読書日記

いろいろな本のレビュー

水たまりで息をする 高瀬隼子 集英社

2022-07-07 13:18:33 | Weblog
 本書は『犬のかたちをしているもの』(集英社)に続くもので、昨年の第165回芥川賞の候補作である。高瀬氏は今年の第167回芥川賞の候補者にもなっており、今売り出しの作家である。ちなみに今回の候補作の題は『おいしいごはんが食べられますように』(群像1月号)である。面白い題で興味をそそられる。『水たまりで息をする』は三十代の子供のいない夫婦の話で、事件は夫が風呂に入れなくなるというものだ。日本人は風呂好きなので、このテーマには意表を突かれた。小説は終始妻の視点で描かれるが、妻は夫を無理やり風呂に入れようとはしない。あくまでも夫の意思を尊重する姿勢だ。普通だったら臭いから近寄らないでというけんかになって、夫婦仲の悪化から離婚という話になるところ、そのようには展開しない。妻は辛抱強く見守るのだ。この辺がいささかシュールである。

 風呂に入れなくなる(シャワーも含む)ことで、問題になるのは体臭だ。会社員の夫は得意先との商談もあり、身ぎれいにすることを求められる。しかしそれが不可能となれば当然出社に及ばずということになる。現代社会はとにかく悪臭を嫌う。その証拠に体臭・口臭を防ぐ医薬品や部屋の匂いをごまかす芳香剤まで様々な製品が店にあふれている。その状況下で体臭がどんどんひどくなっていくが、風呂に入れないので解決策はない。当然夫は会社をクビになる。妻の母親まで心配になって、様子を見に来るが事態は好転しない。夫婦二人の悪臭問題が会社に移り、親戚にも波及する。この悪臭問題はいわば「差別問題」のアナロジーで、いろいろと身につまされることが多い。風呂に入れないという夫の問題がどう展開するのかと思っていたが、いろいろなテーマが隠されていることが読んでいるうちにわかってくる。「夫婦関係」の問題もいろいろ分析できそうだ。

 会社をクビになった夫とともに妻は自分の実家(四国の片田舎)に引っ越す。都市から田舎へ移っても夫の状況に変化はない。それでも妻はいつも通り夫に尽くす。夫は風呂には入らないが、川で水浴びをするようになる。川はカルキとは無縁だ。しかし大雨で氾濫したその川で夫は流されて死んでしまう。その時も妻は決して取り乱さない。あっけないといえばあっけないが、この結末を私は予想できなかった。風呂のカルキ臭い水に入れなかった夫が、カルキとは無縁の川の氾濫で流されてゆく。これで夫の「悪臭問題」が一挙に解決するが、肝心の妻にとっての献身対象がなくなるという空虚感をもたらす。夫婦関係も終わってしまった。でも妻は夫に関わった流れからすると気丈に生きていくだろうということを想像させる。なかなか面白い小説だった。水の諸相が人間に照射する問題を丁寧に掘り下げている。この様子では、近作『おいしいごはんが食べられますように』(群像1月号)は未読だが、芥川賞を取るんじゃないか。そんな気がする。まあ期待して待ちましょう。