読書日記

いろいろな本のレビュー

日本神判史 清水克行 中公新書

2010-07-31 14:51:47 | Weblog
 扱われているのは、釜に煮えたぎる湯の中に手を入れ、火傷の状態で判決が下される「湯起請」と赤く熱した鉄片を握る「鉄火起請」の二つ。前者は室町時代に後者は江戸初期に行われた。古代には明神探湯(くかたち)があり、いずれもこの流れを汲むものである。神仏に罪の有無や正邪を問う裁判(神判)は前近代の世界各地で広く見られるものだ。日本ではこの神判は犯人探し型と紛争解決型があり、鉄火起請の場合では八割が紛争解決型の事例であることを著者は調べている。特に村落間の山野の用益権をめぐる紛争に多く適用されているのが顕著な例で、その実施率は極めて高い。湯起請も裁判が不利になるとこれに持つ込まれることが多かったらしい。
 では熱湯に手を入れたり、焼けた鉄片を握り、火傷の有無で判決が下される過酷な裁判を、なぜ人びとは支持したのか。その理由として、政治権力の未成熟とそこから起こる「衆議」と「専制」の対立、土地や領地が口約束から文字による成文化への変化すなわち「文書主義」と「音声主義」の対立があり、為政者、被疑者、共同体各々の思惑で神慮に名を借りた合理的精神が見え隠れするとの指摘は誠に面白い。神慮の名のもとに上手な痛み分けをするのである。決定的な対立を忌避する知恵がある。これは喧嘩両成敗の思想とつながると著者は言う。
 あとがきで、著者はすしの鉄火巻は鉄火起請から来ていると言っている。海苔で巻かれた赤いマグロは焼けた鉄片そのものだと。また博打場を鉄火場と言うのも同様だと言っている。博打も神判も人為を超越しているという意味で言われてみれば共通性がありそうだ。
 弱体な政治権力は湯起請や鉄火起請を伝播させたというから、昨今の民主党政権も民意を聞くことなどやめて神判で普天間基地問題を解決したらどうか。
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写真で見る ヒトラー政権下の人びとと日常 マシュー・セリグマン等 原書房

2010-07-24 13:40:24 | Weblog
 ナチス政権獲得から崩壊まで、豊富な写真と解説で構成したもので、人びとの表情がリアルに捉えられている。もちろんナチスの弾圧に遭ったユダヤ人、スラブ人(ロシア人)、ジプシーのものも多く収められている。ナチスのアーリア人優生主義は劣等民族とレッテルを貼った前者に対するジェノサイドへと発展する。権力機構を支えるべくスポーツ振興を唱え、若者をヒトラ-ユルゲントとして囲い込んだ。ドイツの優秀性を世界にアピールしようとしたのがベルリン・オリンピックである。しかし全種目を金メダルでかざることはもちろん不可能で、200メートルではアメリカの黒人選手のジェシー・オーエンスに優勝されてしまった。ヒトラーはこの黒人メダリストと面会することを拒んだ。黒人選手らの活躍はあったが、ドイツが最多の金メダルを獲得したため、ナチスはオリンピックの結果に満足した。水泳競技決勝を観戦するヒトラーが写っているが、暑苦しい帽子に軍服、そして映画「独裁者」で見事にチャップリンにまねされたあのちょび髭、どれもこれも、今にして思えば滑稽だが、これが当時スターリンと並ぶ独裁者として神のごとくふるまったのだ。権力が卑小な人間に宿る時、悲劇は起こる。卑小な人間と絶大なる権力。残念ながらこの二者には親和性があるのだ。民主主義は本来これを防ぐシステムであるはずだが、結果としては一人の人間に権力を握らせてしまうというディレンマがある。衆愚政治は全体主義と同じ結果をもたらす。何とかならないか。本書に収められた写真は人間の犯した愚行の証拠として永劫に保存されるべきものと考える。
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台湾ナショナリズム 丸川哲史 講談社選書メチエ

2010-07-24 10:44:24 | Weblog
 台湾ナショナリズムという言葉は現時点で斟酌すると大陸からの独立ということになるが、共産党政権は飽くまで中国の領土という認識であるから独立は中華民国政府と共産党政府の内戦の再発を意味する。そのような文脈で見た場合、副題にある通り台湾は「東アジア近代のアポリア」ということになる。本書の特徴は台湾問題を共産党政権、アメリカ、日本との関係、冷戦期とポスト冷戦期という広い空間と長い時間という複眼的視野で捉え直しているところで、類書にはない新しい指摘がある。
 私が興味を覚えたのは、2.28事件の評価である。著者曰く、3月中旬までの間の死者の数は、行政院の1992年2月22日付け「2.28事件報告書」によると、ほぼ1万8000人から2万8000人と記されていた。しかしこの数字は、2,28事件前後の戸口調査による人口減をそのまま死傷者として扱っていたことが明らかになった。虐殺と戸口調査による人口減とは論理的には別のものであるが、当時の国民党政権に責任があることに何ら変わりはない。しかしこの死者の数はその後独り歩きを始め、日本の出版物でも多く繰り返されている。いずれにせよ、90年代の台湾ナショナリズムが大陸中国に対して持つマイナスの歴史認識が反映されたもの、と言わねばならないだろうと。
 また曰く、国民党政権による2,28事件の公的説明は、台湾共産党分子などによる島内擾乱策動に一般人が乗ってしまった、というものであったがどの歴史資料を当たっても共産党が主導したとは言えず、当時の冷戦体制下における反共イデオロギーの枠組みの中で、2,28事件観が操作されていたことが見てとれると。こう見てくるとこの事件の歴史認識は簡単に説明できるものではないことがわかる。
 この事件のあと、大陸の共産主義の浸透を警戒した白色テロ(国民党による赤狩り)時代がやって来て、台湾人は政治的自由を奪われ辛艱するという類書に多い記述も先ほどの共産党の策動の文脈に乗ったものであり正確ではない。実は対岸の大陸中国共産党成立1周年を「記念」して、アメリカが台湾(国民党政権)の後ろ盾となる契機を孕みながら、両岸において対峙する内戦の延長形態として現前するものとなったという指摘も目から鱗である。そうするとホウシャオシエン監督の「非情城市」も距離を置いて見なければならないかも知れない。
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これからの「正義」の話をしよう マイケル・サンデル 早川書房

2010-07-17 16:24:23 | Weblog
 本書はNHK教育テレビで放映された「ハーバード白熱教室」の原稿をまとめたもの。この講義はハーバード大学史上空前の履修者数を記録し続ける名講義だと腰巻にある。講座名は「JUSTICE(正義)」だ。つまり「正しい行ない」とは何かということを哲学的に解明していくものだ。確かにテレビで見ると学生に問いかけその意見をまとめて行く手腕は並みではない。取り上げる内容も具体的で、一人を殺せば五人が助かる状況があったとしたら、あなたはその一人を殺すべきか?金持ちに高い税金を課し、貧しい人びとに再分配するのは公正なことだろうか?前の世代が犯した過ちについて、私たちに償いの義務があるのだろうか?など現代的に重要なテーマが並ぶ。これらをアリストテレス、ロック、カント、ベンサム、ミル、ロールズ、ノージックたちの考えを吟味することで、解決の糸口を探ろうとするものである。難解な哲学的課題というものをわかりやすい例から説き起こす手際は誠に素晴らしい。私自身は三番目のテーマに一番関心があったが、サンデル氏は次のように述べている。
「誇りと恥の倫理と、集団の責任の倫理との密接な関係からすると、政治的保守派が個人主義を論拠として集団謝罪を拒否するのは理解しがたい。我われが個人として、自らの選択と行動にしか責任がないと言い張れば、自国の歴史と伝統に誇りを持ちにくくなる。独立宣言、合衆国憲法、リンカーンのゲティスバーグ演説、アーリントン国立墓地に祀られている戦没者の英霊などは、どこの誰でも称賛しうる。だが、愛国心からの誇りを持つためには、時代を超えたコミュニティへの帰属が必要だ。帰属には責任が伴う。もしも、自国の物語を現在まで引き継ぎ、それに伴う道徳的重荷を取り除く責任を認める気がないならば、国とその過去に本当に誇りを持つことはできない」と。
 氏の見解は誠に明快で、日本でもよく話題になる、祖父の代が犯した戦争責任を孫の代が償う必要がないというような保守派の言説に一撃を加えるものとして大いに評価したい。昔、奈良県選出の自民党の某女性議員がテレビで、「私には先の大戦の責任を負う義務も責任もありません。だって戦争を起こしたのは先の代の人なんですもの。そんなもの知らないわ」と笑いながら喋っていたのを思い出す。このような手合いがのさばった自民党が凋落したのは当然の成り行きと思う。人間、道徳的責任を果たせないようでは国も成り立たないのである。自由至上主義(リバタリアニズム)が吹き荒れて荒廃した共同体(国家)を回復する方策は共和主義(共同体的自己決定主義)であるというサンデル氏の立場が明確に表明された部分と言えるだろう。
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焚書坑儒のすすめ 西部邁 ミネルヴァ書房

2010-07-10 10:58:52 | Weblog
 焚書坑儒とは無責任なエコノミストの言説を葬り去って,あるべき成熟した国民の経済活動とは何かを問うことであるらしい。主に自由至上主義(リバタリアン)がもたらした災禍を批判する。副題は「エコノミストの恣意を思惟して」だ。彼らの現状分析のいい加減さ、無責任さに著者は我慢ならないのだ。腰巻には「ミネルヴァのふくろうよ、知識と実践のへだたりを超えて、白昼に飛び立て」とある。ミネルヴァはこの本の出版元の名前だが、本来ローマ神話の女神の名前で、聖鳥はふくろう。このふくろうは古代ギリシャではアテネ神と同一の観念的存在とされていた。それは「知恵の神」であると同時に、「戦術の神」という意味を含んだ存在であり、それがギリシャのアテネ神とローマのミネルヴァ神との共通する特徴だと言われている。著者曰く、普通でしたら、戦争こそは人間の実践の究極の場面であって、知識と戦争は別次元のものと考えられます。そうであればこそ、「ミネルヴァのふくろうは夜に飛び立つ」とヘーゲルは言った。ミネルヴァのふくろうという知恵の神は、「状況とは何だろう」と考えている。その考えは、状況から一歩も二歩も遅れてしか組み立てられない。夜になってからやっと、状況は何であったか解釈し、結論づけるのですね。「夜に飛び立つ」、それが「知識と実践の時間的なへだたり」なのだ、とヘーゲルは考えたのです。云々とわかりやすく説明した後で、陽明学的にいえば「知行合一」、知識と行為の合一のところに知恵というものが発生すると説く。今の状況をどう見据えるかを考えるにあたって「時と所と場合」を押さえる必要がある。それはまさに「夜に飛び立つ」ミネルヴァのふくろうにとどまっておれないと言う。今の経済状況を学者・哲学者の立場で分析し、同時にその処方を明らかにするという意思表明だ。
 マルクス以降の経済学者の言説を引きながら、経済学の歴史を社会状況と照らし併せてわかりやすく述べる。特に批判の対象となっているのは、小泉元首相の行った構造改革の戦略の中で取られたアメリカ流自由主義の無批判な導入だ。経済は市場に任せるというリバタリアン的政策は多くの経済格差を生む結果となった。そのお先棒を担いだエコノミストに対する批判の部分は痛快無比だ。北海道生まれの訥弁の経済学者はペンを持つと能弁に変身する。その落差の大きさも魅力の一つだ。それで今の経済活動で何が問題になってくるかと言えば、公正・正義の問題だ。富を一部のものが独占するのは正義に反するかどうかという議論は、最近ハーバード大学教授のマイケル・サンデル氏の本で話題になっているが、本書でもそのことが話題になっている。良識派の学者の問題意識は共通部分が多いとわかって感動した。「自由・平等・博愛・合理」という市場論から「活力・公正・節度・良識」の枠組みへとシフトさせることが肝要ということを、政治・哲学・歴史の教養をもとにわかりやすく説いているのが、本書の魅力だ。西部氏は最近、佐高信氏との対談でも、(『思想放談』朝日新聞出版)意気軒昂なところを見せており、うまく行けば吉本隆明のような存在になれるかも知れない。長生きしてほしいものだ。
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逆説の日本史16  井沢元彦 小学館

2010-07-03 08:21:34 | Weblog
 シリーズ16冊目のタイトルは「水戸黄門と朱子学の謎」。腰巻には、「家康の遺言」に秘められた水戸黄門への密命!幕末尊王攘夷思想のルーツに迫るとある。資料の桎梏によらない素人の自由な想像力で毎回楽しく読ましてもらっているが、今回は水戸光圀と保科正行の生涯を解説した第一,二章が面白い。
 光圀は水戸学創始の人物とみなされているが、水戸学とは簡単にいえば、天皇を絶対的忠誠の対象とする学問で、本来徳川幕府の側からするとあり得ない考え方だが、これがそもそも家康の考えだという。著者曰く、徳川家の始祖家康は水戸家を一種の「保険」と考えていた。これは一言で言えば、万一徳川将軍家と天皇家が敵対した場合、水戸家は徳川一門と歩調を合わせず、単独で天皇家に味方する。そうすれば、どちらが歴史の勝者となっても、徳川一族の「血」は残る、というものだと。この密命に著者は相当自信を持っているようだ。
 現に光圀の正室は関白近衛家の娘であった。そして極めつけは15代将軍徳川慶喜だ。彼の父は水戸斉昭で母は有栖川宮家の吉子、つまりバリバリの皇族なのだ。これで、慶喜が勝てるはずの鳥羽・伏見の戦いで薩長側が「錦の御旗」を立てて来たために、あっという間に腰砕けになって軍艦で大坂から江戸まで逃げたことが理解できる。公家のへっぴり腰のDNAが慶喜の体内に巣食っていたのだ。これじゃ薩長と戦などできるはずがない。結局大政奉還となり、天皇家の血が入った将軍によって徳川家は崩壊したのである。家康も墓場の蔭で悔しがったことであろう。慶喜はその後、のうのうと二人の若い妾と明治の世を生き、畳の家で天寿を全うした。これも公家の血のなせるわざか。
 そして第二章の保科正之の伝記では、彼が神道と朱子学の合体を進め、山崎闇斎の弟子として独特の政治感を持っていたことが説かれている。彼は遺言に「神式で葬儀をせよ」と書いたが、幕府の定めた「国教」は「神仏混淆教」であり、それによれば、葬式は仏式でなければならなかった。それで彼の死後争いが起こったという。「神仏習合」は日本の文化だが、幕府と朝廷が共存すろのも「朝幕習合」と言うべきもので、それが明治維新によって幕府が分離消滅することで壊れた。神仏分離令はそのことを端的に示し、廃仏毀釈は理の当然という指摘も説得力がある。
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