読書日記

いろいろな本のレビュー

鳥羽伏見の戦い 野口武彦 中公新書

2010-02-06 10:49:25 | Weblog
 慶応四年(1868)1月3日から6日にかけての4日間の戦いで徳川幕府は崩壊への道を転げ落ちる。『戊辰戦争』については歴史書で言及されることが多いが、「鳥羽伏見の戦い」については軽視される現状を憂いて書いたのが本書である。例によって広汎な資料を渉猟し、幕府軍が薩摩・長州藩を中心とする官軍に敗れる様子を克明に描いている。特に著者が力を入れているのは、幕府軍が負けたのは銃砲の性能が悪かったからだという俗説を正す第二章だ。
 幕府軍の一部には「フランス伝習兵」と呼ばれる最新装備の部隊があった。彼らが使用した鉄砲が。フランス製のシャスポー銃で元込め式の最新兵器だった。著者はこの銃が鳥羽伏見の戦いで使用されたことを証明している、伏見奉行所に立てこもって奮戦した伝習兵の記録から推察したものだが、証明せずんばあらずの気迫がこもっていて読みごたえがある。幕府軍・官軍の歩兵による激戦で400余りの戦死者が出た。幕府軍が兵の人数で圧倒していたにもかかわらず負けたのは指揮官の弱腰が原因だ。そもそも総司令官の徳川慶喜が逃げ腰で、前代未聞の大阪城からの逃亡をやってのけたのだからあいた口がふさがらない。著者はこの弱腰の将軍を大いに皮肉っている。曰く、慶喜には肉体的勇気が欠けていたと。そんな弱腰の司令官に戦争させられる兵士はたまったもんじゃないという憤懣を兵士に成り代わって述べている。まさに鎮魂の書だ。
 鳥羽伏見の戦いに敗れた慶応四年(1868)に慶喜は32歳。明治の時代をまるまる生き抜き、大正二年(1913)に77歳で世を去った。戦場で虫けらのごとく死んで行った兵士との落差はまさに理不尽の一語である。彼はこの戦いを反省したのかと著者が問いかけている。閑居の中で最も充実させるべき時代を若い妾たちと過ごす中で、何度もあの時ああしていれば、こうしていればということはあったであろう。しかし、生来の弱気が最後まで祟った。無能な指揮官を頂いたときほど、兵士にとって不幸なことは無い。これは組織全般に共通する問題である。

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