扱われているのは、釜に煮えたぎる湯の中に手を入れ、火傷の状態で判決が下される「湯起請」と赤く熱した鉄片を握る「鉄火起請」の二つ。前者は室町時代に後者は江戸初期に行われた。古代には明神探湯(くかたち)があり、いずれもこの流れを汲むものである。神仏に罪の有無や正邪を問う裁判(神判)は前近代の世界各地で広く見られるものだ。日本ではこの神判は犯人探し型と紛争解決型があり、鉄火起請の場合では八割が紛争解決型の事例であることを著者は調べている。特に村落間の山野の用益権をめぐる紛争に多く適用されているのが顕著な例で、その実施率は極めて高い。湯起請も裁判が不利になるとこれに持つ込まれることが多かったらしい。
では熱湯に手を入れたり、焼けた鉄片を握り、火傷の有無で判決が下される過酷な裁判を、なぜ人びとは支持したのか。その理由として、政治権力の未成熟とそこから起こる「衆議」と「専制」の対立、土地や領地が口約束から文字による成文化への変化すなわち「文書主義」と「音声主義」の対立があり、為政者、被疑者、共同体各々の思惑で神慮に名を借りた合理的精神が見え隠れするとの指摘は誠に面白い。神慮の名のもとに上手な痛み分けをするのである。決定的な対立を忌避する知恵がある。これは喧嘩両成敗の思想とつながると著者は言う。
あとがきで、著者はすしの鉄火巻は鉄火起請から来ていると言っている。海苔で巻かれた赤いマグロは焼けた鉄片そのものだと。また博打場を鉄火場と言うのも同様だと言っている。博打も神判も人為を超越しているという意味で言われてみれば共通性がありそうだ。
弱体な政治権力は湯起請や鉄火起請を伝播させたというから、昨今の民主党政権も民意を聞くことなどやめて神判で普天間基地問題を解決したらどうか。
では熱湯に手を入れたり、焼けた鉄片を握り、火傷の有無で判決が下される過酷な裁判を、なぜ人びとは支持したのか。その理由として、政治権力の未成熟とそこから起こる「衆議」と「専制」の対立、土地や領地が口約束から文字による成文化への変化すなわち「文書主義」と「音声主義」の対立があり、為政者、被疑者、共同体各々の思惑で神慮に名を借りた合理的精神が見え隠れするとの指摘は誠に面白い。神慮の名のもとに上手な痛み分けをするのである。決定的な対立を忌避する知恵がある。これは喧嘩両成敗の思想とつながると著者は言う。
あとがきで、著者はすしの鉄火巻は鉄火起請から来ていると言っている。海苔で巻かれた赤いマグロは焼けた鉄片そのものだと。また博打場を鉄火場と言うのも同様だと言っている。博打も神判も人為を超越しているという意味で言われてみれば共通性がありそうだ。
弱体な政治権力は湯起請や鉄火起請を伝播させたというから、昨今の民主党政権も民意を聞くことなどやめて神判で普天間基地問題を解決したらどうか。