読書日記

いろいろな本のレビュー

戦争は女の顔をしていない スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチ 岩波現代文庫

2016-07-24 13:18:00 | Weblog
 著者はベラルーシ出身で、2015年度のノーベル文学賞の受賞者である。この時は村上春樹が取るのではないかという予想が有力だったが、この人の名が上がったとき意外だという人が多かったのではないか。私もその一人で、彼女のことは知らなかった。しかし本書を読むと、村上の世界とはまるで違い、非常にシリアスで重い素材を扱っており、こちらの方がノーベル文学賞にふさわしい。中身は第二次世界大戦でソ連の兵士としてナチスドイツと戦った従軍女性(500人以上)の戦後のインタビュー(1978~2004)を集めたものである。
 ソ連は連合国の一員として第二次世界大戦に勝利したが、戦争の初期にドイツ軍に攻め込まれたあと、18歳以上なら男女の別なく軍務につけた。女たちが飛行士、狙撃手からパルチザンの仲間という具合に実戦の構成員であった国はない。驚きの事実である。中には年齢を偽って15~16歳で軍隊に潜り込んだ少女もいる。男に混じってドイツ軍と戦った従軍女性の封印された歴史が語られる。しかし彼女たちが戦争体験を語るまでには相当の紆余曲折があった。戦後彼女たちに浴びせられたのは「戦地に行って男の中で何をしてきたやら」という心ない中傷であった。男たちもこの中傷にまともに立ち向かわず、女性たちが孤立し、口を開かなくなった。その中での証言集めである。その苦労如何ばかりであったろう。
 彼女たちによって語られる「戦争の生と死」の諸相は、戦争の残虐・無慈悲を改めて読者の胸に刻みつける。
 狙撃兵として初めてドイツ兵を撃った時の回想、「敵と言ったて人間だわ」と撃つことを決めた時に一瞬閃いた。両手が震え始めて、全身に悪寒が走った。恐怖のようなものが、、、、、。今でも、眠っている時、ふとあの感覚が蘇ってくる。ベニヤの標的は撃ったけど生きた人間を撃つのは難しかった。銃眼を通して見ているからすぐに近くにいるみたい、、、。私の中で何かが抵抗している。どうしても決心できない。私は気を取り直して引き金を引いた。彼は両腕を振り上げて、倒れた。死んだかどうかわからない。その後は震えがずっと激しくなった。恐怖心にとらわれた。私は人間を殺したんだ。この意識に慣れねばならなかった。そう、一言で言えば、、、たまらないって感じ。忘れられない。
 戦場は殺すことの罪悪感を希薄化する。やらなければ、こちらがやられるという恐怖心は殺人を正当化する。しかしこのトラウマは生き延びて戦場を離れたあと心を苛む。悲劇以外のなにものでもない。
 別の回想、戦闘は激しいものでした。白兵戦です、、、、。これは本当に恐ろしい、、、、。人間がやることではありません。殴りつけ、銃剣を腹や眼に突き刺し、喉元をつかみあって首をしめる。骨を折ったり、呻き声、悲鳴が渦巻いています。頭骸骨にひびが入るのが聞こえる、割れるのが、、、戦争の中でも悪夢の最たるもの、人間らしいことなんか何もない。戦争が恐ろしくないなんていう人がいたら絶対信じないわ。、、、
 政権与党の幹部はこれを読んで、戦争の恐ろしさを肝に銘じてほしい。女性が輝く社会も良いが、くれぐれも戦場で活躍することのないように。

ダンディー・トーク 徳大寺有恒 Ⅰ Ⅱ 草思社文庫

2016-07-15 09:32:51 | Weblog
 「間違いだらけのクルマ選び」で歯に衣着せぬ論評で夙に有名だった徳大寺有恒氏は2014年に他界されたが、これは氏の50歳ごろの文章を集めたものだ。氏は一貫してダンディズムを説くがその元になっているのがイギリスのジェントリーの儀礼である。その流儀がクルマにも反映されていて名車を生み出している。ジャガー、アストンマーチン、ベントリー、レインジーローバー等々、他の国のクルマにはない独特の主張があって、乗リ手に「男とは何か?」「ダンディズムとは何か」を問い直させるところがあると氏は言う。これをイギリス車の精神と呼んで、その貴族性を解説してゆく。最後はイギリス貴族の「ノブレス・オブリージュ」に収斂していくのだが、日本車の底の浅さが浮き彫りになるしかけだ。日本車のフロントグリルの野暮ったさは前から気になっていたが、それは文化の底の浅深に依るのだ。イタリア車の造形の深さには及ばないのもその一例である。
 日本の大型のワンボックスカーのあの凶暴なフロントグリルを見ると、運転している人間もそうではないかという気がして本当に厭になる。氏はかつてそのようなクルマをジャージー姿で運転する風潮が北関東あたりではよく見かけると苦言を呈しておられたが、氏の出身地でのそのような文化に嫌気がさしていたのだろう。氏自身は都内の成城大学の自動車部でボンボンの生活をしていたので、余計に故郷の風俗に我慢ができなかったのだろう。こういうパターンは田舎出の文化人には誰かれとなく付きまとうものだ。そうであればこそ、氏のジェントルマンに対する憧れは一層募って行ったものと思われる。その流れから、おしゃれの仕方、女性との付き合い方、いろいろ蘊蓄を傾けていて、面白く読ませてもらった。
 その中で食に関するもので同感したものがある。それはカウンター席だけのカレー屋とか焼き鳥屋が予約でないとだめとかいっているアホらしさや、寿司屋のカウンターに子連れで座るバカ、そして文化人のごとく能書きをタレる寿司屋の店主、これもアウトだと正論をのたまう。本当に溜飲が下がった。もっと長生きしてほしかった人である。

自民党と創価学会 佐高 信 集英社新書

2016-07-04 10:33:01 | Weblog
 普通なら「自民党と公明党」という並びになるのだが、「自民党と創価学会」となっているのは、公明党を牛耳っているのは創価学会で、中でも池田大作名誉会長の意志一つで公明党の人事が動くのでそうタイトルを付けたのであろう。政教分離とは言っているが、実際は学会の意向が公明党を通して政治に反映される仕組みになっている。本書の腰巻には、次のように書かれている。安部政権は自民党のタカ派と創価学会の連立だが、それは評論家の故・藤原弘達が前者の中にある「右翼フアシズム的要素」と後者の中にある「宗教的フアナティックな要素」の「奇妙な癒着関係」ができることを恐れ、「そうなったときには日本の議会政治、民主政治もアウトになる」と喝破したことの現実化である。そう予想した藤原と危機感を共有してこの本を書き下したとある。藤原弘達が予想したとあるのは、1969年に出版された『創価学会を斬る』(日新報道出版部)の中の記述で、学会はこの時この本の出版を妨害したことで有名になった。時の公明党委員長竹入義勝が自民党の田中角栄幹事長に出版差し止めの協力を働き掛けたと『赤旗』が報じた事件である。世間の批判を浴びた事件だったが、池田会長が謝罪、政教分離の観点から国立戒壇構想を撤回した。自民党はこれを野党分断の材料にして、公明党を自民党に近づけさせようとして徹底的に追求することをしなかった。これが今の連立政権の伏線になったと言える。この時の公明党委員長は竹入義勝、書記長は矢野絢也であった。二人とも一時代を画した政治家だったが、後に回顧録で学会批判をして凄まじい個人攻撃を受けることになる。まさに「宗教的フアナティック」な対応であった。宗教団体のむき出しの暴力性が発揮されたのである。
 著者は反権力の評論家で、歯にきぬ着せぬ発言が人気だが、本書でも絶好調である。先の『創価学会を斬る』をもとに学会と公明党の関係に週刊誌的なアプローチで迫っている。本来水と油の関係の自民党と公明党だが、政府与党の立場が欲しいために連立を組んでいるわけだが、先の「安保法案」採決では、特に公明党の説明が苦しいものになった。「恒久平和」を掲げる党の足場を揺るがすものだったが、山口代表は何とか切り抜けた。しかし、公明党の対応に対する批判も多いことは確かだ。『週刊ダイヤモンド』は6月25日号で「創価学会と共産党」の特集をしているが、その中で「ポスト池田の外憂内患(創価学会が抱える課題)」として、カリスマ不在、リーダーシップ欠如、人材の高齢化、官僚主義の横行、入会者減少、組織の硬直化を挙げ、このままでは内部崩壊すると書いている。宗教団体にカリスマが不在ではインパクトがなく会員の減少は止められないだろう。ゆゆしき問題である。
 権力にしがみつく公明党のありようについて『公明党』(薬師寺克行 中公新書)では次のように書いている。公明党の連立形態は宗教ジャーナリストの藤田庄市氏によると「内棲」という言葉で説明できるという。「内棲」は東洋大学名誉教授の西山茂氏(宗教社会学)の造語で、「ある宗教団体が特定の既成教団に所属し、その宗教伝統の核心部分、つまり本尊、教義、儀礼、組織といった宗教的権威を帯びた構成要素のすべてか重要部分を継承するが、他方、相対的に独立した組織であり、独自のアイデンティティーを有し、運動を展開する」ということを意味する。そのうえで藤田は公明党について、「創価学会・公明党が政権与党、いわば国家権力枠内にいればこそ、官僚組織とその権威・権力、立案能力などを用いることが可能となり、政策に自らの主張を反映できる。自民党の支持票までもバーター(物々交換)で獲得できる」「自覚的か無意識か、日蓮正宗の所属講だった時代の発想が再生したことになる。池田名誉会長健在時の、巧みな組織維持のための離れ業だった」(『世界』2015年2月号)と分析していると。これはつまり、公明党は自民党が作り上げた国家権力のなかに巧みに棲みこんでいるという指摘で、自民党の理念や政策を否定する気はなく、どこまでもくっついていくと薬師寺氏は言う。「内棲」のうまみを知った以上、自民党と決別することはない。しかしずっと足元を見られ続けるだろう。

毛沢東 遠藤誉 新潮新書

2016-07-03 09:25:39 | Weblog
 5月2日の朝日新聞の「地球24時」というコラムに、「中国共産党95周年 習氏『反腐敗を徹底』」という記事があった。中身は1日北京の人民大会堂で、習近平が重要講話を行ない、「党を厳しく治めなければ、我が党はいずれ執政資格を失い、歴史に淘汰されることを免れない」と述べ、今後も反腐敗の徹底など党運営を厳格化する考えを表明し、日本の侵略から中国を解放し、著しい経済発展を成し遂げたとして、共産党政権の正当性を主張したというものである。後半の共産党政権の正当性云々は今まであまり言及しなかったように思えるが、習近平が敢えて権力の正当性を強調する所以は、共産党が日本軍を撃退し、その後、蒋介石の国民党を打ち破って政権を獲得したという流れを改めて内外に確認するためと思われる。しかし、事実は、日本と戦ったのは国民党で、共産党は前面に出てくることはなかった。国共合作で日本軍と戦う流れになったが、長征という消極的な戦略で、国民党が日本軍との戦闘で疲弊することを視野に入れたものだった。最近、この共産党権力奪取のいきさつに関して、実態暴露の本が出てくるようになった。
 その極め付けが本書である。副題は「日本軍と共謀した男」である。即ち、毛沢東が日本軍と共謀して国民党を破ったということである。習近平はこのことをわかっているから、事あるごとに共産党の正当性をアピールするのだろう。1958年に毛が、中南海で元軍人訪問団に対して次のように言ったという、「日本の軍閥がわれわれ(中国に)進攻してしてきたことに感謝する。さもなかったらわれわれはまだ、北京に到達していませんよ。たしかに過去においてあなたたちと私たちは闘いましたが、ふたたび中国に来て中国を見てみようという、すべての旧軍人をわれわれは歓迎します。あなたたちはわれわれの先生です。われわれはあなたたちに感謝しなければなりません。まさにあなたたちがこの戦争を起こしたからこそ、中国人民を教育することができ、まるで砂のように散らばっていた中国人民を団結させることができたのです」と。これを証言しているのが、廖承志である。これが本当なら中国共産党の正当性が大いに揺らいでくるだろう。
 遠藤氏は資料選択については、第一次資料しか使わないと言明されており、氏の経歴とこれまでの著作を読むと信頼度は高い。
 また新聞記事前段の「反腐敗」に関しては、最近習近平の親族がパナマ文書で資産を海外に移転していることが報じられたが、共産党はノーコメントを決め込んでいる。習はライバルの薄熙来を汚職事件で失脚させ国家主席に上り詰めたが、その資質に疑問を投げかけているのが、『習近平の肖像(スターリン的独裁者の精神分析)』(崔虎敏 飛鳥新社)である。この本は薄熙来寄りの立場で書かれているが、なかなか面白い。毛沢東になりたがっているこの指導者は、その風貌と相俟って何か不気味なオーラを発散させている。