読書日記

いろいろな本のレビュー

閉塞経済 金子勝 ちくま新書

2008-12-31 21:21:00 | Weblog

閉塞経済 金子勝 ちくま新書



 世界金融恐慌のあおりで日本経済は閉塞し、多くの派遣社員が首切りの憂き目に遭い、年の瀬を過ごす算段もないまま路頭にさまよっている。この国のセイフティーネットはほころびていることを我々は目の当たりにしている。金子氏は言う、この国には最低限の生活水準を規定した「貧困ライン」という定義が存在していないと。
 アメリカのサブプライムローンの破綻に端を発した金融恐慌は瞬く間に世界に波及した。倫理なき資本主義は拝金主義を助長し、経済格差を生み、貧困問題を生起させている。小泉構造改革は規制緩和とグローバリズムを標榜し、アメリカ式の成果主義にもとづく自己責任という言葉を普及させた。構造改革は、市場という「神の手」に任せれば全てうまくいくということで、リーダーたちから戦略的思考を奪い、人々を思考停止に陥らせてしまい、その結果、経済成長力をどんどん落としてしまったと金子氏は言う。とりわけ小泉首相の下で、経済担当の責任者であった竹中平蔵氏への批判は相当に厳しいものがある。同じ慶応の教授だけによけいに腹が立つのだろう。金子氏は一貫して反権力のスタンスを貫いている人物で、政府の経済政策には厳しい視線を投げかけている。氏は、今やるべきことは、セーフティーネットの張替えを急いで社会崩壊を防ぎつつ、環境エネルギー革命あるいは教育投資に基づく知識経済の強化を中心にした産業戦略を強めることだと強調する。
 今の経済状況を打破する起死回生の政策は教科書には書いておらず、高い見識による創造的なものを模索する以外にない。今までのアメリカの後を追うだけのやり方ではもはや日本のアイデンティティーは消滅する。人権や正義の問題に、実は主流の経済学は論理的に答えられないのが現実だと氏は言う。そうであるなら、よけいに全体を見渡すことのできる、倫理的な為政者が要請されるのだ。今の国政担当者にそういう人物はいるのか。甚だ心細いと言わざるを得ない。
 経済不況による治安の悪化は現実のものとなりつつある。タクシー運転手が強盗殺人に遭う事件が二件連続して起こっている。かつてこの国が誇っていた治安の良さ、倫理観の高さは音を立てて崩れつつある。これは権力を握った者が腐敗している現実と無関係ではない。こうなると改めて教育の問題が問われてくるのは間違いない。金子氏が教育投資を重視される所以である。ということで、今年最後のレビューになりました。皆様どうかよいお年を。

ピーターの法則 ローレンス・J・ピーター ダイヤモンド社

2008-12-30 09:02:34 | Weblog

ピーターの法則 ローレンス・J・ピーター ダイヤモンド社



 ピーターと言っても、歌手のピーター(池畑晋之介)ではない。アメリカの社会学者である。初版は1969年でかなり前のものだ。これは33年ぶりの新訳である。
 最近は政治家、実業家、役人をはじめあらゆる分野で無能をさらけ出している人が多い。この状況を社会学的に分析し、一つの法則を見つけ出した。すなわち「階層社会では、すべての人は昇進を重ね、おのおの無能のレベルに到達する」というものである。「階層」とは「身分や等級や階級に従って構成員や従業員の配置が決まる組織」の意味で、会社、役所、学校等を想像すればよい。言われてみればなるほどと言う感じだ。真理をついている。やり手の営業マンがその成果を評価されて管理職に抜擢される。ところが、部下を統率する能力が弱い場合、管理職の仕事が上手くいかなくて、評価は下がり、あげくのはてに病気になって休職。結局、ヒラの営業マンでいた方が能力が発揮できて、本人も幸せに暮らせたのにということだ。
 ピーターはこのような事例をたくさん挙げおり、誠に説得力がある。かつてアメリカのビジネスマンの間で話題になったというのもうなずける。教育界の於いてはまさにこの法則がピタリと当てはまる。生徒を相手にしている時は誠に素晴らしい先生が、教頭や校長になるとまるでダメになるという話は私自身目の当たりにしていることだ。無能な校長は、時にピントはずれの指示を出してヒラ教員の失笑を買う。本人自身は無能だということを理解していないので、よけいにたちが悪い。
 それでは、この昇進による無能状態を避けるにはどうすればいいのか。ピーターは言う、初めから昇進の話を持ちかけられないように工夫することによって、上のポストに昇るのを避ける。これこそが、最終的な昇進を避けるための確実な方法で、仕事に於いても、私生活に於いても、健康と幸福を手に入れるための秘訣だと。これを「創造的無能」と名づけている。なんと素晴らしい言葉であろうか。日々上を目指して頑張っている諸君、どうかこのピーターの言葉を肝に銘じて、くれぐれも後悔の無いようにして頂きたい。

反貧困 湯浅誠 岩波新書

2008-12-28 10:15:37 | Weblog

反貧困 湯浅誠 岩波新書



 副題は、「すべり台社会からの脱出」。本書は第八回 大仏次郎論壇賞ならびに第十四回 平和・共同基金賞を受賞した。著者は東大大学院法学研究科博士課程中退で、ホームレス支援活動に従事。現在、自立生活センター・もやい事務局長。学会から貧困サポートへの転進のいきさつを知りたい気もするが、ここでは関係ないことなので次に行こう。
 生活保護を打ち切られて、「おにぎり食べたい」というメモを残して餓死した人の話題は国民に衝撃を与えた。コンビニの弁当・おにぎりの三割が売れ残って捨てられているこの世の中で、餓死する人がいるとは。これは著者も言うとおり、自己責任云々の話ではない。明らかに行政の怠慢である。この国に格差はあるが貧困はないと前総務大臣の竹中平蔵は言ったが、実情を把握していない能天気な発言と言えよう。著者は貧困の現場に実際身を置いて、セイフティーネットにかからない人々の相談に乗った経験をつぶさに報告してくれている。「反貧困」はお題目ではない。国がやるべき義務である。憲法第25条の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保障しなければならいのだ。為政者の仕事は一にかかってここに集中すべきである。声高な批判でなく、冷静な論調と的確な問題提起の記述は著者の人柄を感じさせて好感がもてる。
 あとがきの次の言葉が胸を打つ「誰かに自己責任を押し付け、それで何かの答えがでたような気分になるのは、もうやめよう。お金がない、財源が無いなどという言い訳を真にうけるのは、もうやめよう。そんなことよりも、人間が人間らしく再生産される社会を目指すほうが、はるかに重要である。社会がそこにきちんとプライオリティー(優先順位)を設定すれば、自己責任だの財源論だのといったことは、すぐに誰も言い出せなくなる。そんな発言は、その人が人間らしい労働と暮らしの実現を軽視している証だということが明らかになるからだ。そんな人間に私達の労働と生活を、賃金と社会保障を任せれられるわけがない。そんな経営者や政治家には、まさにその人たちの自己責任において退場願うべきである。主権は、私たちに在る。」今年、私が一番感動した言葉だ。これを読んだとき、麻生首相、経団連の御手洗会長、橋下大阪府知事の顔が浮かんだ。彼らに熨斗をつけてこの言葉を贈りたい。

中国ポスター 秋山孝 朝日新聞出版社

2008-12-28 09:06:15 | Weblog

中国ポスター 秋山孝 朝日新聞出版社



 建国から現在に至る中国のポスターから168点を選び解説したものである。中国を語る場合、毛沢東抜きには語れない。共産党の中枢として権力闘争を勝ち抜いてきた実力は、古今東西の独裁者の中でも抜きん出ている。特に文化大革命は彼が仕掛けた権力闘争としては最高のものだ。これは政敵の劉少奇を失脚させるための陰謀だったが、外向けには中国の旧弊を打破するという大義名分で起こされたため、その本質を見抜けない人が多かった。「造反有理」という言葉は日本の大学生を感動させ、学生運動のスローガンになったことは記憶に新しい。日本の中国学者たちはこぞって毛沢東を礼賛し、文化大革命を評価した。従って学会で台湾を研究対象にする人は非常に少なかった。当時を思い返して、私自身内心忸怩たるものがある。
 このようにポスターは政治と直接と関わっているゆえ、これを見るだけで1949年の建国以来の歴史が俯瞰できる。文革期の毛沢東の個人崇拝を推進する一群のポスターは個人的に興味深い。後の北朝鮮の金日成の偶像崇拝の原型がここにある。ポスターの基調は赤で、これは国旗の五星紅旗の赤色から来ている。赤色革命を実践するという強い意志の表明である。中でも毛沢東の妻の江青が指揮した革命現代舞劇「紅色娘子軍」のポスターは江青のすぐれた美的感覚が出ており、素晴らしい出来だ。彼女は後に四人組の首魁として華国鋒によって死刑判決を受けたが、その後自殺した。権力者の盛衰を見事に生き抜いたとも言える。
 最近のものはどうかというと「愛心、救助、未来」というように未来に向けて「愛」の重要性を訴えるような情念的なものが多い。これは内部に敵を作って階級闘争ができない現中国共産党のディレンマが読み取れる。外に敵を作って国内の矛盾を隠蔽するやり方は、昨今の反日運動を見れば明らかだが、いつまでもやっているわけには行かないだろう。大変難しい時期に来ていることは確かだ。

学歴・階級・軍隊 高田里恵子 中公新書

2008-12-23 08:58:19 | Weblog

学歴・階級・軍隊 高田里恵子 中公新書



 副題は「高学歴兵士たちの憂鬱な日常」。戦前の日本で、旧制高校から帝国大学へと進む学生達は、将来を約束された一握りのエリートであった。それが、第二次世界大戦もたけなわとなる頃から、彼らも苛酷な軍隊生活を送らざるを得ない状況となる。軍隊内で大学卒のインテリ兵士が、農家の次男・三男で小学校しか出ていない古参兵にいじめられるという話は、野間宏の「真空地帯」や大西巨人の「神聖喜劇」でお馴染みだが、本来は邂逅することの無い人種に出くわした時のインテリの衝撃が手に取るように描かれている。日本を代表するインテリの丸山真男も陸軍二等兵として従軍したが、小学校卒の一等兵に苛め抜かれた体験があり、これを「異質なものとの接触」だったと語っている。
 この「異質なものとの接触」はその後の丸山の思想の中で、人間観から政治観に至るまで、大きな位置を占めるようになっていったことが指摘されている。この苛酷な体験は丸山にとっては有益だったということだ。府立一中、一高、東大法という丸山の歩んだコースは近代日本が作り上げた「階級」というべきものだが、著者は、欧米ではブルジョワ階級にふさわしいものとして上級学校が整備されたが、日本では反対に、一つの階級を作り出すために、上級学校が整備されたのだと言う。よってこの新しい階級に潜り込むためには、猛勉強して入試に受かることが必要だ。しかし、めでたく合格しても更に才能の角逐が行われ、途中で脱落するものも多い。この図式は現代でもあまり変わっていない。中高一貫校から東大へというコースを突走ったもののうち何人が「異質なものとの接触」が可能であろうか。

血だるま剣法・おのれらに告ぐ 平田弘史 青林工藝社

2008-12-21 16:50:38 | Weblog

血だるま剣法・おのれらに告ぐ 平田弘史 青林工藝社



 本書は劇画で本来は批評の対象外なのだが、12月7日の朝日新聞の読書欄に荒俣宏氏が「たいせつな本」として取り上げておられ、その内容が興味深かったので読んでみた。氏は中学生のとき本書を貸本屋で借りてきて読み、「残虐きわまりない社会差別の存在を、この復讐奇談によって知らされた。東京の子は差別のことをほとんど知らないので、信じられぬ想いがした」のだそうだ。さらに返しにいくと、おばさんが「ま、あんたが借りてたの!これはね、回収処分になったの。読んじゃいけない本なのよ」と怒鳴られたと書いている。以来40年以上封印され続けたが、04年に呉智英の監修・解説で復刊されたとあるので、大体その事情は予想しながらも買ってみた。果たして、問題に関わるものだった。
 一読して、絵の上手さ迫力は荒俣氏の指摘通り素晴らしいし、内容も問題にするようなことではないと感じたが、1962年当時は実際、解放同盟の圧力で、回収させられたのだ。内容は、幼いころから受けた「差別」に憤り、剣の道で身を立てて、を救おうと励むというものだが、解放同盟大阪府連は、作者と版元への厳重な抗議を行った。批判は三点あり、①起源についての認識が誤っている、②民を残酷な人々と描くことで解放運動をゆがめた、③主人公を死なせて、みんなでそれを喜び、民が死に絶えればいいと思わせるというものだ。呉氏も言う通り、②と③は明らかに誤読で、被害妄想もいいところだ。①の政治起源説も今では、学会の主流ではない。これは「穢れと清め」といった感覚的な要素も大きく影響しており、時の為政者が簡単に差別意識を普及できるものではない。しかし、60年代は解放運動の盛んな時期で、当時の政治状況とも相俟って、言葉狩りに近いことも行われていたことは確かだ。「矢田文書」差別事件などはそれに近い。これなどは解放運動のアプローチの違いで、社会党と共産党の代理戦争の様相を呈していたが、最高裁の判決で解放同盟側の敗訴が決定している。
 解放同盟の糾弾闘争は歴史的必然というような面があり、一概に否定するものではないが、民以外は先天的差別者だという言説は、明らかに誤りだと思う。アプリオリな差別者なんているわけがない。しかし、60~80年代は解放同盟の言説が大きな力を持っており、教育現場はそれらに支配されていたことも事実だ。必要なことは科学的・哲学的分析であり、ロゴス的啓蒙主義が主流になることだ。パトスのみではダメだ。

学力とは何か 諏訪哲二 洋泉社新書

2008-12-17 23:14:10 | Weblog

学力とは何か 諏訪哲二 洋泉社新書



 最近の学力論争に決着をつけるような痛快な内容である。著者は埼玉県の公立高校の社会科教員として勤め、現在、日本教育大学院客員教授。現場でたたき上げただけあって、共感する部分が多い。私は諏訪氏の本を何冊か読んだが、戦後の歴史と教育の問題の関係についての分析が非常に鋭いと感じた。
 学力テストの成績の公表に関して、是か非かの議論が世間をにぎわせているが、学校とは本来知識のみを伝授する場ではない。人格形成も教育の重要な要件である。学校があれだけ広大な敷地を使って作られる所以は、まさに人間形成の場である事を如実に物語っている。
 著者は言う、人間は学力でしょ、学力とは受験に通用する力でしょ、学力とは知識の集積でしょ、というあっけらかんとした確信の声が街のあちこちから聞こえてくる。知識の集積なら学校より塾・予備校がすぐれているという声が聞こえてくる。人格形成が視野に入らなくなったのは、子ども(生徒)が教育によって形成されるという観点がなくなり、まず経済主体の子どもがそこにいて、自らの利益(得)のために勉強するのだという考えが一般化したからなのであろう。教育によって個人は形成されるものという観点はかなり後景に退いている。個人がまずそこにいるという観点は、経済的な視点によって成り立つものだからだと。誠にもって正しい分析と言える。著者はこの観点から、いまマスコミで引っ張り凧の藤原和博、陰山秀男、和田英樹、各氏の批判を繰り広げている。面白くて読み出したら止められないくらいだった。是非一読願いたい。大阪府知事の橋下よ、何だかんだ言う前に、お前もこの本を読んで勉強せい。

江戸歌舞伎の怪談と化け物 横山泰子 講談社選書メチエ

2008-12-13 14:17:56 | Weblog

江戸歌舞伎の怪談と化け物 横山泰子 講談社選書メチエ



 著者によれば江戸歌舞伎の怪談物の面白さは次の五点あるという、一、才能ある役者と作者によって作られたこと。ニ、大道具大仕掛けを多用すること。三、文化文政期に成立した娯楽であること。四、近現代の怪談文化にまで影響を及ぼしていること。五、「日本的」な遊びであることである。その嚆矢は文化元年の鶴屋南北作「天竺徳兵衛韓噺」、主演は初代尾上松助(後に松緑、1744~1815)である。彼は仕掛けの工夫が好きで、早や替りが得意、超自然的な役に向いた俳優だった。特に水くぐり、水中早や替りは観客を魅了したらしい。引田天引のルーツだ。松助死後は、その養子の三代目尾上菊五郎(1784~1849)と南北が組み、さらに新作を作ったが、その代表作が、怖いお岩の幽霊が出る「東海道四谷怪談」であった。
 そのお岩の出産に注目した記述が本書のハイライトといっていいと思う。お岩は妊娠、出産を経て、母となって死に、幽霊となるのだが、南北は産褥中のお岩がお歯黒、髪結いする姿を描き、産婦を見世物にしていると述べる。これは出産を他人事としてしか意識しない男性ならではの発想と言う。ここでイギリスの女流作家メアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」を例に挙げて、この小説の主題が女性の産後の精神的ショックがいかに大きいものであるかに他ならないと分析している。私はこの部分の展開に女性らしさが溢れていて感動した。比較文学の手法がうまく取り入れられている。これで逆に鶴屋南北の才能が際立っていたという証明にもなると思う。
 坪内逍遥は、歌舞伎はキマイラ(獅子と山羊と龍を足した変な怪獣)と言った。これは、歌舞伎の多面性についての評価だが、無類の複雑さが歌舞伎の魅力でもある。ここには江戸の歴史が刻み込まれている。

巨匠たちのラストコンサート 中川右介 文春新書

2008-12-13 11:42:25 | Weblog

巨匠たちのラストコンサート 中川右介 文春新書



 ここで取り上げられている巨匠とは、トスカニーニ、バーンスタイン、グールド、フルトベングラー、リパッティ、カラヤン、カラス、クライバー、ロストロポーヴィッチである。九人の「最後のコンサート」をめぐるエピソードと著者の思いが綴られている。個人的に興味を覚えたのは、コンサートを止めてスタジオ録音だけに専念したグールドと、コンサートの聴衆の反応に生きがいを感じたバーンスタインの対照的な生き方だ。人柄も孤独と気さくの両極端で、芸術家の個性の具体例を目の当たりにした感じだ。バーンスタイン同様、コンサートを重視したのがカラヤンで、彼にとってはレコードはリハーサルの一部で、コンサートやオペラの本番こそが、真の演奏だった。その点が、録音が大好きで大量のレコードを残しながらもコンサートを拒否したグールドとの最大の相違点だった。
 またバーンスタインにとっても、コンサートこそが本番であり、レコードはそれの「記録」の意味が強かった。同時録音できない時代は、しかたなく、まだその興奮が冷め遣らぬ翌日に演奏して録音していたのである。一方のカラヤンは、ある時期から、先に録音し、後からコンサートの臨んでいた。録音セッションとなると手当てが出るので、オーケストラは喜んで付き合ってくれる。コンサートのためのリハーサルの経費をレコード会社が出してくれるので、一石二鳥というわけだ。しかも録音とコンサートの間にはタイムラグがあったので、コンサートで感激した客が客席を立って、ロビーに出て見ると、たったいま聴いた曲のレコードが売られているのだ。レコード販売システムとして完璧といえよう。カラヤンが商売人と言われる所以である。日本のクラシックフアンの多くは、レコードという「カラヤンにとってのリハーサル」だけでカラヤンを評価していたのだという著者の指摘は誠に鋭い。ベルリンフイルやウイーンフイルのチケットはS席四万五千円もするが、生演奏の価値はそれを補って余りあるということか。


韓国企業はなぜ中国から夜逃げするのか 大原浩 講談社

2008-12-06 10:17:27 | Weblog

韓国企業はなぜ中国から夜逃げするのか 大原浩 講談社



 タイトルが面白い。タフな韓国人が中国から夜逃げ。これだけで中国のすごさがわかろうというものだ。著者は金融・投資コンサルタントで、中国株投資では個人投資とファンドの両方で成功したらしい。中国人相手に実務を経験した人ならではの中国論だ。
 著者によれば、韓国や中国でIT産業が発達した理由は、道路、空港等のインフラ整備のための設備投資や製造業に必要な高度な技術もいらないからとのこと。なるほどインドの例を思い描けば納得だ。その韓国企業が製造業で中国に進出してどうなったか。タイトルのように最近は中国に進出した韓国企業は軒並み人件費の高騰により、利益が上がらないのが現状で、さりとて撤退しようとしてもその手続きに何年もかかってしまい、夜逃げせざるを得ないのである。日本企業も同じ悩みを持っているが、韓国企業ほどはっきりした行動は取れないでうじうじしているらしい。進出するのも地獄、撤退するのも地獄、誠に企業人にとっては難儀な国である。いわゆる人治主義というヤツで法律がまともに機能しない状況がある。また中央と地方の政権の二重構造のため、共産党の地方幹部は好き勝手に権力を行使する。「親方五星紅旗」は「親方日の丸」とは違う。持てる権力を最大限行使して国家の資産を食い潰すというすさまじさがあるのだ。
 格差問題はいま話題になっているが、「中国のカースト制度」として「都市戸籍」と「農村戸籍」の問題を取り上げている。前者をアメリカ、日本などの先進国の戸籍、後者をミャンマーやバングラデシュなどの戸籍に例え、最低限の社会保障や公共サービスが提供されるか、されないかの違いがあると言う。誠に分かりやすいたとえで、農民がいかに虐げられているかがわかる。農村の余剰人口は二億人余り、これらの人々は農村戸籍のまま都市に流入して、出稼ぎとして苛酷な労働に従事する。都市生活者が受けられるサービスは受けられない。その結果、治安が悪化していく等の余波が起きる。巨大帝国のアキレス腱がここにある。
 その他、少子高齢化の問題、一人っ子政策の悪影響等、実業家の視線で中国を分析している。学者のそれとは一線を画した筆致で、面白く読める。