内田氏は合気道七段の武道家で、哲学者でもある。こういう人は珍しい。氏によれば、武道の目的は「無敵の探求」で、「敵」とは、広義には心身のパフオーマンスを低下させるすべてのもののことであり、「私の心身のパフオーマンスを低下させるもの」即ち「我執」であると言う。そこで例に挙げられるのが、中島敦の『名人伝』である。弓の修行者がノミの心臓を撃ち抜くまでの過程を描いたもので、我執を去ることによって名人になることができた。敵を退けたわけである。
氏の哲学者の原点はフランスの哲学者レヴイナスとの出会ったことで、爾来レヴイナス研究と合気道の修行を続けてきた。氏によれば、この二つの間には共通するものがあり、それは、このどちらもが、人間の生身の身体感覚の上に構築された体系であるということだ。信仰も修行も、人間の生身においてのみ開花する。
レヴィナスはユダヤ人としてナチスの迫害を受けたが、ホロコーストに神が救いの手を差し伸べなかったことについて「唯一なる神に至る道程には神なき宿駅がある」と述べている。内田氏は、この「神なき宿駅」を歩むものの孤独と決断が信仰の主体性を基礎づける。この自立した信仰者をレヴィナスは「主体」あるいは「成人」と名づけた。秩序なき世界、すなわち善が勝利しえない世界において、犠牲者の位置にあることが受難であり、そのような受難が、救いのために顕現することを断念し、すべての責任を一身に引き受けるような人間の全き成熟を求める神を開示するとレヴィナスの見解をまとめている。神は人事に関わらないことのレヴィナス流の言い方である。神を求めるのはかくも困難なものなのだ。またレヴィナスは、戦争と粛清と強制収容所の歴史的経験から、悪とは「人間的スケール」を越えることだと言う。曰く「個人的な慈悲なしでも私たちはやっていけると考える人がいます。慈悲の実践には個人的な創意が必要なのですが、そんなものはなくてもよいのだ、と。そのつど個人的な慈悲や愛の行為を通じてしか実現できないものを、永続的に法律によって確実なものにできると考えること、それがスターリン主義です。スターリン主義は正しい意図から出発しましたが、管理の暴力のうちに崩れ落ちてしまいました」と。
制度としての正義と個人に対する慈愛は同時に成立しないことの例証としてこの言葉を肝に命ずる必要がある。内田氏に導かれてレヴィナスを読みたくなった。
氏の哲学者の原点はフランスの哲学者レヴイナスとの出会ったことで、爾来レヴイナス研究と合気道の修行を続けてきた。氏によれば、この二つの間には共通するものがあり、それは、このどちらもが、人間の生身の身体感覚の上に構築された体系であるということだ。信仰も修行も、人間の生身においてのみ開花する。
レヴィナスはユダヤ人としてナチスの迫害を受けたが、ホロコーストに神が救いの手を差し伸べなかったことについて「唯一なる神に至る道程には神なき宿駅がある」と述べている。内田氏は、この「神なき宿駅」を歩むものの孤独と決断が信仰の主体性を基礎づける。この自立した信仰者をレヴィナスは「主体」あるいは「成人」と名づけた。秩序なき世界、すなわち善が勝利しえない世界において、犠牲者の位置にあることが受難であり、そのような受難が、救いのために顕現することを断念し、すべての責任を一身に引き受けるような人間の全き成熟を求める神を開示するとレヴィナスの見解をまとめている。神は人事に関わらないことのレヴィナス流の言い方である。神を求めるのはかくも困難なものなのだ。またレヴィナスは、戦争と粛清と強制収容所の歴史的経験から、悪とは「人間的スケール」を越えることだと言う。曰く「個人的な慈悲なしでも私たちはやっていけると考える人がいます。慈悲の実践には個人的な創意が必要なのですが、そんなものはなくてもよいのだ、と。そのつど個人的な慈悲や愛の行為を通じてしか実現できないものを、永続的に法律によって確実なものにできると考えること、それがスターリン主義です。スターリン主義は正しい意図から出発しましたが、管理の暴力のうちに崩れ落ちてしまいました」と。
制度としての正義と個人に対する慈愛は同時に成立しないことの例証としてこの言葉を肝に命ずる必要がある。内田氏に導かれてレヴィナスを読みたくなった。