読書日記

いろいろな本のレビュー

辺境から訪れる愛の物語(沈従文小説選) 沈従文 勉誠出版

2014-02-12 10:54:58 | Weblog
 沈従文(1902~88)は中国の現代作家だが、魯迅・茅盾・巴金・老舎・趙樹里などのかげに隠れて名前が出てくることはまれであったが、今回勉誠出版が小島久代氏の訳で出版されたことはまことに喜ばしいことである。『辺城』(邦題「辺境の町」)という作品が夙に有名であったが、最近は読む機会が殆どなかった。彼は生地の湖南省の自然豊かな田舎を舞台に、水夫・兵士・娼婦・農民など下層の人々の生命力あふれる生活と健康的なエロスを大胆に描き、その小説は早くから注目されていたが、1934年に先述の『辺城』(邦題「辺境の町」)を執筆、一躍その名は世界的に知れ渡った。一時はノーベル賞候補にもなったが、1949年以降30年間、作家活動から退いていたこともあり、受賞には至らなかった。
 その原因は国共内戦時代に書いた小説が、郭沫若らによって「反動的」「ポルノ」と批判され、北京大学に壁新聞まで貼られて糾弾された結果、沈従文は家庭的にも孤立し、鬱状態になって自殺未遂事件を起こし作家活動から退いたことによる。その後は、北京大学博物館勤務を経て、中国歴史博物館、中国社会科学研究所などで文物(古代服飾・漆器・磁器など文化財)研究に従事し、1981年には大部の『中国古代服飾研究』(商務印書館)を著わして、世間をあっと言わせた。文革終了後、名誉回復がなされて再評価され、1949年以前の作品が次々出版されるようになった。 
 本書には「虹」「月下小景」「街」「静寂」「夫」「辺境の町」の5篇が取り上げられているが、共産党政権成立以前という時代感覚を肌で感じさせるものばかりだ。即ちイデオロギーによる感覚支配がなされていないという意味で、日本の現代小説と同じように楽しめる。特に代表作「辺境の町」は湖南・貴州・四川省の省境にある山あいの小さな辺境の町で繰り広げられる清純な恋物語である。白河を往来する渡し船の貧しい老船長(七十歳)の孫娘の翠翠(十五歳)を船問屋の二人の兄弟が同時に見染めて話は展開するが、結局兄は事故死、弟も行方不明、老船長も事故死と悲劇が重なり、翠翠は天涯孤独の身になってしまう。このストーリーが辺境の風俗の中で語られる時、まるで神話のような風味を体験できる。
 現代中国の共産党政権の混乱の中で、毛沢東時代の「紅歌」(革命歌)が懐かしがられる人民のメンタリティーからすると、沈従文の小説も十分受け入れられる余地はある。

選択の科学 シーナ・アイエンガー 文藝春秋

2014-02-01 09:09:02 | Weblog
 原題は『選択の美学』。最終章の内容からすると、この方がよい。本書の内容の殆どは、2011年11月27日から毎週5回『コロンビア白熱教室』で放送されたもの。盲目の人気女性教授の講義とあって、話題になった。著者は1969年、カナダのトロント生まれ。両親はインドのデリーからの移民でシーク教徒。1972年にアメリカに移住。3歳の時、眼の疾患を診断され、高校に上がるころには全盲になった。厳格なシーク教徒の両親のもと、着るものから結婚相手まで、すべて宗教や習慣で決められる社会で育ってきた。そうした中、アメリカの公立学校で、「選択」こそアメリカの力であることを繰り返し教えられ、大学に進学してのち、研究テーマにすることを思い立った。
 「選択」を研究テーマにすることは、なかなか思いつかないことだが、彼女の場合、インドとアメリカの異文化衝突を実体験したことが大きく影響したのであろう。本書には「選択」に関する意外な事実が例示されており、大変興味深い。
 ・社長の平均寿命は、従業員の平均寿命よりも長い。その理由は、裁量権つまり選択権の大きさにある。
 ・動物園の動物の寿命が、野生の動物よりはるかに短いのは、「選択」することができないからだ。これは意外だった。毎日餌を貰えて生きることの心配がないと思われるが、そうではないようだ。草食動物などは、毎日餌をもらえるという認識そのものが無いので、常に餌の不安を抱いていること。また、猛獣の檻から匂ってくる匂いが絶えず天敵に狙われているというストレスを生み出すことが原因で早死にするらしい。これは老人介護施設でも似たようなことが起こるらしい。即ち、何から何まで施設の職員がやってくれるのと、ある程度自分の判断で任されるのとは寿命に差が出るのだ。もちろん後者の方が長生きするのだ。これは確かにそうだと思う。下手に施設に入るより、安アパートでいる独居老人の方が強いのだ。孤独に耐えるその力が全然違う。
 ・しかし、何もかもが決められている原理主義的な宗教に属する人ほどうつ病の割合はすくない。これはよくある話で、集団ヒステリーになると自分で悩む必要が無くなるからだ。
 ・わが子の延命措置をするかしないかの究極的選択。その判断を親がするより、医者に委ねたほうが、後悔は少ない。これは重要な指摘だ。普通は子に対する責任は親が負うということで、親が苦しい選択を強いられるのだが、死ぬか障害をもって生きるかという究極の選択は本当につらい。そのとき医者の判断にゆだねたということで、自分に対する責任が回避されるのであろう。ここで著者はウイリアム・スタイロンの『ソフイーの選択』を例に出している。ソフイーがナチス・ドイツによって収容所に入れられそうになったとき、危うく難を逃れたのだが、その時ドイツ軍の軍医に二人の子どものうちどちらか一人を置いて行けと選択を迫られる。兄と妹どちらかを自分で決めろと言う。ソフイーは結局妹を残してくるのだが、以後そのことがトラウマになって、最後は自殺してしまうという内容だ。昔映画になって、メリル・ストリープがソフイー役を演じていた。名画だと思う。
 ・スーパーで品揃えを豊富にすると、売り上げは逆に下がる。これも意外である。
 最後に自殺も人生の選択の一つになるのかという問題提起がある。人生を豊かにするために選択を繰り返してきた人間の最後の選択が自殺とは、なんとも皮肉な結果だが、それも含めて、人生の困難に立ち向かって何が最善かを常に考え、人生を切り開く努力が必要と述べる。非常に勇気づけられる言葉だ。