読書日記

いろいろな本のレビュー

天狗争乱 吉村昭 新潮文庫

2023-01-26 13:58:38 | Weblog
 本書は平成六年(1994)に朝日新聞社によって出版され、その年の「大佛次郎賞」を獲得した。その後、新潮文庫に入れられた。発刊から29年、以前読んだ記憶があるが、いま改めて読もうとしたのは、水戸藩の尊王攘夷の実態を「天狗党」を通して知りたいと思ったからである。そのきっかけは、最近読んだ『逆説の日本史27』(井沢元彦 小学館)で、井沢氏が水戸藩の「尊王攘夷」が朱子学に由来し、これが時代を混乱させたと書いておられたことだった。氏は夙に朱子学の弊害を『逆説の日本史』で説いており、このシリーズの特徴となっている。氏は日本史家の呉座勇一氏に素人が何を言ってるんだという感じで批判されることが多いが、歴史の読みものと割り切れば、結構楽しめる。

 まず尊王攘夷を調べると、「天皇を敬い、外国人を排斥するということで、開国してしまった弱腰な幕府への反感と外国の侵略の恐怖により沸騰した思想で、そのエネルギーは倒幕の原動力になった」とある。そして「天狗党の乱」とは、「天狗党(水戸藩の後継者争いで徳川斉昭を支持した一派)が尊王攘夷を訴えるにあたって起こした暴動のこと」という説明がある。時系列によって乱を具体的にまとめると次のようになる。安政の大獄から桜田門外の変を経て、水戸藩は門閥派(守旧派)に藩政の実権を握られていた。激派(尊王攘夷派)は農民ら千人余りを組織し、筑波山で挙兵。しかし幕府軍の追討を受け、行き場を失っていく。最後に彼らは敬慕する徳川慶喜(斉昭の息子)を頼って京都に上ることを決意。そして信濃、美濃と進むが、頼みの慶喜に見放され越前に至ったところで加賀藩に降伏した。幕府に寛大な処置を嘆願したが、352名が処刑されるという無残な結果となった。

 その一部始終を描いたのが本書で、挙兵した若者の血気盛んで無軌道なさまを田中愿蔵(22歳)に、方や反乱軍の首領となったが一貫して分別のある人物として武田公雲斎(63歳)に焦点を当てて上記の行程が進んでいく。イデオロギー実践とそれに苦しめられる民衆の実相が各地で行われる略奪暴行の描写で示される。隊長田中愿蔵をここまで無軌道にする、尊王攘夷思想とはという著者の問いかけが感じられる。また立場上彼ら尊攘派に就かざるを得なかった武田公雲斎の苦悩も理解できる。いずれにしても反乱が成功するには多くの困難が伴う。政治の世界の闇を垣間見る思いだ。田中も武田も刑死したが、彼らが頼みにした徳川慶喜の裏切りがクローズアップされるが、腰の引けた自己保身に走る男のザマが淡々とした筆致で描かれるのが秀逸。

 吉村氏の歴史小説は、広く資料にあたって登場人物の表情がわかるほど精緻な描写をすることで多くの読者を得てきたと思う。宿場町で天狗党に金品を略奪される人々の苦悩と、略奪を意に介せず無慈悲に暴れる兵士。反乱(革命)の正義は人民を塗炭の苦しみに追い込む。これは時代を超えたテーマである。そして権力を持つものが己の利益で行動して他者を裏切り苦しめる。慶喜のような人物はどこにでも現れる。今世界で起きている問題の祖型はこの「天狗党の乱」にあると言えるだろう。降伏した天狗党を残酷に処刑した江戸幕府のやり方は、まさに政権末期の組織の悪弊がでたものだ。消滅する権力の姿がそこにある。

村八分 礫川全次 河出書房新社

2023-01-16 14:04:52 | Weblog
 「村八分」とは広辞苑によると、「江戸時代以降、村民に規約違反などがあった時、全村が申し合わせにより、その家との交際や取引などを断つ私的制裁」という定義を示している。「八分」は「ハツム」(撥撫=嫌ってのけ者にすること、仲間から外すこと)の転という説もある。これはムラ(村落共同体)が行う制裁の代表として、よく知られている。本書に引用されている竹内利美氏は「村の制裁」を九つの形態に分類した。重い順に並べると、①追放、②絶交、③財物没収ー過料、④禁足及謹慎、⑤体罰と暴行、⑥見懲しと賦役賦課、⑦諷示的制裁、⑧陳謝、⑨面罵と陰口となる。これらはいわば近世村法の一態様で、「村八分」は、「追放」に次ぐ重い制裁である。公儀の立場からは否定されるべきまさに「私的制裁」であった。しかし著者によると、この私的制裁は係争として表面化しない限り、名主は村が発動する「村八分」などの制裁を「黙許」していた。公儀もまた名主が「黙許」していることを「黙許」していたとして、広辞苑の定義の「私的制裁」の部分は「公権力から黙許された私的制裁」というべきと述べている。

 これらの私的制裁が旧習になじんだ時代ならともかく、明治を過ぎ、大正・昭和・平成を過ぎた、令和の時代においてもなくならないのはどうしてかという問いかけがなされる。そして江戸時代から現代に至るまでの「村八分」の具体例が示され、その後、これが「封建遺制」といったものではなく、近代の共同体の崩壊過程においてのみ生じるものであるという中村吉治氏の見解を紹介して賛同の意を表明している。その要点は、「緊密な不可分の一体としての共同体(例えば江戸時代の農村)では、成員をみだりに増したり減らしたりはできぬ。基本的には独立してきた農民(近代以降)が、感情や行事や祭りの面で村意識をもっているようなときに、祭りの仲間から除外するというごとき村八分が可能となる。農業をやめさせたり、学校へ行かせなかったりはできない。ところが行事・慣習の面で感覚的な強さがあるから、村八分は苦痛を与えるのである」ということである。少しわかりにくいが、かつての生産共同体が疑似共同体に代わっていく中で、近代的な個人意識が成員のなかに生まれるが、それでも公共的な場での共同体的規則は残存するわけで、そのようなときに村八分をやられるとダメージが大きいということだ思う。かつては共同体の中で自分の意思を通すことは難しかったが、今はその縛りが緩んで自我を通しやすくなった。しかし行き過ぎると仲間外れにされるわけで、これが逆にこたえるということだ。

 村八分を含む「村の制裁」(村法)は現代社会においても生きている感じがする。例えば学校における規則、「校則」がそれだ。学校内では暴力禁止。破れば無期停学か退学。髪染め禁止etc.。原付バイクの免許取得禁止(国は免許取得を認めている)。学校をムラと考えると、社会のありようがよくわかる。今の学校はかつての農村以上に同調圧力が強いのではないか。全体の調和を強く求められる。例えば始業式の頭髪検査。これは主にパーマ・毛染めのチェックだ。これをやるのが担任と生徒指導部。外見を整える努力をしている中で、残念ながら、村八分ともいうべき「いじめ」が起こる。これは私的制裁ゆえに、係争が表面化しなければ黙許される。表面化しても一般の法律で生徒が裁かれることはない。これをもってしても、開かれた学校というのは絵空事に過ぎないことがわかる。以上「村八分」は極めて現代的なものである。


 

戦国武将、虚像と実像 呉座勇一 角川新書

2023-01-05 14:43:19 | Weblog
 呉座氏はベストセラー『応仁の乱』(中公新書)の著者で、日本中世史の研究者である。2022年度のNHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の時代考証を務めていたが、SNSの炎上問題をきっかけにして退任した。その余波で勤務先の「国際日本文化研究センター」の助教も解任された。発端はフエミニストとして批評活動していた女性との論争で、相手を誹謗中傷したことが挙げられている。現在は信州大学特任助教のようである。呉座氏の本は『応仁の乱』を始め何冊か読んだが、資料の扱い方がうまく読みやすいのが特徴だ。周辺の資料も広汎に当たっており、勉強家だなあというのが第一印象。資料に対するリゴリズムは相当のもので、『逆説の日本史』(小学館)の井沢元彦氏や『日本国紀(幻冬舎)の百田直樹氏などは、素人の論法などと手厳しく批判されている。SNSの炎上問題も呉座氏のそのような、いわば職人気質が表れたのかもしれない。まあ学者に多く見られるタイプではある。

 本書は戦国の武将、明智光秀、斎藤道三、織田信長、豊臣秀吉、石田三成、真田信繁(幸村)、徳川家康の世評について検討したもので、なかなか面白い。個人的には徳川家康の忍耐の人というイメージを定着させた「信康事件」の真相を解説した部分が良かったと思う。事件は織田信長の命令によって、家康が嫡男信康と信康の母(家康の妻)築山殿を殺したというものである。具体的には信康の正室徳姫(織田信長の娘)が信長に、信康が鷹狩の場で僧侶を縛り殺す、築山殿が武田氏と内通しているなどの不行状を訴えた。信長は酒井忠次・大久保忠世に尋ねて信康の不行状を事実と確認、信康は家康の後継ぎとしては不適任と怒り、家康は「信康を自害させます」と述べ、信長は「処分」は任せる」と返答した。信長から殺害指示が出て、家康が泣く泣く切腹させたというのはどうも後世の作り話のようだ。前から信康の行状に頭を痛め、築山殿と一緒に親武田路線を唱えていたので、この際二人を亡き者にしようと考えていたのが実際のところだったようだ。それに、家康と築山殿は前から別居しており、夫婦としての関係はほぼ破綻していたらしい。

 江戸時代、神君家康がわが子を殺したという不都合な真実を糊塗するために、信長から信康殺害を強要されたという物語が作られ、時代を経るにつれ悲劇性が強調されていったと著者は言う。ここら辺が狸おやじと評される所以なのかも知れない。最近『家康の正妻築山殿』(黒田基樹・平凡社新書)という本が出たが、これも呉座氏の見解とほぼ同じであった。さらに築山殿の人生を詳しくたどっていて、長年の別居状態に伴う家康との信頼関係の希薄化から、嫡男・信康に対する思いを強くしていくプロセスが語られる。今年のNHKの大河ドラマは「どうする家康」で、築山殿を有村架純が演じるらしい。この黒田氏の本を読んでおくと、ドラマへの興味も沸くだろう。悪女として描くか、善女として描くか。それとも善悪入り混じった女性として描くか。ここが見どころになるだろう。