読書日記

いろいろな本のレビュー

ハンチバック 市川詐沙央 文藝春秋社

2023-10-19 10:23:13 | Weblog
 本書は第169回芥川賞受賞作で、作者の市川氏の経歴が話題になった。彼女は、1979年生まれの44歳で、筋疾患先天性ミオパチーという難病(小説のタイトルはこれに由来する)により、人工呼吸器を使用しているために発話に体力を使い、リスクもあるとのことだ。朝日新聞のインタビュー記事によると、病気は幼い時から判明していたが、14歳のとき体調不良のため入院して以来、療養生活という名の引きこもり状態になった。このままではという思いがあり、自分にできることは小説を書くことだと考え作家を目指したとのことである。同時に早稲田大学の通信課程に入り、卒業している。最初は純文学は書けず断念し、女性向けのライトノベルやSF、フアンタジーの賞に20年間応募を続けた。この度本書で、文学界新人賞と芥川賞を受賞した。文章はエッジが利いていて、適度のユーモアもあり、作者の聡明さが窺われる。これは私小説ですかとの問いに、自分と重なるのは30%と答えている。

 小説の主人公井沢釈華は作者と同じ病気で、両親が終の棲家として残してくれたワンルームマンションを一棟丸ごと改造したグループホームで暮らしている。背骨が極度に湾曲しているために常に息苦しく、読書もままならない。「息苦しい世の中になった、というヤフコメ民や文化人の嘆きを目にするたびに私は『本当の息苦しさも知らない癖に』と思う。こいつらは30年前のパルスオキシメーターがどんな形状だったかも知らない癖に」とイラつく。また「このグループホームの土地建物は私が所有していて、他にも数棟のマンションから管理会社を通して家賃収入があった。親から相続した億単位の現金資産はあちこちの銀行に手つかずで残っている。私には相続人がいないため、死後はすべて国庫行になる。(中略)生産性のない障害者に社会保障を食われることが気に入らない人々もそれを知れば多少なりとも溜飲を下げてくれるもではないか?」と健常者にカウンターを浴びせる。この資産の話は30%に入っているのだろうかと興味が湧いた。というのも私は彼女の経歴を知って、少しでも印税が入ればと思って本書を購入したからだ。彼女が知ったら「薄ぺっらい同情なんかするんじゃねーよ。こちとらと金持ってらー」と啖呵を切られそうな気がする。本当なら林家三平じゃないが「どうもすみません」と言うしかない。

  主人公釈華は十畳ほどの部屋から某有名私大の通信課程に通い、しがないコタツ記事を書いては収入の全額を寄付し、18禁TL小説をサイトに投稿し、零細アカウントで「生まれ変わったら高級娼婦になりたい」と呟く。この項について本文では、貧しい小学校の同級生たちについて「あの子たちのレベルでいい。子供ができて、堕ろして、別れて、くっ付いて、産んで。そういう人生の真似事でいい。私はあの子たちに追い付きたかった。産むことはできずとも、堕ろすところまでは追い付きたかった」と書いている。障害者の視点でこのように性的な問題をはっきり述べたのは今まで無かったのではないか。これも健常者に対するカウンターである。障害者にとって一番大事な問題を隠蔽してきたことへの抗議だ。ところがある日、グループホームのヘルパー田中にツイッターのアカウントを知られていたことが発覚する。そこで田中とのやり取りがあって、田中との性行為が展開されるのだが、その部分は割愛。

 この63ページの小説は作者によると「自分としてはせいぜいオートフイクション。重なるのは30%という感覚です」ということだが、障害者の本音をぶちまけたという点で斬新で、物語としても破綻がない。芥川賞の本家、芥川龍之介の作品に通じるエスプリがある。芥川龍之介は短編の名手であるから、芥川賞はこの流れに沿って選ばれていることを改めて確認できた。冗漫な新聞小説ではだめなことははっきりしている。