読書日記

いろいろな本のレビュー

40歳からは自由に生きる 池田清彦 講談社現代新書

2022-10-22 14:17:34 | Weblog
 副題は「生物学的に人生を考察する」。池田氏の本は何冊か読んだが、結構面白い。ご自身が生物学者だということもあり、発言に説得力がある。本の腰巻にこうある、「人の生物としての寿命は38歳。だから40歳を過ぎたら上手に楽しく生きよう。世間の常識より自分優先!【おまけ】の人生だから社会の束縛や拘束から解放されて、楽しく面白く生きる」と。これだけでも十分という感じだが、中身は生物学的蘊蓄に基づく人生論という感じ。

 昔は「人生どう生きるか」という本がほとんどで、老後をどうするこうするというのはほとんど見かけなかった。大体55歳で定年という時代だったので、60過ぎで死ぬ人が多かった。私は昭和43年に高校に入学したが、その時習った国語の先生は58歳で入れ歯をしておられた。見るからに年寄りという感じで、こんな爺さんいやだなあと思った記憶がある。今は70歳まで働けという時代になって、この変化は感慨深いものがある。そのため最近の本屋で並ぶ本は70歳、,80歳代をどう生きるかというテーマで、具体的な処方箋をあれこれ示して人気を博している。

 本書はそれらの本ほど俗ぽっさはないが、高齢者の生き方指南という点では共通している。高齢書の生き方というのは、最後はどう死ぬかという問題を避けて通れない。いくら楽しい70,80歳代を過ごしても最後は死の問題と向き合わなければならない。古来「死とは何か」というのは重要なテーマで、哲学の課題でもあった。でもそれが解決されたという話は聞かない。テレビやUチューブで野生動物の生態を記録したものが多く流されているが、多くは弱肉強食がテーマで、食物連鎖の頂点に立つライオンやトラ、豹などが獲物を狩るシーンが多い。餌にされる草食動物は食われるために生きているという言い方もできるわけで、人間の感性からするとやってられないということになる。生きがいもくそもないのだ。それでも彼らは子孫を残すべく黙々と草を食んでいる。そして年を取ると群れから離れてしまい、あっという間に肉食獣に狩られてしまう。厳しい。老後の生き方もくそもない。

 しかし、肉食獣も年を取ると餌が捕れなくなって、飢え死にをすることになる。ライオンなどは群れで生活しているので、ある程度老後は保証されているかもしれないが、オスの場合は他の個体にボスの座を奪われて群れを離れると厳しい未来が待ち受けている。彼らは死をどう受け入れているのだろうか。この点に関して池田氏は次のように述べている「人間以外の生物は前頭葉が発達していないため、確固たる自我を持たず未来というものを考えることができません。過去についても、記憶はあるけれど、時間の感覚が希薄なため、いつから自分がこの家に飼われているかとかわかっていないはずです。(中略)何よりうらやましいのは、未来がない動物たちには、自分の死という概念が存在しないため、死への不安や恐怖と無縁でいられることです。イヌやネコはは死の間際になっても、死の影に怯えるなんてことは全くなく、{今、ここで、自分は苦しい}という感覚があるだけですから、少しでも苦痛を和らげようと、自分にとって一番ラクなところを選んで、じっとうずくまってやり過ごそうとするわけです」と。そして生物はエサや縄張りや異性をめぐって残酷な殺し合いをすることがあるが、少なくとも国家や愛国心やイデオロギーといった概念のために命を張るようなことは間違ってもしない。楽しく生きるには、こういった概念に取り込まれないことが大切と述べている。これで少し気が楽になった。これをどこかの国の69歳の何とか主席に教えてやったらいいのではないか。本書はいろいろな事例を挙げて老後の生き方を指南してくれているので、興味関心のある部分にヒットするだろう。

最後の海軍兵学校 菅原 完 光人社NF文庫

2022-10-11 09:33:00 | Weblog
 NFとはノンフイクションのこと。光人社NF文庫は第二次世界大戦(太平洋戦争)関係のものを中心に刊行しているが、元兵士の体験を書いたものも多くある。しかし元兵士も高齢化しており、その体験を書くことが困難になりつつある。今後は残された資料を第三者がまとめるという方向にならざるを得ないだろう。本書の著者の菅原氏も1929年生まれで今年93歳、最後の著作になりそうだ。

 この光人社NF文庫の版元は潮書房光人新社で、同社は雑誌『丸』も出している。雑誌『丸』は1948年の創刊で、今も生き残っている。私はこの雑誌を小学生時代(1960年代前半)に購読していた記憶がある。その頃はプラモデルが大流行で、戦艦大和、ゼロ戦等々を組み立てて楽しんでいた。『丸』はそれらの写真が豊富に載っていたので、喜んで買っていたのだ。小学生だから戦争の実相もわからずに。今もこの雑誌は刊行を続けているが、廃刊になってないということは、それなりに読者がいるということになる。多分高齢者がかつてのプラモデル少年時代を懐かしんでいるのだろう。その辺、興味が湧く。

 さて本書は太平洋戦争末期の昭和20年4月に兵学校入校の77期3115名の記録である。その年の8月15日に終戦なるので僅か四か月の兵学校生活である。記録によると太平洋戦争中盤、海軍兵学校は江田島に加え岩国、大原に分校を開校し、終戦時は75~77期まで一万名を超える士官の卵が学んでいた。著者は岩国分校に配属された341名の1人で、そこでの日々の生活ぶりを記録したものである。終戦が確実視される中での軍人になる教育を受けるというのも、何か不思議な感じがする。


 著者は昭和19年7月に受験したが、受験者数四万7802名、合格者3115名で合格率6,5%で15人に1人の難関である。著者によると、学科試験の内容は総合点で合否を決めるのではなく、国語漢文、歴史、数学、理科物象、英語で、科目ごとに決められた点数を取る必要があった。試験は毎日午前中に行われ、午後になるとその日の結果が発表され、不合格者はそれで終わり。合格者は翌日に次の学科を受ける。難関は数学で、これで失敗した者が多かった。最終日が英語で、これに受かれば面接と続く。これをクリアーして合格発表を待つ。英語が試験に入っているというのが兵学校らしい。これは前校長の井上成美の教育方針であった。英語ができなくてどうするかという感じだろう。

 この英語を学ばせて国際的な視野を植え付けるという海軍の方針は、兵学校生徒を日本の資産と考えて敗戦後の祖国再生を期していたことがうかがわれる。終戦末期に三学年で一万名もの生徒を受け入れたことがそれを証明している。優秀な人材を兵学校で確保して戦場から隔離して命を守るということだろう。これは大っぴらにできないのでこのような方法を取ったのであろう。とにかく海兵、陸士といえば日本中の俊才が集まる学校だったのだから。かつて作家の小松左京が、「太平洋戦争で海兵、陸士出身の秀才が大方死んでしまい、私のような鈍才が生き残ったのが悲しい」と言っていたが、ある種の真実を語っている。


 著者も最後に次のように言っている、「当時の情勢から考え合わせると、海軍は筆者たちを敗戦後の日本の再建要員として温存しようとしたのではなかろうか。普通学が多く、時間数は少なかったが英語もあった。当時、英語を教えていた学校は他になかったはずである。もしも再建要員だったとすれば、筆者たちは戦後、各界で活躍して日本の再建に微力ながら貢献し、海軍当局の深謀遠慮に応えましたと誇りをもって言えると思う。戦艦大和やゼロ戦を造った技術と同様、兵学校生徒は海軍の大いなる遺産だったと言えるのではないだろうか」と。心にしみる言葉である。将来を見据えた人材教育、今の日本に欠けているのはこれである。ただ為政者に教養と見識がないのが悲しい。