ボスニア内戦 佐原徹哉 有志社
旧ユーゴスラビア内戦の実相を克明な記述でたどり、民族主義者たちが跳梁跋扈し、多数の人間が虐殺されたメカニズムが明らかにされている。希に見る力作である。旧ユーゴスラビアは第二次世界大戦後、チトー大統領のもと共産主義国として出発した。クロアチア人、ボスニア人(ムスリム人)、セルビア人からなる連邦を束ねていたわけだが、民族の共存は一種のイデオロギーとなって体制を支えていたのである。ところが、1980年代の経済危機でチトー体制の構造的欠陥が露呈し、インフレが進行し国民の生活が一挙に苦しくなる。これが民族の共存を破壊し、共産主義体制を崩壊させる契機になった。
著者は言う、1980年代後半のユーゴスラビアは、経済のグローバル化の圧力で国内経済システムの変革を強いられたことをきっかけに、政治構造が流動化し始めていた。クチャンやミロシェビッチのような新興エリートは民族主義者と同盟して、この政治の空隙をうまく利用したが、その一方で、「友愛と統一」を墨守するチトー主義者たちは益々無力な存在に変わっていった。連邦の解体と内戦を引き起こす原因は、単に民族主義が台頭したことではなく、共和国間の利害を調整するメカニズムが機能不全を起こし、政治の混沌が生まれたことなのであると。冷静な分析である。生活の困窮が民族間の軋轢を生み、民族主義者の台頭を許してしまう現実は、イラクやアフガニスタンを見ればわかる。
かくしてユーゴスラビアはセルビア、クロアチア、モンテネグロ、スロベニアの各国が独立したが、ボスニアは上記の三民族が混在していたがゆえに、そのイニシアチブをめぐって血で血を洗う戦闘が行われ、ジェノサイド(大量虐殺)が頻発した。一時的に生じた無法状態の中で、日ごろの妬み嫉み、抑圧感など民族間の軋轢が露呈した。人々がその土地土地でのローカルな価値観に従って自己保存のために働いたことからジェノサイドが発生したのである。ボスニアの場合、このローカルな価値観はジェノサイドへの恐怖であり、いずれの集団も多かれ少なかれこの恐怖心に突き動かされて残虐行為を展開したのであった。内戦が宗教紛争や民族紛争の外見を呈するのは、ジェノサイドを逃れるには、ジェノサイドの対象となる集団が結束しなければならないという思考様式が働いた結果であった。こうしてむき出しになったローカルな価値観は、社会主義時代にイデオロギー化した他民族の共存や、それに代わるものとして提唱された民主主義や人権といった外在的なグローバルスタンダードを遥かに凌駕するリアリティーを持ち、時に正義そのものとまで意識されることになった。
ボスニア内戦は1995年国際連合の調停で終結し、ボスニア・ヘルツエゴビナ連邦とスルプスカ共和国(セルビア人)の連合国となり、以後は民生面を上級代表事務所(OHK)、軍事面をNATO中心の多国籍部隊(SFOK)が担当し停戦監視下に置かれ治安も回復した。旅行社のパンフにはこの地域へのツアーの案内もある。あの凄惨な殺戮の場は表面上は平和な姿に復元されたが、ジェノサイドの集団的記憶がいつ蘇るとも限らない。十数年まえの記憶はそう簡単に消せるものではなく、今後の政治状況の如何によってはという側面も否定できない。ちょうど本日7月22日、もとセルビア民主党の党首でジェノサイドの罪で国連旧ユーゴスラビア国際法廷(オランダ・ハーグ)から起訴されていた、ラドバン・カラジッチ被告(63)がベオグラードで身柄を拘束されたというニュースが入ってきた。
国際法廷は彼をどう裁くか注目したい。