ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

底知れぬ泥沼

2022-12-26 08:10:43 | 日記・エッセイ・コラム
何度でも言う。
言葉とは線を引くもの。
ものごとに線を引き、それを二つに分ける。
それはそれとそれ以外を分ける。
少しの違いを感得して。
でもそも繋がっている。
ものごとはすべて繋がっている。
それを無理に分けるのである。
そして分かったような気に。
それが言葉の機能であり特徴である。
線を引いても現実は変わらない。
現実は分断できないのです。
言わずもがな、
・・・・・
にも関わらず、
分断しようとする者らがいる。
実はちょっとした違いなのに、
それを絶対的な違いに見せて。
その方がより分かったような気になれるから。
為にものごとを対立関係で捉える。
そしてその挙句、
気に入らない方を徹底的に否定し、
終には消してしまう。
かくて現実がどんどん小さくなる。
なるほど分かりやすくなるだろう。
でもこれはマジックである。
現実はまんまなのだ。
これを仮想や方便とするなら、
それは一興だろう。
だがこれを真実だと言えば、
それは虚となる。
現下はこの事態が蔓延している。
排除したく思えば、
そこに線を引いて対立関係を創り、
一方を否定する、それも徹底的に。
ときに用いる便利な言葉がある。
それが差別(→反対)である。
この言葉を持出し連呼する。
大きな声では言えないが、
それがリベラルである。
そこはもう嘘のやま。
どうしようもない。
・・・・・
シナや韓国には「まこと」がない。
というより嘘と真の区別がない。
中華思想とはそういうものだ。
すべてが自分の都合である。
字義がそれを示している。
中華という文字がです。
だから私から見れば、
もう嘘ばかりです。
それが日本に上に立たれたのだ。
癪に障るのは分かるとして、
嘘の上に嘘を重ねての、
この反日三昧には、
あきれ果てる。
なのにです、
日本人でありながら、
日本に嫌悪感を持つ者がいる。
その上ときに無用の謝罪をもするのだ。
彼ら彼女は分からないのです、
自分が何をしているのかが。
今は亡き祖父母らを貶め、
足蹴にし唾を吐くのだ、
そも嘘なのにである。
しかもそれは彼の地のまともな人らを、
同時に貶めることにもなる。
これが今のリベラル人士である。
でも思えば大方は善良な人々なのだ。
むしろ善良過ぎるのかも。
それが利用されている。
これが泥沼なのです。
善良なる無知は、
無知なる善良は、
これはもう底知れぬ泥沼となる。
何とか言ってよ、
「さゆり」さん「ようこ」さん。
そこはダンマリですか。
いやはや、
・・・・・
ここで言葉をふたつ。
ひとつは、
イエスの言葉。
 天なる父よ、
 彼らをお赦しください、
 彼らは自分が何をしているのか、
 分からないのです。
ひとつは、
親鸞の言葉。
 善人なおもって往生を遂ぐ、
 いわんや悪人をや。

チ~ン(浄化音)

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