読書日記

いろいろな本のレビュー

父・巨泉 大橋美加 双葉社

2017-08-27 13:50:28 | Weblog
 著者は2016年7月12日、82歳で他界した司会者大橋巨泉の娘で、1959年生まれのジャズシンガーである。母は同じくジャズシンガーのマーサ三宅。本書によれば巨泉とマーサは1956年に結婚。当時巨泉はジャズ評論家で、マーサ三宅はジャズシンガー、この縁で結ばれた。巨泉はマーサの声にしびれたと書いてある。巨泉22歳、マーサ23歳。いかにも若い。ところが1964年、著者が四歳の時、父巨泉は外に女ができて家を出る。そして離婚。マーサはこれを生涯許さなかったらしい。そして1969年、巨泉は35歳で14歳年下のアイドル浅野順子(寿々子)と結婚。当時巨船泉は11PMという番組の司会者で、浅野はカバーガールをしていて口説いたのだ。その前にもモデル出身の美人タレントと同棲していたと暴露している。ことばの力で女にもてたとは娘の分析である。ジャズ評論家から放送作家、テレビ司会者と売れっ子になっていく。「お笑い頭の体操」「クイズダービー」「巨泉×前武ゲバゲバ90分!」などで大橋巨泉の名は日本国中とどろいたが、著者は巨泉の娘ということで苛められた。家を出て行ったオヤジのお陰でイジメに遭っては腹が立つだろう。しかし、本書では娘は母と違って父を許している。和解している。そして一方夫の浮気を許さなかった母の仕事であったジャズシンガーを受け継いでいることで、うまくバランスを取っているといえる。見えざる手によるお導きか。
 その巨泉は浅野順子との結婚後、子を儲けないと言ってパイプカットした事を公言して話題になった。そんなこと人に言うことかと当時思ったが、飛ぶ鳥を落とす勢いの巨泉氏の言動をテレビは何でも取り上げた。娘によると、浅野順子と結婚してからも深刻な不倫をしていたとある。パイプカットは浮気するためのものじゃないのかいと疑いたくなる。巨泉は生前夫婦仲が睦まじかったそうで、その理由を「夫婦生活をきちんとすること」「夫婦は体で繋がってこそ」と言っていたらしい。そして娘もそれを見習っている由。ご同慶の至りである。大橋家のDNAはここにあると言えるだろう。巨万の富をもとに56歳でセミリタイアして世界をまたにかけて遊びまわる、世間は羨望のまなざしで見ていたが、実際はどうだったんだろう。
 しかし希代の司会者・テレビ人の巨泉氏も71歳で胃がんを摘出してから、闘病生活に入る。その前の2001年に参議院選に民主党の比例代表で出馬して当選するも、半年で辞めてしまう。その理由をやりたいことができないとわかったからと述べていたが、当選半年で何ができると言うのか。長年テレビ界で自分の意見を通してきた人間にとって我慢することは無理だったのだろう。
 そして2016年他界。希代のテレビタレントは毀誉褒貶を残して逝った。合掌。

ハイドリヒを撃て! シェーン・エリス 脚本/監督/撮影 

2017-08-22 20:27:53 | Weblog
 サブタイトルは「ナチの野獣」暗殺作戦。前掲『ヒトラーの絞首人ハイドリヒ』(ロベルト・ゲルバルト 白水社)でこの映画の予告をしたが、8/21(月)、テアトル梅田で見た。平日なのにほぼ満席、と言っても座席数が100席ぐらいなので、絶対数は少ない。でもこのような映画に興味を持っている人が多いのに意外な感じがしたが、悪いことではない。
 1941年冬、ナチス統治下のチェコ。イギリス政府とチェコ亡命政府の指示を受け、2人の軍人、ヨゼフ・ガプチャークとヤン・クビシュがパラシュートで人気のない森に降下。その後プラハに潜入した。彼らの目的はナチス親衛隊大将ラインハルト・ハイドリヒ暗殺、コードネーム「エンスラポイド(類人猿)作戦」だった。国内に潜むレジスタンスの協力を得て、ハイドリヒ暗殺の準備を始めるが、抵抗組織インドラの幹部ヴアネックは「奴を殺せばヒトラーはこの街を潰す。家族や知人は皆殺しにされるぞ」と反対するが、ヨゼフは「愛国者なら国のために命を落とす覚悟が必要だ」と反論する。結局1942年5月27日、計画を実行するが、狙撃に失敗。手投げ弾で負傷させた。後、ハイドリヒは病院で死亡する。暗殺の場面は忠実に再現され、ハイドリヒ役の俳優はそっくりだった。撮影は全編プラハで行なわれ非常に臨場感がある。ハイドリヒの日常は一切描かれておらず、レジスタンス側の人間模様だけが描かれている。これがこの作品の成功した理由だと思う。ヨゼフとヤンはカモフラージュのためにレジスタンスの女性とカップルになるが、2人の女性は存在感があって熱演している。
 ハイドリヒが死んだ後のナチスの報復は想像以上で、ヴァネックの予想は的中する。その過酷さに、ヨゼフが祖国愛の一点でハイドリヒ暗殺を実行した事を後悔していく様子が後半描かれていく。このナチスのリアクションは最初から予想できたわけで、ハイドリヒが死んでも後任が来るだけの話なのだが、そこにレジスタンス運動の難しさがある。ハイドリヒ暗殺は苦渋の選択だった。暗殺後、ナチスの、密告した者には懸賞金とレジスタンスであることの罪を問わないという甘い蜜に、引っかかってしまう同志。裏切りはレジスタンス運動につきものだが、むごいものだ。最後、教会に立てこもったヨゼフとヤンとレジスタンス同志の最期の戦いは壮絶の一語。全員自決という結末は、戦争の虚しさを改めて感じさせてくれる。多くの人に見て欲しい映画だ。

思想史のなかの日本語 中村春作 勉誠出版

2017-08-19 09:17:04 | Weblog
 著者は今春、広島大学教育学部教授を退官された。専門は日本思想史で、荻生徂徠の研究家である。その退官記念に出されたのが本書である。実は中村氏は某大学の大学院で共に勉強した学友で、後に徂徠研究のために中退して、他大学に移られた。その後徂徠研究に邁進され、中国の古典をいかに読むかという問題意識のなかで「訓読」をテーマにして書かれた論考をまとめたものだ。中国の古典を訓点(返り点、送り仮名、句読点)によって読む「訓読」は平安時代以来の歴史を持つ有力な翻訳技術である。今私たちが使う漢字とひらがな交じりの文章は、漢文書き下し文の影響を受けたものだが、表記システムとしては極めて優れたものだ。
 この「訓読」の仕方にはいろいろ流儀があり、江戸時代の国学者のなかでも個性がある。その中でも問題になるのが助字の扱いだ。助字とは文中で、語句と語句の関係を示したり、文末で断定・完了・疑問などの意味を示す漢字のこと。助字であっても「也」(なり・や)「哉」(や・かな)などは読むことが多いが、「而」「於」「于」などはその字の文法的意味が送り仮名によって表されているために訓読しない。このような字を置き字という。この助字を始めとして同訓意義・異訓同義の漢字の意味の確定が学者によって大いに変わってくるのが面白いところである。その証拠に江戸時代には助字の研究書が沢山出版されている。
 中村氏の専門の荻生徂徠についていうと、徂徠は「古文辞学」というものを提唱したのだが、それについて中村氏曰く、「儒学は元来、はるか古代に記述された経書を、何千年にもわたり解釈し続け、そこから人生の意味や社会の在り方、政治の基準までをも解き明かそうとする学問である。だから基本的には、テキストは時空を超越した永遠性を有するものである。朱子学では、テキストを貫く真理=「理」があらゆる時空を超えて実在するとする。それに対し、江戸時代古学派の儒者たちは大きく言って、「理」を心中に仮定したものと批判することを通じて、テキストの「テキスト性」を重視する立場を明確化していったといえる。そこでは「真理」は特定の時代性に彩られて「テキスト」の中に封じ込められることになる。荻生徂徠は朱子学批判を、テキストや言語に対する認識の転換において為した」と。明快な説明である。例えば、古代のテキストに頻出する「道」が不分明であるのは、言語は常に限定されたものでしかなく、その言語本来の時間的、空間的に限定される性格に由来する。すなわち、「道」は古代の「言語」によってしか私たちに開示されておらず、私たちも今日の「言語」をもってしかものごとを考え得ないし、語り得ない。この難問を解決しようとしてかれが取った方法は、漢文を中国語で読む「従頭直下」式であった。しかし、そうすれば直ちに「解る」とは言っていないことが興味深い。中村氏曰く、結局彼のとった方法は、古代テキストに載る記述を、後世の論争的言辞による「解釈」を通じて理解するのではなく、その記述を記述として有意味たらしめていた当時の社会内諸事象を、その内に読みこんでいくことを通じて、彼の用語を使えば、「物」=「古言」として把握することを通じて理解しようとするものであり、それは世に見慣れた経書注釈の姿からは飛躍した、独自の「方法」なのであった。しかしこの方法は継承されず、その訓読批判も反徂徠運動から「寛政異学の禁」を経由する過程で、異なる位相へと転じた。すなわち、古代聖人の「言語」を時間・空間うぃ遙かに隔てた江戸の言語空間の中でいかに「読む」かということと、その可能性への徂徠の問いかけが、そのもともとの志とは別の地平で受容され「いかに正しく読めるか」といった別の位相へと展開していったのである。それらは、より「正しい」意味を求めての考証学的傾向、もしくは字訓を精密に求めてその使い分けを分類する方向に展開していったのであると。
 このあと中村氏は徂徠の高弟太宰春台や宇野明霞・皆川淇園を例にあげて、読みの精密化の実相を説明している。徂徠は朱熹の『論語集註』(ろんごしっちゅう)の語義解釈を批判し、古文辞学の立場から独自の孔子像を構築し『論語徴』を著し江戸儒学に新風を巻き起こしたが、紀元前六世紀の春秋時代に向けた歴史の眼を、十八世紀の江戸時代の現実に振り戻し、『太平策』『政談』の時局を論じた書を書いている。この大学者の人となりを知るには、『荻生徂徠』(野口武彦 中公新書 1993)が最適だが、絶版になっている。野口氏はその中で、先述の道について、「道」はその具体性・歴史性・状況性を提示できない。名辞の論理をいかにつきつめていっても、道の実在性にはぶつからない。だがそれをまさにそれとして定立された名辞として提示しなければならない。この論理的アポリア(難問)を突破して徂徠が到達したのは、メタ言語としての「道」である。そしてまた、「道」概念の定立においてなされた日本思想史最初のメタ言語の発見であると述べている。これは要するに「道」とは「何々のようなものである」という言い方で表さざるを得ないことだと思うが、その辺を中村氏に教えてもらいたいところだ。

街道をゆく 南蛮のみちⅡ 司馬遼太郎 朝日文芸文庫

2017-08-11 09:37:22 | Weblog
本書の初出原稿は1983年の週刊朝日で、今から34年前のことである。南蛮とはスペイン・ポルトガルの事で、「南蛮のみちⅠ」はバスク地方紀行になっている。この地は昔から独立志向の強い地域で、それを話題にしたものと思われる。本書はマドリード周辺とポルトガル紀行だ。なぜ今ごろこの古い本を取り上げたかと言うと、実は7月28日から8月5日までの10日間スペイン・ポルトガルを旅行して、人々の余裕のある生活ぶりとカテドラルの壮大さに大いに感動した(私にとってはじめてのヨーロッパ)のだが、司馬遼太郎はどのように書いているのだろうと思って、読み返してみた次第である。
 私の旅程は、関西国際空港からKLMオランダ航空でアムステルダムのスキポール空港で乗り換えて、バルセロナへ。スキポール空港では厳重な身体検査があった。昨今のテロ多発に対応するものだ。でも一旦ユーロ圏内に入ると後は楽だ。今回はLOOK・JTBのツアーで、関西からは6人(3組の夫婦)と東京から18人の混成だった。添乗員は東京組について、羽田からルフトハンザ航空に搭乗のため、関空組は自分で乗り換えてバルセロナ空港まで行くように指示された。今回私ら夫婦と友人夫妻の4人で行ったので何かと気が紛れて良かったが、この乗り換えも自分一人では不安がある。というのも搭乗ゲートが予告なしに変更されるので、常に電光掲示板を見て確認することが大切だからだ。実際スキポール空港で変更があり、もう少しで乗りそこなうところだった。帰りのパリでも変更があった。日本の懇切丁寧な説明はヨーロッパではお目にかかれない。自己責任の世界である。逆に言うと、日本が異常なのだろう。
 ツアー客は東京の人が多かった(4人は九州から)ので、東京弁が主流で関西の客の騒がしさはない。これはとても過ごしやすいことだった。それから少し感じた事だが、東京のご主人は概してサービス精神が豊富で、食事の時も話題を提供しようと努力されていた。そして奥さんの写真を盛んに撮っていた。そこまでやるかと言うぐらい撮っていた。私は妻にそれを指摘され、見習いなさいと言われる始末。これは個人の問題というより文化の問題だと思うのだが、どうだろうか。
 バルセロナではガウディのサグラダ・フアミリア(聖家族教会)を見学して、タラゴナからバレンシアへ。夕食はホテルでミックスパエリアをたらふく食べた。ビールもワインもうまい。翌日、バレンシアからクエンカで宙吊りの家、カテドラルを見学。ひなびた町の風情が素晴らしい。こんな熱い午後に真面目に観光するのは日本人ぐらいだそうだ。その後マドリードへ。翌日プラド美術館で、ベラスケスの名画、ラスメニーナスとエルグレコ、ゴヤの作品などを見る。そしてソフイア王妃芸術センターでピカソのゲルニカを鑑賞。素晴らしい。説明役の藤田さんは30年前にスペインに旅行に来てそのまま居ついてしまったという男性で、近江八幡出身とのこと。説明は非常に分かりやすい。昼食後、トレドへ。カテドラルとサント・トメ教会へ。ここはギリシャ生まれの画家エル・グレコが後半生を送った町だ。おじさんが日本語の『TOREDO その歴史と芸術』という本を買ってくれと言うので、買った。司馬遼太郎もこう書いている、「ベンチに座っていると、三十五、六の品のいい主婦がそばのアパートから出てきて、一冊の本を売り付けた。街灯の淡いひかりで眺めると『魅力の街トレド』とある。写真を主とした小冊子で、発行所も定価もない、本の正体としてはのっぺらぼうなものであった。しかしトレドのことが書かれているなら、反故でも読みたい心境だったから、立ちあがって、ズボンの尻のポケットに手を突っ込みペセタを取り出した。ガス灯めいた街灯の下で、彼女は影のように静かで無表情でいる。私は、金を渡し、彼女は受け取った。まことに舞台的な光景だが、観客はこの黙劇(パントマイム)をどう理解するだろう。その後ろ姿を、一種の情感とともに見送りながら、私は意味もなく祈る気持ちになった。といって、祈る言葉は見出せない。私には、スペインへの感謝の気持ちがある。彼女の先祖は、私どもの文化に強烈な刺激を与えてくれたのである。しかしながら、いまタホ川を見、彼女を見、さらにはのっぺらぼうの本を見てしまった。神よ、あなたが創ったスペインは偉大すぎるようです、というほかなかった」と。スペイン文化の伝統の厚みに感動する司馬の姿が余すところなく描かれていて、感動的だ。
 翌日はコンスエグラからコルドバを経てグラナダへ。グラナダとはザクロのことだと教わる。次の日、アルハンブラ宮殿を見学してセビリアへ。暑さが尋常ではない。夜フラメンコショーをみる。踊り手の男女はみな彫が深くて美しい(顔も体も)。この造形美はイタリアの美にも通じるものがあり、真似できない。
 翌日、リスボンへ。司馬曰く、「私は、昔から、スペインが主力をなすイベリア半島の一角にポルトガルという国がなぜ古くから存在するのか不思議であった。いまも、わからない」と。山脈、大河、海洋で隔てられてもいないのに、本当に不思議だと私も思う。二日の滞在であったが、結構、魅力的であった。もう一度行きたいと思う。今度はゆっくりと。