読書日記

いろいろな本のレビュー

消えた将校たち J・K・ザヴォドニー みすず書房

2013-03-21 10:20:12 | Weblog
 副題は「カチンの森虐殺事件」。この事件については近年、研究書が発行されたり映画になったりして周知されるようになったが、戦後かなりの時間がたっても真相が明らかにされなかったという点で特異な事件である。カチンの森はソ連領スモレンスク市の西方約16キロにある。このあたりはもともとコズリンスキー家とレドニツキー家という二つの旧家の領地で、1896年から1917年までレドニツキー家がこの土地を所有していたが、1917年の革命以後はソ連政治警察の管轄下にあった。この地域は1941年のドイツ軍の侵攻によって占領された。1943年にドイツ軍はこのカチンの森で5000人ものポーランド将校が射殺され埋められているのを発見した。死体はすべてドイツ製の弾丸で射殺されていたため、ドイツ政府は独立の調査団、ポーランド赤十字社調査団、ドイツ法医学特別調査団を招いて、現地調査に踏み切った。もし容疑をソ連政府に転嫁できれば、ポーランド亡命政府とソ連政府のあいだに亀裂ができ、連合国はばらばらに分裂するかもしれないとの希望があったからだ。
 調査では将校たちはみな後ろ手に縛られ、後頭部を銃で一撃されていた。銃弾はドイツ製だが、ソ連にも輸出されており、将校たちの持っていた手紙や写真などの遺留品から、彼らが処刑されたのは1940年4月から7月にかけてであることが分かった。この時期はまだドイツ軍が侵攻していない時期で、ソ連が支配していたことから、ソ連の秘密警察による犯行が疑われた。しかしソ連政府はドイツ軍の仕業であると言い募り、アメリカやイギリスも連合国の一員であるソ連が犯人では都合が悪いので、あくまでドイツ犯人説に加担した。この構図は戦後も続き、真相の解明が遅れてしまった。実はこの事件はドイツ軍の言う通り、ソ連の秘密警察NKVDの仕業であった。ソ連が正式に罪を認めたのはゴルバチョフ大統領の時だった。
 本書は今から50年前に刊行されたもので、ソ連犯人説を主張した先駆的な書である。当時は真相が公にされない中で、広汎な資料当たって真実を解明したもので、今も研究者の引用が最も多いと言われている。改めて言うと、カチンの森事件とはソ連秘密警察NKVDがスターリンを頂くソ連共産党政治局に命じられて、ポーランドの将校と知識階級22000人(あるいは25000人)をロシア、ウクライナ、白ロシア(現在のベラルーシ)の各地で1940年の4月から7月にかけて組織的に一斉に殺害した、20世紀で類例のない歴史的蛮行を指している。西ロシアのスモレンスク郊外のカチンの森で集団墓穴の遺体だけが最初に1943年に発見され、後に事件の広がりがわかってからは全体の象徴としてこの名が使われている。
 かくも多くの将校たちが短時間で抹殺された理由はなにか。著者はそれを共産主義の階級闘争理論に求めている。インテリは抹殺されるべき階級だったということだ。彼らはポーランド軍正規将校のほかに、予備役で招集された、医師、弁護士、大学教授、中高校教師、技術者、パイロット、実業家、芸術家、ジャーナリスト、等々社会の中枢を担う人々だった。彼等に対する尋問は過酷を極め、共産主義と相いれない人材と判断されれば抹殺と決まった。逆に利用できると判断されたもの(ごく少数)はソ連に送られ生き延びた。この蛮行によって逆にスターリン時代の共産党の残虐性が浮き彫りにされる。共産主義というユートピア実現の営為は人間を管理統制して抑圧するという人権侵害の上に成り立つという矛盾を実行することにある。思想の純化は宗教と同じで多くの危険を孕んでいる。

哲学の起源 柄谷行人 岩波書店

2013-03-10 13:38:44 | Weblog
 著者は前著『世界史の構造』(岩波書店)で社会構成体の歴史を「交換様式」から見る試みをした。それには四つのタイプがあり、A互報(贈与と返礼) B略取と再分配(支配と保護) C商品交換(貨幣と商品) D=Xを想定した。これについて著者の解説があるので引用する、「この中で、通常『交換』と考えられるのは商品交換、すなわち交換様式Cである。しかし、共同体や家族の内部で見られるのは、そのような交換ではなく、贈与とお返しという互酬交換、すなわち交換様式Aである。つぎに、交換様式Bは、一見すると交換とは見えないようなタイプの交換である。例えば、被支配者が支配者に服従することによって安寧を得るというような交換がそれである。さらに、交換様式Cは、一見すると自由で対等な交換でありながら、貨幣を持つ者と商品をもつ者の間の非対称性があるため、それがBのそれとは異なるタイプの階級関係をもたらす。最後に交換様式Dは、交換様式Aが交換様式B・Cによって解体されたのちに、それを高次元で回復するものである。言い換えれば、互酬原理によって成り立つ社会が国家の支配や貨幣経済の浸透によって解体されたとき、そこにあった互酬的=相互扶助的な関係を高次元で回復するものがDである。Dに関して重要な点は、第一に、A・B・Cと異なり、想像的な次元に存在するということである。またDはたとえ想像的なものであるにしても、たんなる人間の願望や想像ではなく、むしろ人間の意志に反して産まれてくるものである。以上の点は交換様式Dがまず普遍宗教において開示されたということを示唆するものである。」以上が四つのタイプの説明であるが、普遍宗教は本性的に社会主義的な運動であった。
 世界各地の社会運動は19世紀半ばに至るまで、普遍宗教という衣裳のもとでなされてきた。それ以後、社会主義運動は宗教性を否定して「科学的」となった。しかし、そのような社会主義は交換様式BやCが支配的であるような社会しか実現しなかったため、魅力を失ってしまった。(ソビエト共産党の崩壊など)しかし交換様式BとCが支配的である限り、これを超えようとする衝動が絶えることはない。その交換様式Dは宗教というかたちをとることなしにあらわれることはないのか。その最初の事例をイオニアの政治と思想に見出したのが本書の執筆動機であると述べる。
 著者の問題意識はこの交換様式ABCを止揚したDのありようを探ることにあると思われる。古代ギリシャのポリス(都市国家)の中でアテネは民主政治(デモクラシー)を実現したが、これが今日の政治体制のあるべき姿として志向されているが、その限界も見えている。共産主義がその解決法であると考えられた時代もあったが、それもことごとく体制矛盾を引き起こし崩壊して、残るのは世界で数カ国しかない。しからばいかなる国家のありようがよいのか。イオニアはギリシャのポリスに先立って民主化を実施していたが、そのキーワードはイソノミア(無支配)である。ハンナ・アーレントは「市民が支配者と被支配者に分化せず、無支配関係のもとに集団生活を送るような政治組織の一形態を意味していた。この無支配の観念はイソノミアという言葉によって表現された。」と述べている。このイソノミアがイオニア諸都市で現実に存在し、イオニアが没落後に他のポリスに理念として広がったのであるが、イソノミアがなぜイオニア諸都市に始まるのか。そこでは植民者たちがそれまでの氏族・部族的な伝統を一切切断し、それまでの拘束や特権を放棄して、新たな盟約共同体を創設したからである。それに比べるとアテネやスパルタのようなポリスは氏族の盟約連合体として形成されたため、ポリス内の不平等、あるいは階級対立として残ったために、そこでイソノミアを実現しようとすれば、デモクラシー、すなわち多数決原理による支配しかなかった。
 イオニアでは土地を持たない者は他人の土地で働くかわりに、別の都市に移住したため、大土地所有が成立せず、貧富の格差が生じず経済的にも平等であったためイソノミアが実現した。またイオニアの思想家たちはポリスの思想家で普遍的な倫理を考え、同時に自らが選んだポリスの中にそれを実現しようと考えた。イオニアの思想家は、倫理あるいは人間についての認識を「自然学」の観点から語ったのである。それは人間と世界を一貫して自然として見ることである。彼らはそのような普遍的視点をはじめて語ったのだ。それはイオニアの政治(イソノミア)と切り離すことができないと著者は言う。
 プラトン・アリストテレスに先立って、自由なポリスで思索されたイオニア学派(自然哲学派)の存在をクローズアップして「哲学の起源」とした。ここではカントが『啓蒙とは何か』の中で述べた「公」と「私」の問題も含まれている。カントは、国家の立場で考え行動することは私的であり、普遍的(世界市民的)であることが公的なのだと述べた。それは真に公的であるためには国家を越えた私人でなければならないことを意味する。即ち各人が国家の中にありつつ世界市民として判断し行動せよということだ。イオニアの思想家たちはその思索を実現していた。それが政治に反映されることで交換様式Dの普遍宗教に変わるものになることができるのだろう。多数決は民主主義の原理だが、それは本質的に「貧困」という問題に動機づけられている。従って格差問題で揺れる現代社会はギリシャのポリス同様、多数の貧困層に支配されることになる。イオニア的世界観・政治体制は夢幻のかなたにある。
 

毛沢東と中国 上 銭理群 青土社

2013-03-02 13:25:20 | Weblog
 著者は1939年生まれ、元北京大学教授で魯迅研究者。前書きに、日本の中国研究者に共和国の60年の歴史を個人として説明を尽くすことが大きな責務だと述べている。そして学恩をを受けた日本人として、伊藤虎丸氏と丸山昇氏の名をあげている。伊藤先生には大学時代、魯迅の講義を受けたことがあり懐かしい。非常にリベラルな方で、日本と中国の文化交流に貢献された。先生が生きておられたら今の日中関係について何か有益なコメントを出してくださるような気がする。丸山先生も同じ。注を含めて699ページの大著であり、上巻は共和国成立から文化大革命前夜までを記している。
 毛沢東は1949年、著者が十歳のとき中華人民共和国のトップになり、1976年、著者が三十七歳のとき、逝去している。少年から青年へ、さらに中年へと至る人生の黄金期を毛沢東の統治下で生きたわけである。そして文革時は忠実な毛沢東主義者になったことを告白している。中国共産党の草創期から27年間君臨した毛沢東の政治手法を研究することで、今の共産党の問題点が浮き彫りになってくる。これは外国の人間にとっても、中国人にとっても重要な問題である。毛沢東時代を生きた人間でなければ分からない歴史の実相がリアルに捉えられ、非常に読み応えがある。
 共産党の政治形態が今のような形になるまでには紆余曲折があったが、毛沢東は徐々に権力を掌握する中で作り上げた人民公社に注目しなければならない。彼はこの組織形態によって、国家権力のコントロール(皇帝権力)を県以下の郷、鎮、村、さらに個別の家庭にまで徹底させた。これは中国歴史上空前の出来事であった。さらに同時に実行した戸籍制度によって都市と農村の人口移動を禁止した。本当に農民を土地に縛りつけ、生産から流通、分配、生活まですべてをコントロールした。こうして毛沢東の「一党専攻下の空想的社会主義の実験」は、ついに専攻主義の本質を暴露した。中国の伝統的皇帝権力統治は共産党集権統治の近代化形式のもとで、はじめて農村の個別の家庭にまで侵入し、伝統的な郷紳と家族の統治する基層社会構造な完全にとって代わった。毛沢東の構想では家庭も最終的には消滅するものだった(P332)。一党独裁の現共産党の祖形がここで確率したわけである。農民がその犠牲になったことはこれ以降延々と続いており、この国の決定的弱点となっている。
 工業化、国防建設、都市の安定を保証するためにはつまり富国強兵のためには農民を犠牲にしなければならない。たとえ農民が餓死しても構わない。それが中国の農民が大量に死亡した問題の本質であった(P368)。と大躍進運動の中で起こった大飢饉の原因を分析している。その一方で、「卑賤な者が最も聡明で、高貴な者が最も愚鈍であると」農民を持ち上げ、知識人を批判するスローガンを1958年共産党第八大会第二次会議の席上で宣言している。「知識人への軽視、蔑視、敵視」から階級闘争を作りだした。いわゆる「白旗抜き」運動である。高い地位にいた老知識人、老教授、文化と学問を持つ権威、大人物を、「ブルジョワ階級の白旗」と呼び、地位が低く、文化的素養がない青年学生、小人物に、批判闘争を呼びかけた。これが文革の底流となって、後に大ブレイクする。国家を破滅寸前に追い込んで政敵を打倒したその手法は常人のなせる技ではない。その後、ポルポトを始めとして毛沢東主義者が革命運動として知識人を弾圧した淵源はここにある。このパターンは今日本の政治家でも援用している者がいる。既得権益層を敵と見なして攻撃し、待ったなしの改革を標榜し、烏合の衆の非知識人階層にアピールして選挙で勝利し、権力を乱用する手法である。この意味でも毛沢東は偉大であった。