読書日記

いろいろな本のレビュー

ウイグル人に何が起きているのか 福島香織 PHP新書

2019-07-29 14:47:13 | Weblog
 ウイグル騒動から今年で10年、その現状を元産経新聞記者が報告する。旅行者としての立場からは、下川裕治氏の『シルクロード中央アジアの旅』(角川文庫)があり、中国当局の旅行者に対する検閲の厳しさと回数の多さををレポしていた。バザールに入るのも身体検査があり、監視カメラで見張っている現状はウイグル以外でも以外にも見られるが、ここは特に厳しいようだ。テロ防止の名のもとに水も漏らさぬ監視状態が続いている。
 特に悪名が高いのはウイグル人を再教育するという名目で、100万人もの人間が収容所に送られて拘束されているという事実だ。当局は職業訓練・中国語教育をやっているというが、強制収容所に近いことは間違いない。これを指導しているのが新疆ウイグル自治区書記の陳全国という人物で、習近平の三大酷吏(悪代官)の筆頭と言われている人物だ。後の二人は、北京市の書記の蔡奇、江西省書記の劉奇で、いずれも容赦ない手口で庶民を迫害して搾取する政策を実施している。こういう手合いを習近平は高く評価し、出世を餌に彼らに悪だくみの限りを尽くさせているようだ。習近平自身は最高指導者の定年を取っ払って、毛沢東のように死ぬまでその地位にしがみつこうとしているが、今トランプ大統領に米中経済摩擦で煮え湯を飲まされており、この先経済問題で地位が危うくなる可能性もある。そこで、人民の目をそらすために経済問題と内政問題をミックスした一帯一路構想の実現に躍起となっている。その中で、特に領土問題に活路を見出すべく、台湾・香港に対する強権的政治姿勢を見せている。特に台湾については、統一に武力行使も辞さないというコメントを習近平は出しており、アメリカをけん制している。
 その習近平のご機嫌をとるために陳全国はウイグル人の中国人化を着々と進めている。彼はウイグルに来る前はチベット自治区の書記としてチベット人を弾圧してきた前歴があり、その手法をウイグルでやれと命じられたのであろう。元々民族的にも宗教的にも中国とは異質なウイグルを中国化することはどう考えても無理があるのだが、あえてその暴挙を実践しようとするのが共産党の書記である。ウイグルの伝統、文化、習俗、歴史の否定は全体主義の最も悪しき本質である。これが中華復興の夢とは笑わせる。陳全国の策謀の具体例は本書で確認してもらいたいが、こういう理不尽がまかり通るということは、今や共産党政権は歴代王朝の中でも最も危険なものになりつつあることの証左である。この先百年、二百年と続くのであろうか。
 ジョージ・オーウエルは『1984』で、全体主義の恐怖を描いたが、今やそれが中国で実現しつつある。ビッグブラザーが習近平で、ニュースピークが北京語(普通話)というアナロジーになろうか。さらに監視カメラがついてくる。でも、庶民をないがしろにした全体主義の末路は悲しい結末を迎えることを我々は知っている。ムッソリーニはパルチザンに射殺され、その死体は蹴りあげられ、顔は原形をとどめない位腫れあがり、あげく愛人ペタッチと共にミラノの広場に逆さまにつるされた。ヒトラーはソ連軍がベルリンのナチス本部に迫るなか、愛人のエヴァ・ブラウンと自殺した。このように権力を握った者はその権力の行使の快楽に酔った分だけ、その責任を問われることを覚悟する必要がある。
 本書は地道な取材による、真摯な記述で好感が持てた。続編を期待する。

兵士というもの ゼンケ・ナイツエル ハラルト・ヴェルツアー みすず書房

2019-07-16 19:10:58 | Weblog
 副題は「ドイツ兵捕虜盗聴記録に見る戦争の心理」というもので、第二次世界大戦中の英米軍が捕虜にしたドイツ兵の収容所に盗聴器を仕掛け、詳細な記録を取っていたのを、歴史家のナイツエルと社会心理学者のヴェルツアーが分析したものである。その際、個人の行動主体性よりも、「参照枠組み」という集合的概念を重視しているのが目新しい。「参照枠組み」とは人間の認識や行動において目前の状況に対処するための解釈基準のことで、民族や宗教等においてそれぞれの構成員は、その集団の枠組みから自由ではないという考え方である。
 するとドイツ軍においてはナチスの党首ヒトラーのもとでのユダヤ人やスラブ人に対するジェノサイド志向(ナチズム)が、兵士に虐殺を実行させた要因になったということになる。著者は言う、「人間が他の人間を殺すという決断を下すためには、自分の存在が脅かされていると感じ、さらに(もしくは)暴力が正当なものとして要求されているように感じ、さらに(もしくは)それに政治的、文化的もしくは宗教的な意味があると考えていれば、それで十分である。これは戦争における暴力行使だけでなく、他の社会状況においても言える。従って国防軍兵士たちが行使した暴力は、イギリス兵やアメリカ兵たちが行使したそれよりも「ナチ的」だったわけではない。どんな悪意をもってしても、軍事的な脅威であるとは定義しえないような人々を意図的に絶滅するために暴力が行使される場合にのみ、それを特殊ナチ的なものであるということができる」と。これは「訳者あとがき」で小野寺拓也氏が「ドイツだから、ナチだからというよりも、兵士であれば基本的にはどの戦場でも起こりうる問題だという普遍主義的な色彩がある」という風にコメントしているのが印象的だ。ホロコーストの主原因はナチスの反ユダヤ主義だというのと、ドイツ軍隊内の「強い男」という組織の規範への同調圧力が主原因だという論争は昔からあるが、本書では、兵士たちの赤裸々な殺人のありようから、個人の内面を心理学的に考察した部分があるがこれが今後の議論を深めるきっかけになる可能性がある。
 それは、「認知的不協和」あるいは「感情的投資」という議論である。小野寺氏曰く、これをナチ体制に当てはめると、ヒトラーに対する崇拝を続けた人間は、戦況が悪化してもその崇拝がやめられない。なぜなら現実を認めて総統の能力や力を疑うことは投資された感情をあとから無効にするものだからだ。そこで、戦局の悪化が「影武者との入れ替わり」というような荒唐無稽な論理で説明されたりするのだ。そして兵士たちはナチというプロジェクトに余りにも感情を「投資」してしまっていたので、そうした希望を諦めることは、いままでの戦闘やあらゆる感情的投資を一挙に無効にしてしまいかねない。だから人々は希望や願望にしがみついた。なぜ人々はヒトラーやナチ体制と自らを一体化させていったのかという問題を「普通の人々」から考える上で重要な示唆をあたえる議論だと。
 それにしてもドイツ兵捕虜たちが盗聴されているとも知らず赤裸々に、殺人の快感を語る場面には震撼させられる。兵士の仕事だからと言ってしまえばそれまでだが、戦場における殺人も含めて暴力というものをもっと研究する必要がある。