読書日記

いろいろな本のレビュー

レッドマーケット スコット・カーニー 講談社

2012-05-26 09:33:30 | Weblog
 レッドマーケットとは「人体を扱う市場」のことで、インドにおける骨泥棒(骨格標本を作るため墓から盗む等)・臓器売買、それに伴う遺体の蹂躙。さらに養子縁組ビジネスとそれを支える子どもの誘拐。政府公認の代理母産業。死刑囚の臓器が出回る中国市場。卵子売買の中心キプロスの状況等々のルポである。人体に対する考え方が日本とは大きく異なっていることを実感させられる。「身体髪膚これを父母に受く、敢えて毀傷せざるは孝のはじめなり」という儒教の考えが浸透しているのが日本である。これは本家の中国よりも徹底している。現に災害事故等で行方不明になったとき、相当長期間に渡って遺体捜索が行なわれる。捜査員曰く、早く遺体を発見して家族のもとに届け、成仏できるように尽力したい。よく耳にするコメントである。
 この伝統ゆえ、日本における臓器移植に対する縛りは相当きつい。よって重篤な患者はドナーの出現が困難な日本を出て国外で手術を受けるということになる。本書を読むとインドの文化と言うものを改めて認識させられる。即ち、死ねば終わり。遺体はただの物体に過ぎないということだ。ガンジス川の河岸における火葬を思い浮かべればよい。これが人体部品産業が成り立つ基盤になっていると思う。さらに中国同様、巨大な人口を抱えるがゆえの人権感覚の希薄さが人体軽視を助長している。インドに限らず、臓器の需要があるから供給が行なわれるわけで、今後の問題点を著者は次のように言う、人体を扱う合法的なマーケットに透明性がないかぎり、レッドマーケットは繁栄し続けるだろう。人の身体や組織を倫理的にやりとりするには、供給テェーンの完全な透明性が欠かせない条件なのだ。アメリカの最高の病院においてすら、他の人間が生き延びられるよう臓器を提供してくれた脳死ドナーの身元を知ることは、不可能に近い。養子縁組の斡旋業者の大半は、先々、不愉快な質問から産みの親を守るために彼らの身元を明かさないし、看護師や医師は公的な記録から、日常的に卵子ドナーの名前を消し去っている。彼らの意図はたいていは立派なものだ。だが、そのおかげで倫理にもとる人間が、提供を望まないドナーから臓器を採取したり、子どもを誘拐して養子縁組ルートに売りとばしたり、囚人から血液を盗んだり、危険な環境で卵子を売るように女性に強要したりすることが、可能になっている。そのどの場合でも、犯罪者たちは「プライバシー保護」のお題目のかげで、非合法の供給チエーンを守ることができるのだと。
 人体をモノ扱いすることと医学の進歩とは正比例の関係にある。どこか原発問題と似通ったところがある。

逆説の日本史18 井沢元彦 小学館

2012-05-22 08:30:22 | Weblog
 18巻は「黒船来航と開国交渉の謎」という副題が付けられている。1853(嘉永6)年、米国の東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが米国大統領フイルモアの国書を携え浦賀に来航した。同じ年、ロシアのプチャーチン率いる艦隊が長崎に来航。幕府は開国を迫られたが、鎖国の祖法を破ることに臆病の余り、攘夷をモットーに開国に対して逡巡、幕府首脳は事無かれ主義を通そうとしたが、それもかなわず、翌年3月3日、ペリーが再度来航、日米和親条約を締結した。これにより、日本は下田と函館の2港を開港した。ペリーの来航は一年前から幕府首脳に知らされており、突然の来航ではなかった。それをさもアポなしの来航と思わせるような歴史記述は間違いであり、幕府側の対応のまずさ、やる気の無さを批判し、そのドタバタぶりを民主党政権に擬しているところが面白い。鎖国は徳川家の祖法で、これを破って開国の決断を下せない状況は確かに昨今の政治状況に通じるものがある。温泉に一旦つかるとなかなか出にくいように、ぬるま湯に慣れた身には、寒風にあえて身をさらすのは厭だという気持ちもわからないではない。
 井沢氏はさらに、鎖国・攘夷を墨守する態度を憲法第九条を守り抜く態度に見立て、これでは国を自分では守れないという憲法改正の主張に持っていく。こういう今風の記述は読んでいて面白いが、歴史はその時代の感覚に立ち戻って考えることが原則なので、この点から言うとホントの意味の歴史書にはならないと思う。例えば、漢文の古典を読む場合、古人の注釈をしっかり読むことが基本で、本文を適当に今風に解釈することは、望文生義(ぼうぶんせいぎ)と言って御法度になっている。
 最近民主党政権は平成の開国と言い、TPP参加を表明しているが、党内外の反対勢力に押されて先行き不透明だ。150年前にこの国は開国しているはずだが、今さら開国とは。さらにグローバリズムの波に洗われようというのか。小泉政権で懲りているはずなのにと首をかしげたくなる。
 民主党や野党の自民党がもたもたしている内に、漁夫の利を狙う新しい勢力が台頭している。何せ「維新」を標榜しているから、ドラスティックな変化をもたらそうとしているのだろうが、国としてやるべき選択肢はそんなにないはずだ。第九条をはじめとする憲法改正ぐらいか。でも第三の勢力が市民権を得るには、かつての戊辰戦争や西南戦争等のすさまじい権力闘争を経なければ無理だろう。そういうものをやる覚悟があるのか。そんな人材がいるのか。甚だ疑問である。

千思万考  黒鉄ヒロシ 幻冬舎

2012-05-20 15:38:35 | Weblog
 本書は日本史に登場する歴史的人物のエピソードを著者が分析したものにその人物画をつけたもの。氏は著名な漫画家であるから絵のうまさは言うまでもないが、文章も相当のものだ。今回第一巻「歴史で遊ぶ39のメッセージ」と第二巻「天の巻」をまとめて読んだが、取り上げられた人物は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康をはじめとして64人。日本史の裏面が味わえる。例えば、千利休の項では次の通り、
 「秀吉との蜜月時代にあっても、二人の意識の底には不協和音が流れ続けていた。一方は権力を以てその音を直そうとし、一方は絶対的な美意識で組み従えようとした。軋む音は、出会いの瞬間から奏でられ、秀吉の耳には利休の死後も消えなかった。二人が乾杯のために持ち上げた盃の甘い蜜の底には、苦さが沈殿していた。何かの拍子に浮かび上がってくる微量の苦さは、かえって甘さを強くする。一方が切腹を命じ、一方が命じられたとき、攪拌されて蜜は味を変え本性を現した。茶の湯と美を媒介として、文化と政治で結ばれていた二人の手が離れる。可能性としての自らの姿を、秀吉は利休の中に見つけ、利休は秀吉の権力を利用して美の実現を夢想した。(中略)最初から盃は二つあった。重なった盃は、客席の位置からは一つのシルエットに見えたが、舞台上の特に秀吉からははっきりと見えた。秀吉は位置を下げよと小声で命じるが、利休はそっちこそ下げよと気合を込めた。芝居が終わり、緞帳が下がって、観客の胸に残った演技。利休の美意識と茶の、今日に続いての健在ぶりが証明する。美の王の立場を主張することによって、利休は茶道の殉教者足らんとした。他の宗教の王達がそうであったように、美の王にも自己犠牲を支える強烈な意思が求められた。権力や政治の王の如きが、美の王に勝てる筈もなかった」
 秀吉との確執を政治と文化の二項対立の構図に腑わけし、政治は文化を支配できないことをこれほど簡潔にまとめた手際は称賛に値する。小説家としてデビュウしても大丈夫だと思う。最近文化・芸術にに対して補助金カットでいやがらせをしている首長が話題になっているが、これを見ればそれが不可能であることがわかる。歴史の教訓を学ばない者は後で手痛い目に逢うだろう。全編このような鋭い文章と素敵な人物画が楽しめる。

マりー・アントワネット運命の24時間 中野京子 朝日新聞出版

2012-05-13 08:21:32 | Weblog
 1789年にフランス革命が起こり、たちまち王政は瓦解して、国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットはギロチンにかけられたと思われているが、そうではない。君主制と共和制の二重構造が出来ていたが、ヴェルサイユでの宮廷生活自体は変わらず、王は連日狩猟を楽しんでいたし、王妃はプチ・トリアノンでこれまで通り息抜きができた。しかし庶民の生活は依然として苦しいままだった。革命から三ヶ月後、この奇妙な沈静化に怒ったパリ下町の女たちが、パンをよこせとヴェルサイユまで大挙して押しかけたのがきっかけで、これに反王党派が呼応してアントワネットの命まで狙うという大騒動へと発展。国民衛兵隊指揮官ラフアイエット侯爵が事態を収拾したが、人々はもはや王侯がヴェルサイユ宮殿に留まることを許さず、パリ中心部のかつての王宮チュイルリーへ彼らを移して監視した。その後、1791年、スエーデン侯フエルゼンに助けられ、重警備のチュイルリー宮殿から変装して逃亡するが、目的地のモメンディまであとわずかの僻村ヴアレンヌで見破られ、屈辱の逮捕、そして憎悪の中パリへの護送という最悪の結末を迎えた。これが「ヴアレンヌ事件」である。
 本書はアントワネットの王宮脱出から逮捕されるまでの一日を記したもの。彼女はオーストリアのハプスブルク家から嫁いで贅沢三昧の生活、民の苦しみを理解しない王妃というイメージが醸成され、革命を機にそれが民の憎しみの標的になり、最後はパリ市中引き回しのうえ、夫のルイ16世とギロチンの露と消えた。高貴に生まれた者の宿命というか、世の中がうまく行っていれば、国の華ともてはやされるのだろうが、夫の無能によって悪政の象徴となったことは、残念至極であったろう。しかし、この不幸な結末が、アントワネットの名を不朽のものにしたことは確かで、この意味では幸せ者だ。
 王侯貴族の逃避行は庶民の夜逃げみたいに行かないところが難である。特にルイ16世の優柔不断さが決定的だ。読んでいてイライラするが、逆にこれは著者の力量が発揮されたものと言える。アントワネットとスエーデン侯フエルゼンとの恋愛問題も織り交ぜて小説仕立てにした文章は読みやすく面白い。
 この逃避行を読んで、イタリアのフアシスト、ムッソリーニが愛人ペタッチと逃亡して最後はパルチザンによって処刑され、ミラノの広場で逆さ吊りにされた話を思い出した。革命とはかくも厳しい結末をもたらすのかと言う思いだ。多くの血が流される。政権交代が無血でなされる日本は幸せというべきか。
 中野氏の本は『怖い絵』以来、欠かさず読んでいるが、『名画の謎(ギリシャ神話篇)』もお勧めだ。一枚の絵に託されたギリシャ神話を堪能できる。

動的平衡2 福岡伸一 木楽舎

2012-05-06 08:05:42 | Weblog
 生命現象は本当は「メカニズム」と呼べるような因果関係に基づく機会仕掛けで成り立ってはいない。絶え間なく動きながら、できるだけある一定の状態=平衡を維持しようとしている。これが「動的平衡」の定義だ。そこで、そういう状態にあるものに対して干渉を加えれば、いっとき、確かに平衡状態は移動して別の様相を示す。しかし、間もなく揺り戻しが起こる。これは花粉症の話題で著者が述べている見解だ。氏によると花粉症は病気ではない。したがって薬では治らないとのこと。私たちはこの季節、医者に行き、薬を処方してもらうが、多くは抗ヒスタミン剤だ。これを飲めば、花粉症の症状は緩和される。ただし、その効果はその場に限って和らぐに過ぎない。結論は、抗ヒスタミン剤を飲み続けると、より過激な花粉症体質を自ら招いてしまうという逆説が起こる。これが生命現象の本来の姿である。以上、薬やサプリメントに頼る現代人に警鐘を鳴らしている。
 本書は九章構成で生命現象の不思議を解説しているが、中でも第八章の「遺伝は本当に遺伝子の仕業か?」が興味深い。かつてリチャード・ドーキンスは『利己的な遺伝子』という本で、遺伝子は究極のところ、自分自身を増やそうとする行動のプログラムであること、生物はそのプログラムを実現するための器、もしくは乗り物に過ぎないという説を展開した。「利己的な遺伝子」とは、自然淘汰の単位は遺伝子であり、生物の多様な性質は遺伝子の生存や増殖にとって有利であるために進化したとする見方を説明するための比喩的表現である。ドーキンスは、生物の性質はその生物個体にとって有利であるから自然淘汰によって進化したという「個体の視点」ではなく、利己的な遺伝子という「遺伝子の視点」からの方がより多くの現象を説明できるとしたのである。
 氏はこれに対して遺伝子活性化のタイミングを制御する仕組みが、遺伝子A、B、C、Dとともに世代を超えて受け渡されれば、同じA、B、C、Dというセットを受け継いでも、それが作動する結果としての生物、つまり現象としての生命は、異なる特徴を発現できると、ヒトとチンパンジーの進化の例を引いて説明している。このような遺伝子そのものではなく、遺伝子活性化のタイミングを制御する仕組みの受け渡しが最近、特に注目されてきており、それをエピジェネティックスと言い、遺伝子科学の新しい時代の扉を開くだろうと予測している。これによってドーキンスの説も覆される日が来るかもしれない。