記述は小説以上の緊迫感があった。そこでも処刑したパルチザンの行為を非難する筆致が散見される。歴史的真実はどうだったのか、この書を批判する者が出てくることが重要だ。
因みに、今、大阪府の橋下知事率いる維新の会が議会に提出した「教育基本条例」「公務員基本条例」が世間の注目を集めている。公務員と教員を叩き潰してしまおうというものだが、この手法をフアシズムにひっかけて「ハシズム」と名づけて批判しているのが、山口二郎北大教授だ。しかし、庶民はフアシズムがどういうものかも知らないし、ましてや「ハシズム」の危険性など到底理解できないだろう。山口氏のようなインテリの言説が啓蒙作用を果たせないジレンマがここにある。民主主義の難しさである。公務員を叩いて喜ぶ庶民のメンタリティーに深く食い込んでいる御仁だけに厄介だ。下情に通じているという気がする。逆に本書のようにフアシズムのどこが悪いのかと居直ってくる可能性がある。橋下氏のブレーンが本書を読んでいないことを願うばかりだ。