読書日記

いろいろな本のレビュー

寺山修司のいる風景 寺山はつ 中公文庫

2009-04-29 10:59:05 | Weblog
 天才詩人寺山修司の母、寺山はつが修司の思い出を記したもの。修司五歳の時、夫八郎は青森連隊に入隊、以後母子二人だけの生活が始まった。夫の死後は進駐軍の仕事で糊口を凌いでいたが、その間、九州に転勤になったり、職場の都合で寮生活を余儀なくされたりで、母子別れ別れの生活が八年ほどあった。修司が早稲田大学に入学してからやっと一緒に生活できるようになった。その間の修司との手紙の内容や幼い頃の思い出を綴った文章は、愛情に満ちており、修司も抵抗なくそれを受け入れている。マザコンと言えばそれまでだが、愛情のこまやかさにおいて抜きん出ている。女手一つで育てた息子は詩人・俳人・歌人としての才能を開花させて、文壇に躍り出た。しかし、宿痾のネフローゼで夭折した。母の無念はいかばかりか。
 身体髪膚これを父母に受く、あえて毀傷せざるは孝の始めなり。(孝経)というが、母を残して死ぬ息子は、親不孝の極致。修司も亦た無念であったろう。世に逆さまを見ることほど辛いことはない。
 「花売り車どこへ押せども母貧し」この俳句は母の懸命に働く姿を彷彿させて感動的だが、はつと修司は結局貧しさから解放されることは無かった。どこまでも貧困の影をまといながらの人生と言える。有名な、「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」という短歌は上の句と下の句の座りが少し悪いが、幼くして戦争で父を亡くし、そのことが後の母子の厳しい生活を強制したという意味では、修司の正直な気持ちであったろう。母とは誠にありがたい存在である。

検定絶対不合格教科書 古文 田中貴子 朝日新聞社

2009-04-25 15:02:58 | Weblog

検定絶対不合格教科書 古文 田中貴子 朝日新聞社



 文部省の教科書検定は検閲の言い換えみたいなもので、国語の場合は道徳の教科書に近い。著者は現行の検定制度下では合格しないであろう古文の教材を発掘して見せてくれている。「性」や「宗教」はご法度であるから、逆にこれを入れれば、検閲不合格教材になるのだ。第二部の「教科書には載らない古文を読む」で、著者の読ませたい古文が列挙されている。あまり目にしたことのないものが多くて、コメントしづらいが、バラエティに富んでいて退屈しない。逆に教科書は退屈だということの証左に他ならない。どちらかというと、第一部の「教科書を読み直す」の方が、面白い。
一、児のそら寝 (宇治拾遺物語) 二、雪のいと高う降りたるを (枕草子) 三、芥川 (伊勢物語) 四、公世の二位のせうとに (徒然草) 五、木曾の最期(平家物語)の文章を国文の専門家としての目で読み直し、問題点を指摘している。一では「児」の存在意義をないがしろにした、解釈を強要する教科書の設問に対する批判が快い。僧に対する児の意味は、同性愛の相手であることに間違いはなく、それに一切触れないことは、作品そのものを読まないことと同義である。二ではいつすだれを下ろしたのかという基本的な問題を分かりやすく解明している。清少納言は学をひけらかす、好かんタコだというのは俗説に過ぎないと一蹴する。三は正文の引用の仕方が恣意的であってはいけないという例として警告を発している。正文を恣意的に削除することは作品解釈をゆがめるもので、あってはならないのである。四はあだ名をつける面白さが根底にあるとしてクソ真面目に徒然草を読むことの愚を説いている。五では巴という女性の素性を解き明かし、正しい解釈を示している。
 このように古文においても教科書掲載の作品については問題が多い。一番多いのは現代文もそうだが、恣意的な削除だ。高校生にとって不適切というような理由でなされることが多い。それでいて、学習指導要領は、細かい文学的解釈はしないようにという注意が書かれている。これでは読解力などつくわけが無い。文部科学省は何を考えているのだろか。文学研究の第一番の仕事は正しいテクストを確定する事なのに、正文を改竄、削除することが教育現場で横行する事は、人文科学の衰退を助長することでしかないのだ。反省すべきである。

「論語」再説 加地伸行 中公文庫

2009-04-18 14:23:15 | Weblog

「論語」再説 加地伸行 中公文庫



 儒教の宗教性を日本の読者にいち早く知らしめたのは加地氏である。日本の葬式の伝統は仏教のものではなく儒教のものである。日本仏教の儀礼は、年忌という命日や、位牌などといった儒教の祭礼に関する儀礼を盛んに取り入れ日本の中に根付いていったのであると。これまでは儒教といえば、「論語」に代表されるように、死を説くのではなく、現世、それも政治の世界を説くもの、また「礼記」のように日常の礼儀作法を説くものという説明がなされてきた。実はこの考え方は儒教の一断面しかとらえていないのだ。
 著者によれば、一、孔子以前の儒(原儒)の土俗宗教性、二、孔子の説く儒教の宗教性・哲学性、三、孔子より数百年後の漢代に始まり、ずっと後まで続く(政治的性格の強い)経学の三者を区別しなければならない。世上よく知られているところの、天下国家を論じる経世致用の儒家とは、実は三の経学を学んだ人々のことである。経学とは、秦の始皇帝がたまたま行った焚書坑儒という伝説的事件をダシにして、秦王朝から漢王朝へと移るときに完成される中央集権的皇帝制の理論に合うよう、新史料をたくさん作り出しては、いずれも焚書以前の古い書物だと吹聴し、一、二の古代儒教を改変して登場したグループを一つの軸とするところの、現実政治理論である。個人に関わる死の問題などは蹴飛ばして、つとめて国家に関わる経世致用を説いた内容であり、この経学が、後の人に儒教として理解されてゆく。しかもそれは、十二世紀の朱熹によって、さらに一層宗教性を薄め、政治性・礼儀性(道徳性)を強くしたためである。その結果、十二世紀以後、道徳的な礼儀秩序中心の政治主義的儒教が一層東北アジア一帯に普及する。そうした朱子学的経学によって儒教を見ている人は、原儒や孔子の儒教における宗教性が見えなくなっているのであると。まことに明快な説明と言わねばならない。
 朝鮮儒教の儀礼性はまさに朱子学によってもたらされたものであるし、孔子の伝記を読めば、原儒としての宗教性は明らかだ。今まではこの三点を総合的に見る視点が欠けていたのである。その意味で加地氏が儒教の宗教性を説かれた意味は非常に大きい。本書を導入として氏の「論語」(全訳注 講談社学術文庫)を読まれることを勧めたい。目からウロコの新見解がたくさんあって、飽きさせない。

アメリカの宗教右派 飯山雅史 中公新書ラクレ

2009-04-18 11:29:44 | Weblog
 アメリカは世界中で突出して宗教的な国だということは案外知られていない。有名な大学、ハーバード、コロンビア、プリンストン、ジョージタウン等々が、キリスト教の団体が設立したものであることからもわかる。その中で今、宗教右派と言われる勢力が、アメリカの政治に大きな影響を与えつつある。彼らは基本的に共和党の支持者で、大統領選の候補者に、人工妊娠中絶と同性愛に対する立場の表明を迫ってきた。もしこれに賛成と言おうものなら、たちまち不支持が表明されるのである。また進化論に対する嫌悪感も非常に強い。要するにアメリカの保守的思想集団である。彼らはアメリカの政治を動かす大きな力を持っている。オバマ大統領は民主党で、民主党は本来は宗教に冷淡だったが、右派の代表である福音派の取り込みに力をいれはじめている。本書は清教徒革命から現代に至る、アメリカのプロテスタントの歴史を政治との関連で俯瞰したものである。
 1920~1930年代にプロテスタントの大分裂が起きた。これは進化論など近代科学を受け入れる「近代主義者」と、それを拒否して聖書を字句通りに解釈する「原理主義者」の大論争がきっかけだった。結果は近代主義者が勝利して、敗れたほうは独自路線を歩みはじめて原理主義派となった。一方で原理主義にもついて行けず、新たな穏健派を作った者がいた。彼らは、福音派と呼ばれることになった。そして、論争に勝利して、主要教派の主導権を握った近代主義者たちは、多数派で主流派と呼ばれるようになった。主流派プロテスタントは全米キリスト教会協議会(NCC)を作り、福音派プロテスタントは全国福音派教会(NAE)と各種原理主義団体(ACCなど)とペンテコステ派独立教会で構成されている。
 この福音派は行き過ぎたリベラルに対して常にチェックする機能を果たしてきたが、彼らが運動目標としてきた「人工妊娠中絶の禁止」や「同性愛結婚禁止の憲法修正」「公立学校での祈りの復活」などは一つとして実現はしていない。逆にこうしたテーマで国民を分断し、対立を煽ることによって運動の勢いを維持してきた宗教右派の、過激で攻撃的な言葉が、耳障りに聞こえてくる時代になってきたと著者は言う。人種の坩堝アメリカがキリスト教の一派に道徳・規範を主導されたら、これも問題だ。無神論者が気楽に生きていける共同体がなくなることは大変危険である。神の国アメリカのゆくえはいかに。

日米同盟の正体 孫崎享 講談社現代新書

2009-04-12 08:22:20 | Weblog

日米同盟の正体 孫崎享 講談社現代新書



 最近読んだ類書の中では一番面白かった。面白いという意味は、問題の分析が鋭くかつ正鵠を得ているということである。日米関係は「日米安全保障条約」締結以来、同盟国として緊密な友好関係を基盤として、今日に至っている。しかしグローバル化の波は、経済のみならず外交にも及んでおり、日本としても、ただアメリカに追随するだけではダメな時代になりつつある。そこら辺の事情を著者はかいつまんで、分かりやすく説明している。
 例えばシーレーン構想。アメリカの意図は、オホーツク海に集結するロシアの原子力潜水艦をマークするために、その役割を日本に任せることにあった。ロシアの原潜は直接アメリカを攻撃する時の重要な役割を担っている。単に西側の船舶を攻撃するために集結しているのではない。この時期日本はアメリカとの間で経済摩擦問題があり、これを無難に切り抜けようとして唯々諾々とアメリカの要求を受け入れ、しかもPー3C対潜水艦哨戒機を大量に購入させられてしまった。このとき日本はこのアメリカの戦略を見抜けなかった。かつてキッシンジャー国務長官は小平に「日本人は未だに、戦略的な思考をしません。経済的な観点からものを考えます」と言ったが、この戦略思考の無さが、アメリカに足元を見られる原因になっている。キッシンジャーはニクソン大統領の下で中国の毛沢東と米中関係を電撃的に回復した立役者だが、そのときも日本はただあっけにとられていただけだった。
 小泉元首相はブッシュの番犬といわれるほどアメリカ追随一辺倒だったが、このままでは日本はいいように利用され、あげく世界から孤立するとも限らない。オバマはイラク撤退と並行して、アフガニスタンに兵力を差し向けることを明言している。この意味はいまのところ明確ではないが、イランの牽制と言うことではないかと推測される。イランは著者によれば、奸計と謀略で生きる国で、アメリカにとって手ごわい国である。イランの核は世界の脅威で、中東とイラン問題はこれからの重要課題になる。オバマは日本に対してアフガニスタンに自衛隊を派遣することを求めてくることは間違いない。このときどういう対応をするのか、日本の力が試される、世界はこれを注視しているのだ。アメリカの国益でなく、日本の国益を考えるのが政治家の任務である。アメリカのイエスマンでは世界の失笑を買うだけだ。

戦国仏教 湯浅治久 中公新書

2009-04-08 22:14:33 | Weblog
 浄土宗、浄土真宗、曹洞宗、臨済宗、時宗、法華宗、日蓮宗などは鎌倉新仏教と呼ばれるが、これらの宗派が自立した存在となり、社会に影響力を持つようになるのはいつかというと、それは戦国時代なのだそうだ。著者は言う、日蓮や親鸞の教説が一定の社会的基盤をもって民衆社会に受容されるようになるのは戦国時代であり、それ以前の南北朝から室町時代、それらは延暦寺の一門流に過ぎず、接しうる人々はごく一部の人に限られていたと。この意味で、鎌倉新仏教は、戦国仏教と考えた方がはるかに実態に即しているとのこと。これは一般の読者には自明なことでは無いので、新たな知見を得た気がする。
 著者は日蓮宗を例にあげて、日蓮以後、彼の六人の弟子の軌跡を追いながら、この宗派がどのような経過を辿りながら民衆の中に根付いていったかを詳細に検討している。国家権力の弾圧に耐えながら生き延びていく様子はどの宗派にも当てはまる。この時代の新宗教は、教祖による経典の深い解釈に淵源しているという意味で、天理教など教祖の憑依によるものとは、大いに一線を画している。よって女性の教祖はほとんどいない。いたとしても、ただの巫女として歴史の中に埋もれたのであろう。
 戦国時代に新仏教が民衆の心をとらえた背景には、寒冷な気候と頻繁に起こる飢饉、人命を軽視する殺伐たる社会状況があった。現代の感覚では想像できない荒涼たる世界であったようだ。であるがゆえに人々は新仏教に帰依していったのだ。魂の救済を求めて。この乱世が徳川幕府の成立で治まり、平和が保証されるようになると、仏教は権力に取り込まれ堕落の道を歩みはじめることになる。宗教と権力の関係が大変よくわかる。