読書日記

いろいろな本のレビュー

囚われの山 伊東潤 中央公論新社・その他

2023-08-22 09:00:21 | Weblog
 「夏休みは読書」というのは学校生活で染みついた習慣だが、これは読書感想文が原因になっている。今は感想文のひな型がネットに出ているので、それを丸写しにする生徒が後を絶たない。よく書けているなと思ったら疑ったほうが良い。間違ってコンクールに出そうものなら、選んだ教員の恥になるので要注意だ。よってこの時代では感想文の宿題は廃止したほうが良い。出版業界からすると嫌な話だが。因みにバーナード・マラマッドの小説に「夏の読書」というのがある。ニューヨークの下町に住む19歳のジョージ少年が近所のカタンザラ氏に夏の間に100冊の本を読んで教養をつけると豪語したもののそれがなかなかできなくて、、、、、という展開なのだが、なかなかいい小説だ。このように夏と読書は親和性があるのだ。

 夏は文庫本が大量に出版されて書店の売り場はにぎわっている。多いのは2~3年前のハードカバーの旧版を文庫にしたものだ。よく見ないと丸まるの新刊かと間違ってしまう。『囚われの山』もその中の一つで、1902年(明治35年)1月に八甲田山での日本陸軍の雪中訓練で参加者210名中199人が死亡するという、近代の登山史における世界最大級の山岳遭難事故を扱ったものだ。この事件については夙に『八甲田山死の彷徨』(新潮文庫 1978)があり映画にもなった。本書はこの事件の謎を推理小説にしたもので、結構よくできていると思う。文庫本は表紙の絵が素晴らしくて販売に寄与していると思ったが、私は図書館で旧版を読んだ。もとは「中央公論」に一年間連載されたものだが、新聞小説の冗漫さがないところが良かった。

 新聞小説のダラダラ感が目に付いたのが、『灯台からの響き』(宮本輝・新潮文庫)だ。これも旧版を文庫化したものだが、買って読んだ。今は亡き妻が30年前に高校生から受け取ったはがきの謎を解明すべく全国を駆け回るという話であったが、新聞小説特有の冗漫な感じが否めない。新聞一日分に山あり谷ありの中身を入れるのは困難で、どうしても一週間のスパンで見ていく必要があるのだが、この小説の場合、結論が単純なので一年間持たせるのは大変だったろうと思う。よって主人公の身辺雑記的な記述が多くなり、冗漫になるのだ。芥川賞作家であるが、いつも高水準の作品を生み出すのは難しいという気がした。

 最後は同じく芥川賞作家、吉田修一の『湖の女たち』(新潮社)について見てみよう。これも『囚われの山』同様、旧版で読んだが、芥川賞選考委員だけあって壮大なスケールで描くミステリーという感じだ。琵琶湖に近い介護用老施設で、百歳の男が殺された。事件を追う刑事と、施設で働く女。二人はどろどろの関係に突入する。一方、週刊誌記者は、死んだ男の過去に導かれ、旧満州・ハルピンにたどり着き、731部隊に、、、、。「欲望も涙も罪もすべて、湖が吞み込んでいく」という惹句が最後の結論で、人間のはかない営為は自然の中に消えていくという文学的な収斂の仕方がすごい。介護施設における殺人、警察の腐敗の実体、昨今の男女関係の事情、旧満州における日本軍の犯罪、これだけの内容を盛り込んで一編の作品にまとめるとはさすがである。ただ介護施設の女性が、捜査担当の刑事に強引に手籠めにされる体の描写は生理的にいやだと感じる読者がいるのではないか。それでもストーリーテラーとしての才能はすごいと感じた。

 夏の読書は小説とばかり、今は白石一文の『秘密』(講談社文庫)を読んでいる。それにしてもこの酷暑、皆さんご自愛ください。

チャンバラ 佐藤賢一 中央公論新社

2023-08-08 09:13:21 | Weblog
 本書は宮本武蔵の決闘場面を十回に渡って描いたもの。そのうち一つは父の新免無二のものである。中身は題の「チャンバラ」が示す通り、殺陣の台本のようで今まで見なかったものだ。氏の作品は『小説フランス革命』をはじめとして西欧の歴史小説が主流だったが、ここにきて日本の歴史もの、それも宮本武蔵の決闘場面に特化している点が大変興味深い。決闘相手は順に、有馬喜兵衛、秋山新左エ門、吉岡清十郎、吉岡伝七郎、吉岡一門、宍戸又兵衛、佐々木小次郎、新免無二で、中に吉弘加兵衛と井上九郎右衛門のものが入っている。

 吉岡一門との闘いは、一乗下り松の決闘と言われるのもので、100人相手にこれを制したことで有名である。武蔵はあらかじめ下見をして敵の背後から襲い切りまくった。映画「用心棒」で三船が演じた殺陣のようで痛快極まりない。武蔵はこのように戦略を立てて闘った。これでなくては連戦連勝とはいかないであろう。なかでも宍戸又兵衛は鎖鎌の使い手で、これは厄介な相手である。分銅をブンブン回して相手の刀に絡みつかせ、それを引き寄せて持っている鎌で殺すという恐ろしい戦法である。著者はこれをまるで映画のように描いて見せる。なかなかの力量だ。著者に剣道の心得があるのか、あるいは殺陣の先生の指導を受けたのかもしれない。全般的に剣の素人では書けない描写がたくさんあった。

 宮本武蔵と言えば佐々木小次郎との巌流島の決闘になるが、この編には、小説的潤色が施されていて面白く読めた。武蔵の恋人に雪という女性がいて、将来は結婚という予定だったが成立せず、二人は別れるがその時、雪は妊娠しており、その後佐々木小次郎と結婚する。小次郎は生まれた男の子(小太郎)を大事にするという度量を見せていた。そのうえでの決闘である。また小次郎は小倉藩の剣術指南役であったが、小倉藩を支配する細川家にとって不安定要素だったので、決闘を排除の好機とみていたという裏事情が語られる。その中での決闘である。それまでして命のやり取りをする必要があるのかという問題が浮かび上がる。これが武士道か剣の道か。

 その疑問は最終章、「宮本武蔵と新免無二」で最高潮に達する。なんと親子で決闘するのだ。この決闘に勝利した武蔵は己の兵法を打ち立てることを決意する。「今度こそ本物を立てるのだ。それこそ万人に誇れるもの、後の世にまで遺せるものを立てるのだ。ーーーしかし、、、、、」と。しかし以下の、、、、、が余韻を含む。その後、武蔵は13歳になった小次郎の遺子小太郎に遭って、真剣勝負を挑まれる。因果は巡り巡って、、、、。剣に命をかけるとは、これを人生と言って良いのだろうか。江戸時代初期のまだ戦国の遺風の中での武士の生き方は甚だ不可解なものとして現代人に訴えかける。剣が哲学になる前の人殺しの道具として存在感があった時代である。まさに戦場の中の生と言ってよい。この緊張感は現代人にはない。