ヒトラー関係の本は多いが、本書はヒトラーの25年間の演説150万語をデーターベース化して、時系列の中でどのような語を多く使っているかを分析したもので、非常に興味深いものだ。ヒトラーは若いころから弁舌の才能を認められていたが、権力を握ってからはその大げさな身振り手振り、そしてその大きな声で聴衆を熱狂させた事だけが大きく取り上げられているが、本書は演説の内容も分析してその修辞技巧の卓越していることを証明している。
本書は25年間を、第一章 「ビアホールに響く演説」(1919~1924)第二章「待機する演説」(1925~1928) 第三章「集票する演説」(1928~1932) 第四章「国民を管理する演説」(1933
~1934)第五章「外交する演説」(1935~1939) 第六章「聴衆を失った演説」(1939~1945)の六つに分けてその時期に使用された語彙の傾向を科学的に分析しているのだが、ヒトラーの伝記としても大変よくまとまっており、時代の流れが理解しやすい。
例えば、第五章「外交する演説」の項では、この時期の演説の重要な概念は「民族、国民」「連帯」「力」「世界」「平和」「抵抗」「未来」で、レトリックでは「対比法」と「平行法」であるという。そして著者は次のように述べる、「最終的な強さというものはそもそも師団や連隊、大砲や戦車の数にあるのではなく、政権にとっての最大の強さは国民自体のなかに、一致団結した国民、内面で連帯した国民、理想を確信した国民のなかにある」。この「AではなくてB」という表現形式の対比法によって、Bのほうに焦点を当てて際立たせている。白黒を明確にする対比法の二項対立の図式は、さまざまにあるはずの可能性を二つだけに局限し、その二つの緊張関係の中で一義的な選択を強制する。その後で「~した国民」という相似的な名詞句が、「国民自体のなかに」あることを解説する目的で平行的に三回用いられている。(以下略)ヒトラーは「バカな聴衆には中身を単純化同じことを繰り返していうことが肝腎だ」といつも側近に言っていたらしい。それを上記のように実践していたのだ。
私はこの部分を読んで、どこかの国の市長が同じような流儀で演説しているのを思い出した。彼の演説に既視感があったのは、なるほどこういうことだったのかと納得した。もちろん彼がヒトラーをここまで研究していたのならそれはそれで大したものだと感心するが。でも戦況の悪化とともにヒトラーの演説(ラジオ放送)はどんどん空疎になっていき、聴衆からも批判が起こってくる。著者の言葉で言えば、国民を鼓舞できないヒトラー演説、国民が意義を挟むヒトラー演説、そしてヒトラー自身がやる気をなくしたヒトラー演説。これが政権末期の真実なのだ。これでもなおヒトラーをカリスマと思うのはナチのプロパガンダに80年たった今も惑わされているのだということになる。これを肝に銘じて政治家の演説には踊らされないようにしなければ。
本書は25年間を、第一章 「ビアホールに響く演説」(1919~1924)第二章「待機する演説」(1925~1928) 第三章「集票する演説」(1928~1932) 第四章「国民を管理する演説」(1933
~1934)第五章「外交する演説」(1935~1939) 第六章「聴衆を失った演説」(1939~1945)の六つに分けてその時期に使用された語彙の傾向を科学的に分析しているのだが、ヒトラーの伝記としても大変よくまとまっており、時代の流れが理解しやすい。
例えば、第五章「外交する演説」の項では、この時期の演説の重要な概念は「民族、国民」「連帯」「力」「世界」「平和」「抵抗」「未来」で、レトリックでは「対比法」と「平行法」であるという。そして著者は次のように述べる、「最終的な強さというものはそもそも師団や連隊、大砲や戦車の数にあるのではなく、政権にとっての最大の強さは国民自体のなかに、一致団結した国民、内面で連帯した国民、理想を確信した国民のなかにある」。この「AではなくてB」という表現形式の対比法によって、Bのほうに焦点を当てて際立たせている。白黒を明確にする対比法の二項対立の図式は、さまざまにあるはずの可能性を二つだけに局限し、その二つの緊張関係の中で一義的な選択を強制する。その後で「~した国民」という相似的な名詞句が、「国民自体のなかに」あることを解説する目的で平行的に三回用いられている。(以下略)ヒトラーは「バカな聴衆には中身を単純化同じことを繰り返していうことが肝腎だ」といつも側近に言っていたらしい。それを上記のように実践していたのだ。
私はこの部分を読んで、どこかの国の市長が同じような流儀で演説しているのを思い出した。彼の演説に既視感があったのは、なるほどこういうことだったのかと納得した。もちろん彼がヒトラーをここまで研究していたのならそれはそれで大したものだと感心するが。でも戦況の悪化とともにヒトラーの演説(ラジオ放送)はどんどん空疎になっていき、聴衆からも批判が起こってくる。著者の言葉で言えば、国民を鼓舞できないヒトラー演説、国民が意義を挟むヒトラー演説、そしてヒトラー自身がやる気をなくしたヒトラー演説。これが政権末期の真実なのだ。これでもなおヒトラーをカリスマと思うのはナチのプロパガンダに80年たった今も惑わされているのだということになる。これを肝に銘じて政治家の演説には踊らされないようにしなければ。