読書日記

いろいろな本のレビュー

徒然草 川平敏文 中公新書

2020-06-14 15:32:11 | Weblog
 『徒然草』は兼好法師の書いた随筆で、高校の教科書にも採られている人気の作品だ。その序段は「つれづれなるままに、日ぐらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」で、冒頭の「つれづれなるままに」は「手持ち無沙汰で、所在がないのに任せて」と解釈するのが普通で、教科書の指導書にもそのように書いてある。したがってこの作品が兼好法師の暇つぶしに書かれたという通奏低音が流れることになる。ところが著者によると、17世紀の注釈書では、「孤独で物寂しい」という訳がつけられて」いるという。恥ずかしながら長年教員やっていながら、この「孤独で物寂しい」という訳については知らなかった。その他17世紀の国語辞典類、『新撰字鏡』『邦訳日葡辞書』『和句解』にも「つれづれ」の本義を「孤独」ととらえていたことから、「孤独」な状態からくる「存在の欠如感」(寂寥)、および「思考の停滞・逡巡」(煩悶)が、「つれづれ」という言葉の本来的な意味範囲であった。そこから意味が拡張して、そのような気分の次の段階、つまり「行為の欠如感」(退屈)を表わす際にも使用されるようになったと推測している。

 この流れをまとめて著者曰く、17世紀の注釈者たちは「つれづれ」が『伊勢物語』や『源氏物語』などに連なる「文学」の書であるとともに、儒教・仏教・老荘などの道を説いた「思想」の書であるという認識を示した。そして後者の観点から冒頭の「つれづれ」という言葉に「静寂の境地」という過度に観念的な解釈を施したのである。ここで兼好は、人生の酸いも甘いも噛み分けた、悟道の隠者のようにイメージされたわけであるが、しかし儒教や仏教といった思想を批判した18世紀の国学者たちは、『徒然草』は人間の自然な在り方を捻じ曲げた、いわば「偽りの書」だと批判した。しかし古典としての人気は近世後期までテキストが刊行されたことを見てもわかるが、17世紀の熱狂的なブームは起こらなかったと。

 そして明治時代を迎え、天皇中心の国家体制に変貌するに際して、『万葉集』をはじめとして古典の読み替え・再定位が行われていく。それにつれて「つれづれ」の解釈も「暇にまかせて」という解釈が主流になっていく、『徒然草』を思想書ではなく文学書とみる見方が台頭し、現在に至っている。その後、昭和に至るまで、さまざまの論争が紹介されている。古典の解釈・位置づけは時代の文化状況の影響を受けやすいということが本書の「つれづれ」の考察でよくわかった。最初に戻って、『徒然草』が「暇にまかせて」書きなぐったという作品でないことは、一読すれば明らかで、話の構成とか中身についてずいぶん工夫されている。内容が多岐に渡っているので、これを思想書と読むか、文学書と読むか、ゴシップ集と読むかは読み手の判断に任されているわけで、逆に言えば、書物自体に厚みがあるいうことだろう。従って毀誉褒貶も多いことになる。

 私は『徒然草』を「人生訓」の書として読んでいる。特に第百五十五段の「世に従はん人、まづ機嫌を知るべし」(世に順応してゆこうと思う人は、まず第一に、時機をを知らねばならぬ)で始まる文章の最後、「死期はついでを待たず。死は前よりしも来たらず、かねて後にせまる。人みな死あることを知りて、待つことしかも急ならざるに、おぼえずしてきたる。沖の干潟遥なれども、磯より潮の満がごとし」は肝に銘ずべき名言だ。重ねて言う、「死はかねてから背後に迫っている」のだ。