読書日記

いろいろな本のレビュー

中国乙類図像漫遊記 武田雅哉 大修館書店

2010-02-28 14:45:58 | Weblog

中国乙類図像漫遊記 武田雅哉 大修館書店



 武田氏は北大教授で中国文学が専門だが、文学というよりも民俗学的なアプローチで雑学的なものを得意としている。中野美代子氏の弟子で、中野氏退官後は北大中文の顔と言える。「乙類図像」とは「B級の挿絵・ポスター」の意味で、文革前後の中国の雑誌等に掲載された挿絵や街のポスターを広く渉猟してコメントしたものである。
 何と言っても中心は毛沢東であり、彼以外のものはありえないという状況が看取できる。それほど彼の神格化が進んでいたということだが、大躍進時代、反ソ時代、文革時代と共産党政権樹立以降の政治的諸問題が挿絵によって読み取れる。この時代は今の北朝鮮の雰囲気とよく似ており、毛沢東は金日成・金正日父子に擬せられるだろう。描かれる像も他と比べてやたらと大きい。独裁者なのである。中でも毛主席から下賜された「マンゴー」を喜ぶ人民の姿を描いた図は正直笑える。ガラスの容器に入った一個のマンゴーを農民達が取り囲んで笑顔を振りまいているのだ。決して食してはならないマンゴー。まさに禁断の木の実である。まさに神からの贈り物だ。このような図が中国各地に発信され、毛の神格化がどんどん進むのだ。
 また反ソ時代の物資欠乏期に描かれた電線を各地に張り巡らせて、電化を普及させるキャンペーンでは、金属不足で電線が足りないのを人海戦術で乗り切ったという図もすさまじい。山間部の送電線が途切れたところに多くの人間が手をつなぎ、端の人間が電線を持って電線の代わりをして送電したというものだ。そんなことしたら感電死するじゃないか。でも毛主席の慈愛で守られた者は高圧電流も何者かはというのだろう。北朝鮮も真っ青の図で、まさにB級図像だ。でも1950~1960年代の人間はある種素朴だったのだろう。それを支えていたのが毛と同じ農民だ。農民こそは国家の礎だったのに、最近の改革開放政策ですっかり割を食ってしまった。
 文革時代毛沢東は都市住民(学生が中心)を農村へ下放して、農民に学べと言ったが、これは農民出身である毛の都市生活者、とりわけインテリに対するルサンチマンの表出ではないかと思う。今の中国の農民受難打破の切り札が無いのは、共産党政治局員に農民出身者が皆無で農民の苦しさを体感出来ないからではなかろうか。

文革 董国強 築地書館

2010-02-19 22:02:26 | Weblog

文革 董国強 築地書館



 副題は、「南京大学14人の証言」だ。文化大革命については類書が多いが、インタビューで構成されたものは初めてではないか。当時の南京大学の教授・学生達がどのように文革に巻き込まれて、どう行動したか、その当時の大学を取り巻く状況はどうだったか等々、リアルに語られている。文革は毛沢東のライバルに対する権力闘争であったことが明確にされ、毛の犯罪行為であったことが共産党によって総括されている。知識人にとっては悪夢の時代で、反右派闘争のもと多くの無実の人間が死に追いやられた。それを担ったのが紅衛兵と言われる少年・少女達だ。彼らは毛沢東を神と仰ぎ、造反有理のスローガンによって旧秩序を叩き壊したわけだ。文学・芸術など文化の総体が危機に瀕したことは、中国にとって大きなトラウマを残すことになった。このときの権力に対する身の処し方が、その後の中国人の行動に大きな影を残しており、まさに空前絶後の騒乱であったことは間違いない。内なる敵にどう立ち向かうか、いや、敵を新たに作り出すメカニズムこそは共産主義の最大の欠点といえるだろう。密告・自己批判・修正主義批判等々、吹き荒れる政治闘争に中国人民は絶望したのだ。
 インタビューを受けた現南京大学教授は次のように言っている、「振り返ってみれば、文革の発生は、我が民族の欠点との関係が深いと思います。ある監督が言ったことですが、わが民族の悲劇は、社会的に人為的な災難が到来した際、それに抵抗する人が大変少ないということです。また人為的な災難が去ってからも、それに責任を取る人が大変少ない。ひどい場合は、一人も出てこないという事です。私は彼の意見は大変深刻なものだと思いますし、事実そうではないでしょうか。毛沢東が文革を開始した時、誰も反対意見を出すことが出来ませんでした。劉少奇・小平ですら異議を唱えず、誰もが文革を支持したのです。文革が発生すると、あらゆる人間がこれに巻き込まれ、誰も無関係ではいられませんでした。しかし、政治運動の終結後、懺悔した人はいたでしょうか?みな被害者面していないでしょうか?これは我が民族の最も悪い点であると思います。そして本来は社会の良心・良知・正義を代表するはずの知識人たちも同様であったことは悲しむべきことです。そのため、現代中国には気丈や気概にあふれ、他人の評価を気にしない人が大変少ないのです。その代わり、風見鶏や優柔不断、権威にへつらう、空気しか読まない人間ばかりが溢れているのです。人々は自分の身が第一で、人類が持つべき社会正義や責任感は全く欠けています。このような民族の問題点は、私達の伝統文化ー儒教と道教ーに関係があるように思われます。特にキリスト教的な悔恨・反省の意識が欠けてしまっていることは重大な問題です。云々」中国の知識人にもこのような反省をしている人がいるということを知っただけでもこの本を読んだ甲斐があったというものである。
 かつて魯迅は中国人民の不甲斐なさに絶望して、医学の道を断念して作家の道を歩んだが、今の中国には第二・第三の魯迅が必要だ。モラルなき拝金主義は畢竟自分達に跳ね返ってくることは必定だ。文革の中国人民に対する関係は、日本人の戦前の軍国主義に対する関係と同じという気がする。反省を風化させてはならない。

白楽天 川合康三 岩波新書

2010-02-13 17:34:48 | Weblog
 中唐の詩人白楽天(白居易)の詩と人生を簡潔にまとめた好著。中国文学の薀蓄が随所に披瀝されて参考になる。まず代表作「長恨歌」で玄宗皇帝を「漢皇」と漢の武帝として叙述していることについて、皇帝の情事を語る内容ゆえに唐の皇帝に対してはばかりがあったという解釈があることについて以下のように却下する。曰く、同時代の陳鴻の「長恨歌伝」では冒頭から「玄宗」の名が直接記載されているのではばかったことにはならない。唐代の詩で唐王朝を漢王朝に置き換えてうたうことはごく普通に見られる。それは詩歌が現実の直叙ではなく、そこから距離をおいたもうひとつの世界を歌おうとするからであろう。そもそも玄宗と楊貴妃の関係そのものが、漢の武帝と李夫人の関係に重ねられて語られているのだと。正しい解釈と思う。よく類書に「仮名手本忠臣蔵」が江戸幕府をはばかって、室町時代の設定にしているのと同様の議論をしているものがあるが、誤りだということがわかる。
また友人の元稹との関係も重要で、二人は宋初までは文壇の雄と見なされていた。例えば『旧唐書』の「元稹・白居易伝」では二人の文学のスタイルを沈約・謝眺の後を継ぐ新しい、傑出したものと評価している。『旧唐書』は開運二年(945)に完成したが、後晋の複数の史官が資料をつぎはぎして作ったもので、「元稹・白居易伝」が誰の書いたものかは不明。少なくとも個性ある表現者が書いたものではない。これに対してこれより100年余り後に作られた『新唐書』は欧陽修が編纂に関わっており、『新唐書』の駢文に対して、古文で書かれている。駢文とは四字の対句、六字の対句を敷き並べ、典故を多用する文体で、古文は駢文と対照的な自由な散文を指す。唐宋八大家の欧陽修は古文復興の旗手であった関係上、唐代の古文復興の立役者である韓愈を元稹・白居易に代って最大級の評価を加えている。元・白の文学を通俗と見る流れはここから始まっている。中国歴代の正史による前代の評価は政治文学を含めてこれまた政治的判断によって裁断されてしまう。中国研究の場合とくにこれが問題になる。
 明代に「文は秦漢・詩は盛唐」をスローガンとする古文辞派が台頭して100年ほど勢力を維持したが、特に後半の李攀龍・王世貞らの擬古主義は極端で、先秦・両漢以外の書は読まない、詩では盛唐以後、文では前漢以後の言葉は一切用いないと揚言する。この排他的かつ主情的なお手本が、学問の浅い詩文の初学者に最短コースを提示して、知的中間層を量的に獲得することが出来たのである。その李攀龍は57歳で世を去ったが彼の名がまだ人々の記憶から消えない明末の頃に、李攀龍編と銘打った『唐詩選』が世に現われた。実はこれは彼の名をかたった真っ赤なニセモノなのだが、作者の盛名を負って大いに売れた。日本でもこの『唐詩選』は流行したが、これは古文辞派に影響を受けた江戸の儒者・荻生徂徠とその一派がもてはやしたことに由来する。その『唐詩選』を見ると彼らの主張通り盛唐の詩人に偏って中唐・晩唐の詩人はほとんど載せられていない。具体的には、韓愈が一首、白居易はゼロ、李商隠が三首、杜牧ゼロ、李賀ゼロという内容だ。アンソロジーは各時代の名作を網羅しているという前提でものを考えると失敗するという例が『唐詩選』なのだ。文学の党派性は中国文学に偏在する特性である。本書は中国文学のエッセンスを白楽天の中に見出して紹介してくれている。どうか一読されたい。

 

鳥羽伏見の戦い 野口武彦 中公新書

2010-02-06 10:49:25 | Weblog
 慶応四年(1868)1月3日から6日にかけての4日間の戦いで徳川幕府は崩壊への道を転げ落ちる。『戊辰戦争』については歴史書で言及されることが多いが、「鳥羽伏見の戦い」については軽視される現状を憂いて書いたのが本書である。例によって広汎な資料を渉猟し、幕府軍が薩摩・長州藩を中心とする官軍に敗れる様子を克明に描いている。特に著者が力を入れているのは、幕府軍が負けたのは銃砲の性能が悪かったからだという俗説を正す第二章だ。
 幕府軍の一部には「フランス伝習兵」と呼ばれる最新装備の部隊があった。彼らが使用した鉄砲が。フランス製のシャスポー銃で元込め式の最新兵器だった。著者はこの銃が鳥羽伏見の戦いで使用されたことを証明している、伏見奉行所に立てこもって奮戦した伝習兵の記録から推察したものだが、証明せずんばあらずの気迫がこもっていて読みごたえがある。幕府軍・官軍の歩兵による激戦で400余りの戦死者が出た。幕府軍が兵の人数で圧倒していたにもかかわらず負けたのは指揮官の弱腰が原因だ。そもそも総司令官の徳川慶喜が逃げ腰で、前代未聞の大阪城からの逃亡をやってのけたのだからあいた口がふさがらない。著者はこの弱腰の将軍を大いに皮肉っている。曰く、慶喜には肉体的勇気が欠けていたと。そんな弱腰の司令官に戦争させられる兵士はたまったもんじゃないという憤懣を兵士に成り代わって述べている。まさに鎮魂の書だ。
 鳥羽伏見の戦いに敗れた慶応四年(1868)に慶喜は32歳。明治の時代をまるまる生き抜き、大正二年(1913)に77歳で世を去った。戦場で虫けらのごとく死んで行った兵士との落差はまさに理不尽の一語である。彼はこの戦いを反省したのかと著者が問いかけている。閑居の中で最も充実させるべき時代を若い妾たちと過ごす中で、何度もあの時ああしていれば、こうしていればということはあったであろう。しかし、生来の弱気が最後まで祟った。無能な指揮官を頂いたときほど、兵士にとって不幸なことは無い。これは組織全般に共通する問題である。